日本は日本であって日本ではない

この記事の三行要約

  • 戦前・戦中の日本は現代日本と制度・権力構造が全く異なり、国民の意思や自由は大きく制限され、軍部と財閥が支配していたため、現代の価値観で「国民の総意」として語るのは誤り。

  • 選挙権は長く制限され、「見せかけの民主化」の裏で言論統制・弾圧が徹底され、軍部は政府を無視して独断行動や政治テロを行い、文民統制も機能していなかった。

  • 過去の日本を現代日本と同一視して擁護・批判するのは感情的で危険であり、客観的評価のためには別物と切り離して捉える必要がある。

まるでバカボンパパのようなタイトルですが、読んでもらえば真意はわかってもらえると思います。

現代の日本人が過去の日本の歴史を見る場合、あまりに知識がなさすぎておかしな方向に引っ張られてしまう事例があいついでいます。

「日本は悪くなかった」というのがその典型例なのですが、その「日本」と、あなたが今現在いる「日本」とは無関係です。この声明は少々大胆だとは思いますが、ここではあえてそう断言しておきます。

「日本は悪くなかった」という場合の「日本」という言葉は、一体何を指しているのでしょう?

実際に、「過去の日本」と言うとき、その「日本」とは、「日本(現代)」と同じものではありえません。この点を脇に置き、ごまかして話をするデマゴーグには本当に辟易しています。

何を言いたいのかわからない?では以下を読んでくださいね。

 

現在の日本

現在の日本では18歳以上の男女に選挙権があります。被選挙権、立候補できるのは、議員の種類にもよりますが、25歳か30歳です。そして、言論の自由が憲法で保障されています。犯罪でない限り(ここは様々な要件があると思いますが、何が犯罪的かは細かく書かなくてもわかりますよね?)、何を言おうが自由で、それにより世間様に対して影響を与えることができますね。特に立候補せずとも投票に行かなくても国民の意識に影響することができます。

現代日本は国民主権の民主主義ということになっており、その国民の総意を国の方針にすべく代議制がとられていますね。代表者を選んで代わりにやってもらうわけです。ですから、形式的には、この国の行うことは国民の意思の反映ということになっています。これが国民主権の意味です。何事も決めるのはあくまで国民であって、国じゃありません。。。ということになっています。

もちろん、これが全く形骸化していることは良くご存知でしょうけれども。例えば、我々は官僚を選出していませんが、様々な場面で彼らが主導権を握っています。政治家は政治家で、何らかの力のある者の言いなりになることが多いようです。

もう一度言いますよ、現在の日本では何を言おうが自由で、国が何をするかは国民の総意によります、少なくとも形式的には。

なぜこんな誰もが知っているようなことをくどくど確認したかと言えば、この国の過去と現在の違いをまるで理解できておらず、言及もせず、一切の知識も持たずに過去の「日本」について語ろうとする人があまりに多すぎるからです。

具体的には、「日本が過去にあれこれした、あるいはしなかった」というものですが、ここで安易に「日本」という言葉を使ってしまいます。そして、この「日本」なる言葉の意味が過去と現在で同じであることを前提としてしまうのです。もちろん、それ以外の適当な言葉が見あたらないのも事実ですが。

しかし、過去の日本は、現在の日本とは、そもそも全くの別物です。同じ名前がついているだけであって本質的に別の物なのです。現在の視点から、それとは別のものを語ってしまっています。それがこの種の議論の大きな落とし穴なんですが、誰も気づいていないようです。

そしてときには、この事実を故意に無視し、「日本」という言葉を使ってみせるようです。これはインチキ手品の類です。

過去の選挙制度

過去の選挙制度はどうだったでしょう?そこのあなた知ってましたか?私も今回ちゃんと調べてみて驚きましたよ。

実は詳細も書いたのですが、あまりに長いので割愛します、すぐに調べられることでしょうし。要点は以下です。

  • 1890年:満25歳以上の男子で年額15円以上の納税者のみ。全国でわずか1%
  • 1900年:納税要件を 直接国税10円以上 に引き下げ。全国で2%
  • 1919年:納税要件を 3円以上 に大幅引き下げ。全国で5%
  • 1925年:納税要件撤廃。満25歳以上の男子。
  • 1945年(GHQの指示):満20歳以上の男女

さて、こういった状態だったにもかかわらず、「戦前戦中の日本が行ったことは民意の反映」と言えますか?「ひいおじいちゃん・おばあちゃんたちが、国の方針に賛成していた」と言えますか?その行いが良いにせよ悪いにせよ、「国民の総意でやった」と言えますか?まるで言えませんよね?

特に1925年の改正の時点でさえ、女性には選挙権がなかったのです。GHQが乗り込んでくるまでは、女性は「(民主主義国家における)国民の扱いではなかった」のです。形式上でさえ、国民のおそらくは半分の意思が無視されていたのです。

制限選挙を緩和してきた理由

上述のように1890年の選挙権は国民の1%程度だったのが、1925年にはおおよそ半分になりました。ふと思って、この理由をAIに聞いてみました、「帝国憲法下で制限選挙を緩和していった事情としては、諸外国の状況を鑑みて『民主国家』のフリをする意図があったのでしょうか?」。


はい、その意図はあったと考えられます。

帝国憲法(明治憲法)下での選挙制度の緩和は、単に国内の民主化要求や都市中間層の拡大による圧力だけではなく、対外的イメージ戦略の側面も持っていました。特に大正期から昭和初期にかけては、次のような事情が重なります。

  • 国際社会での「文明国」アピール
    • 明治以来、日本は列強の仲間入りを果たすために、欧米型の制度を形だけでも整えることに注力しました。
    • 外交の場では、「国民代表制を持つ立憲国家」であることを示すことが、文明国・平和的国家としての資格を証明する手段とされました。
    • 日清戦争後・日露戦争後の国際交渉や、パリ講和会議(1919)や国際連盟加盟の際にも、民主的制度の存在は政治的信用の一部とされました。
  • 普通選挙の国際的潮流
    • 第一次世界大戦後、欧米では普通選挙の拡大が進みました(イギリス1918年、ドイツ1919年、米国1920年など)。
    • 国際連盟の設立や民族自決の原則の流行に伴い、「民主的選挙制度」を持たない国は、国際的に後進的と見られやすくなりました。
    • 日本は国際連盟常任理事国として、欧米列強と並ぶ体裁を整える必要がありました。
  • 国内統治の安定化と外面の使い分け
    • 大正デモクラシー期の政党政治の高まりや労働運動・普通選挙運動の圧力は無視できず、一定の譲歩は必要になりました。
    • 1925年の普通選挙法(男子25歳以上全員)も、国内的には運動へのガス抜き効果、国際的には「民主国家」の体裁を整える効果がありました。
    • ただし同年には同時に治安維持法が制定され、思想・言論の自由は厳しく制限されました。
      → つまり外面は民主的でも、内実は強権的統制が維持されていました。

帝国憲法下での制限選挙緩和は、

  • 国内:社会運動の高まりへの譲歩
  • 国外:列強としての体裁保持・「民主国家」演出

の両面から進められたといえます。特に1920年代以降は、民主的な外見と抑圧的な実態が併存する「見せかけの民主化」という性格が強くなりました。


ということですね。特に最後のまとめは重要でしょう。「民主的な外見と抑圧的な実態が併存する『見せかけの民主化』」ということです。

言論弾圧

こういった制限選挙は、当然ですが「支配層」に都合が良いですね。当初は「金持ち」にしか選挙権がない状態ですから、彼らの望む政治が行われることになります。この点は形式的にも明らかです。

この制限選挙が徐々に緩和されましたが、AIの意見としては「見せかけの民主化」であると。しかし、話はもっと悪くなります。実際には「見せかけの民主化」どころの話ではないことがわかってきますよ。

後述しますが、これらの制限緩和の動きと逆行するように言論弾圧のための法律が整備されていったのです。内務省・警察・特高が何をしてきたかをAIに聞いてみます。


ざっくり言うと、「国体(天皇主権)と私有財産制を脅かす」と見なした思想・運動を広く対象に、法制度と警察力で事前・事後とも徹底的に抑え込みました。

  • 何を対象にしたか(主なターゲット)
    • 社会主義・共産主義・無政府主義
      =「国体変革」「私有財産制度の否認」に当たると解釈。
    • 労働運動・農民運動
      スト・団交・小作争議の指導部や団体。
    • 反戦・平和運動/リベラル学説
      例:1935年の天皇機関説攻撃、1933年の滝川事件(学問への介入)。
    • 植民地の民族運動
      朝鮮・台湾の独立運動、在日朝鮮人団体など。
    • 出版・報道・表現
      新聞・雑誌・映画・演劇・講演。
    • 国家神道と抵触した宗教・新宗教
      例:創価教育学会(のち創価学会)への弾圧(1943)。
  • どう取り締まったか(法律・制度の柱)
    • 治安警察法(1900):集会・結社・労働運動・女性の政治活動を制限(1922一部緩和)。
    • 新聞紙法・出版法:事前検閲・発売禁止・発禁処分。
    • 治安維持法(1925):結社・思想の取締りの中核。1928改正で死刑規定、団体処罰を強化。1941改正で予防拘禁を導入。
    • 思想犯保護観察法(1936):出所後の保護観察(実質的監視)。
    • 国家総動員法(1938)/情報局(1940)/言論出版集会結社等臨時取締法(1941):報道・言論統制の一元化。
    • 宗教団体法(1939公布・1940施行):宗教界の統制。
  • 実際の手口(内務省・警察・特高)
    • 内偵・監視:潜入・尾行・郵便検閲・盗聴、台帳管理。
    • 一斉検挙・家宅捜索:例)3・15事件(1928)、4・16事件(1929)など共産主義者・容疑者の大量逮捕。
    • 長期勾留・厳しい取調べ、起訴・有罪化のための自白獲得。
    • 「転向(てんこう)」強要:思想放棄の陳述と引き換えに減刑・釈放、出所後は保護観察。
    • 発禁・発売禁止・紙面差止め、講演禁止、映画検閲。
    • 学園・官界への介入:教授罷免、教科書・講義内容の統制、人事圧力。
    • 団体解散・政党解消:労組・左派団体の解体、のち翼賛体制への編入(1940〜42)。
    • 予防拘禁:刑期満了後も再犯のおそれで無期限拘束が可能に(1941〜)。
    • 植民地での弾圧拡大:朝鮮・台湾でも同様の法運用・特高活動。
  • 帰結
    • 形式的には選挙・議会が存在しても、思想統制と組織破壊で対抗勢力を制度的に無力化。
    • 議会・世論の牽制力が弱り、軍部と官僚主導の意思決定が通りやすくなった

ということで、選挙権もまともになく、あったとしても社会を牛耳る者に有利なようにできており、さらには言論の自由などなかったのです。簡単に言えば、統一協会の悲願は参政党が実現しますで書いたような、1987年までの韓国のような状態だと思えば良いでしょう。

最後の部分は特に重要ですね。

  • 形式的には選挙・議会が存在しても、思想統制と組織破壊で対抗勢力を制度的に無力化。
  • 議会・世論の牽制力が弱り、軍部と官僚主導の意思決定が通りやすくなった

つまり、当時の「日本国民」は、ごくごく簡単に言えば「支配層」に尽くすための奴隷状態だったのです。自分たちで物事を決められず、意見の表明もできないのですから。

そして、当時の「支配層」が「日本」という国をどっちの方向に向けるかを勝手に決めていたのです。

これだけを見ても、現在の「日本」と当時の「日本」がまるで異なるものであり、現在の「日本」を前提とする視点で過去の「日本」を論じることがいかに不当なことであるか、いかに危険であるかは理解できるというものでしょう。

言論取締法

そしてまたぞろ、極めて愚かな人が「治安維持法は、日本を共産主義の脅威から守るためだった」などという絵空事を述べて導入を訴えていますが、実際にはどうだったでしょうか?

結論から言えば、きちんとした選挙で選ばれたわけでもない「政府」の気に入らない人間であれば誰でもかれでもしょっぴいていたんです、共産主義者だけではありません。


治安維持法(1925)は「国体変革」や「私有財産制度否認」を目的とする結社・参加を処罰する法律で、運用は共産主義者に限らず広がりました。条文上の射程自体が広く(国体・私有財産)→解釈が拡張され、30年代には「帝国秩序に挑戦する」と当局がみなした人々へ適用されました。

共産主義者以外での主な適用例

  • 社会主義系・労働運動・支持者
    1928年の三・一五事件では、共産党員だけでなく社会主義者やその同調者も一斉検挙(全国で1,652名逮捕)。
  • 宗教団体
    1941年改正で宗教団体も法の対象に。たとえば 創価教育学会(牧口常三郎・戸田城聖ら)は1943年に治安維持法違反(ほかに不敬罪等)容疑で逮捕されています。
  • 学者・知識人
    反体制的とみなされた学者・編集者も検挙対象に。たとえば思想雑誌等で反ファシズムを唱えた中井正一は治安維持法違反容疑で逮捕の経歴があります。
  • 植民地の反日・民族運動/言語文化団体
    朝鮮では朝鮮語学会事件(1942)で、言語研究団体の関係者が治安維持法違反容疑で逮捕・拷問を受けたとされます。法は帝国全域で運用され、反植民地運動にも適用されました。

規模感
1925〜45年の逮捕者は累計7万人超(起訴は約1割)とされ、適用は帝国本土・植民地を含め広範でした。

要するに、治安維持法は共産主義の取り締まりが入口でしたが、実際の運用は社会運動・宗教・学問・植民地の民族運動など、当局が“秩序への脅威”とみなした幅広い相手に及びました。


で、この法律だけではないんです。当時の「政府」は何が何でも「日本人」の言論を取り締まりたかったようですね。


戦時期の言論統制は、複数の法律・勅令と官庁(内務省・情報局・特高)を束ねた“網”で行われました。要点だけ挙げます。

  • 治安警察法(1900):集会・結社・政談集会などを広く警察が制限・解散できる枠組み。女性や未成年の政治参加禁止(のち一部緩和)なども規定。戦時まで基盤法として機能。
  • 治安維持法(1925):いわゆる“思想犯”取り締まりの中核。1928年改正で重罰化、1941年改正で予防拘禁など手続強化。
  • 新聞紙法(1909)・出版法(1893):新聞・雑誌・書籍の発禁・差押え等の法的根拠。戦前から戦時まで言論抑制の柱。
  • 国家総動員法(1938)→ 新聞紙等掲載制限令(1941):総動員法第20条=言論統制条項に基づき、記事の掲載禁止・差押え等を勅令で具体化。さらに新聞事業令(1941)で新聞社の統廃合・廃止命令まで可能に。
  • 言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941):戦時の包括的統制法。政事結社・政治集会や新聞・出版を許可制・厳罰化し、翼賛体制の実務ツールに。
  • 映画法(1939):脚本段階からの事前統制・製作・興行の許認可で映像表現を統制。
  • 情報局(1940):新聞・出版・放送の所管を束ね、紙の配給統制や記事介入で実質的な検閲を運用。
    (関連)軍機保護法(改正1937)など軍事秘密保護法制:軍事・国防情報の報道や取材を重罰で抑制。

つまり、治安警察法+治安維持法は重要な二本柱ですが、実際にはこれらに新聞・出版・映画・総動員法系の勅令、そして情報局の運用が重なって、戦時の言論空間を広範に締め付けていました。


これでは「政府」のやり方に反対どころか、何かしら意見を言うことさえできないわけです。

ここまで読めば、現代「日本」を前提として過去の「日本」を語ることがいかにおかしいかわかりますよね。

誤解を恐れずにごく簡単に言ってしまえば、一応は民主主義の形をした、実際には独裁恐怖政治を敷くこの「政府」に対し、日本人はクーデターを起こすべきだったのです。

しかし、この「政府」があまりに愚かであちこちでやりたい放題・非道行為を行い、しかし大負けしてしまい、事態を重く見たGHQが「日本国民の代わりにクーデターをやってくれた」というのがごく普通の解釈ではないですか?

何度でも問いますが、この独裁国家について、現代日本の視点で語ることがいかにおかしなことかわかるでしょうか?

 

誰が日本の向かう先を決めていたのか?

ここまでで、じわじわとわかってくることでしょう、この当時の「日本」という国は、国際社会に対して「民主国家」のフリをしつつ、特定の「支配層」が好き勝手を行い、歯向かう者を根こそぎにしていたのです。一般庶民はそれに尽くすための奴隷扱いでしょうね。

では、一体誰がこの過去の「日本」なる国の行き先を決めていたのでしょう?つまり、「支配層」は誰かということです。何度でも書きますが、この「国」の主人公は形式的にも「国民」ではなかったのです。

で、この支配層の頂点は、端的に言えば軍部です。もちろん、そんなものを一般庶民がどうこうできるものではないことは、いい加減に理解できますね?軍部にご意見などできないことは理解できるでしょう?

柳条湖事件

例えば、1931年の柳条湖事件を見てみましょう。これもまた詳しく書くと長くなってしまうので、要するにこういうことです。

満州を占領したいがために軍部が政府の許可を得もせずに勝手に「攻撃されたー」という自作自演の爆破事件を演出し、それを口実として満州事変が起こりました。中国軍を攻撃し、奉天を占領し、満州全域に軍事行動を拡大し、最終的に満州国を建国したのです。

要するにですね、相手のショバが欲しいがために、わざと転んで相手のせいにしてボコったということですよ。まるでヤクザです。

もちろん、こんなことをした理由は様々あるようです。


  • 戦略・安全保障:「満蒙は日本の生命線」「対ソの防波堤」という発想。南満州鉄道と居留民の“保護”を口実に、自前の緩衝地帯(のちの満州国)を作りたかった。
  • 経済:石炭・鉄鉱・大豆などの資源・食糧基盤、広い土地と市場、南満州鉄道(満鉄)投資の防衛。大恐慌後の不況と中国の対日ボイコットも後押し。
  • 組織要因(関東軍の利害):参謀の石原莞爾・板垣征四郎らは、短期電撃で全域制圧→東京に事後承認を強いる構想。軍の威信・予算・人事を握るうえで“成功体験”が最短ルートだった。中央の「不拡大方針」を既成事実で無効化。
  • イデオロギー・ドクトリン:アジア的モンロー主義/国防国家論、石原の「最終戦争論」(大陸で工業基盤を築き将来の対英米決戦に備える)といった拡張の理屈。
  • 国際環境の“隙”:国際連盟の弱さ、米国は連盟外、英仏は不況と欧州情勢で手が回らないとの読み。九カ国条約などの縛りはあるが、実力で既成事実を積めば通るという期待。

もちろん、ネトウヨなどは、「日本には資源がないから必要だった」とか「英米に対抗するために仕方なかった」などの理屈を言うでしょう。百歩譲って仮にそれを認めたとしても、独裁政府の中においてさえ勝手に暴走してこんなことをした軍部の擁護を我々がしなければならない理由が一体どこにありますか?

私にはそういった「精神構造」自体が全く理解できないのです。

文民統制はなかった

この点も現代「日本」の視点で見てしまうと、大きく見誤ってしまうポイントです。現在ではあまりに当たり前で誰も口にしないような概念ですが、この当たり前さえも当時はなかったのです。

政府がすべての手綱を握り、軍は勝手なことをしてはならないという、しつこいようですが、当たり前すぎて誰も話題にもしないようなことです。

しかし、逆に言えば、こんなことを話題にせねばならないこと自体が、「日本」が「日本」ではなかったことの証明なんです。


ざっくり言うと「軍事は民選の政治が最終決定し、軍はその範囲で専門的に実行する仕組み」です。
平たく言えば、政治が“何を・どこまでやるか”(目的と制約)を決め、軍は“どうやるか”(手段)を担う。

  • なぜ必要?
    • 武力の暴走を防ぐ(クーデター・独断専行の抑止)
    • 民主的正統性の確保(国民=主権者の意思を反映)
  • どう実現する?
    • 制度:文民による政府・大臣、議会の法律・予算統制、文民による人事・監察
    • 運用:政治が目標と制約を明示、軍は専門判断で計画・実施、情報は双方向で透明化
  • 日本の戦後の要点
    • 憲法66条2項の文民条項、国会の法律・予算統制、内閣(首相・防衛相)による指揮監督、自衛隊法・防衛省設置法での役割分担
  • よくある誤解
    • 文民統制=政治が現場に細かく口出しすること ×
      → 目的・資源配分・ルールを政治が決め、作戦の専門は軍に委ねるのが基本。

一言まとめ:「政治が舵、軍がエンジン」。


で、当時は文民統制という概念がなかったのかと聞いてみますと。


短く言うと、現在の意味での「文民統制(civilian control)」は、戦前日本には制度として成立していませんでした。理念的に近い発想は一部にあっても、法制度の作りと運用がそれを無効化していました。

  • なぜ文民統制が機能しなかったか
    統帥権独立(天皇大権)
    明治憲法は「軍の作戦・指揮(軍令)」を天皇直轄とし、内閣・議会の統制外に置きました。参謀本部・海軍軍令部は首相や外相を介さず帷幄上奏で直接天皇に上申できます。
  • 軍政/軍令の二元体制
    兵站・人事・装備(軍政)は内閣系の陸海軍省、作戦(軍令)は参謀本部・軍令部という分割。議会は主に予算でしか手を出しにくい。
  • 軍部大臣現役武官制
  • 陸海相は現役の将官に限る(1900導入、1913いったん緩和、1936復活)。軍が大臣を出さなければ内閣が組めない/倒せる=実質的な軍の拒否権。
  • 政治慣行・世論操作
    1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる「統帥権干犯」論争に象徴されるように、内閣が軍事に口を出すこと自体が“越権”と攻撃され、抑制が効きにくかった。

とはいえ「全く概念がなかった」わけではない

  • 1910年代~1920年代には政党内閣期があり、軍縮や外交で内閣主導を模索した時期もあります。
    しかし1931年以降の非常時体制・軍部台頭で、そうした芽は急速に後退しました。

要するに、戦前には“文民統制的な発想”を押し返す法制・慣行が強固だったため、柳条湖事件~満州事変のような現地軍の独断先行を止めにくい構造だった、というのが実情です。


再度しつこく確認しておきますよ。この当時は国民の半分に選挙権がなく、言論の自由も存在せず、まがりなりにも国民の半分が選出した政府の意向も聞かずに軍部が独断で勝手なことをしていたわけです。

これでも彼らのやったことを現代の視点から見て「国民の総意ですー」などと言えますか?

 

軍部の腐敗と財閥

そして、軍部が強大な権力を握っていたのです。権力を握れば腐敗するのはいつの世も当然です。まさか、「日本のため、日本人のため」に「軍部がやむなく暴走した」などと考えるのはあまりにナイーブすぎるんですが、そんな人いるんですか?


軍部が暴走的に見える背景には、単なる「性格の問題」ではなく、制度・経済・政治・社会心理が絡み合った構造があります。その中で、兵器産業や財閥とのつながりも重要な要素のひとつです。

  • 制度的要因
    • 統帥権の独立(陸海軍の作戦・用兵は内閣から独立)
      → 文民統制が働きにくく、軍部が独自に外交・戦略を決定し得た。
    • 陸海軍大臣現役武官制
      → 陸海軍が閣僚人事を握り、内閣の存立そのものを左右できた。
    • 二重外交構造(外務省ルートと軍部ルート)
      → 外交方針が統一されず、軍事行動が先行して交渉の足を引っ張った。
  • 経済的要因(兵器産業・財閥との関係)
    • 軍需依存型経済
      1930年代後半、日本の軍事支出は国家予算の半分以上を占めるようになり、兵器・造船・鉄鋼などが大きな発注を受けた。
    • 財閥と軍需
      • 三菱重工:戦艦・航空機(零戦)、造船
      • 三井:弾薬・鉄鋼
      • 住友:銅・金属精錬
        → 軍拡は財閥の利益と直結し、軍部も財閥も軍事拡大を是認する構造ができた。
    • 軍と財界の人的つながり
      • 退役軍人が企業幹部や顧問に就任する例
      • 企業が軍の要望に沿った設備投資を行い、発注を受ける関係
  • 政治・社会的要因
    • 政党政治の弱体化
      • 1932年の五・一五事件、1936年の二・二六事件で軍が政治を直接威圧
      • 政党が軍に逆らえば暗殺・クーデターの危険が現実にあった。
    • 国民世論の軍事支持
      • 満州事変の成功で軍人気が急上昇
      • 新聞・映画などマスメディアも軍事行動を称賛しやすい空気
    • 国際的孤立
      • 国際連盟脱退後、外交舞台での発言力が低下し、軍事行動がより重視される傾向へ。
  • 構造的まとめ
    軍部(戦略決定権)+ 財閥(経済利益)+ 弱体化した政党(制御不能)+ 世論支持(正当性の補強)
    この4つが相互補強し、軍事行動優先の国家運営が固定化していった。

ますますわかってきましたね。暴走する軍部と、そこに癒着して大儲けする財閥という構図です。軍部が暴走すればするほど財閥は儲かったわけです。これを「軍部の暴走は日本国民のため」などと考えるのであれば相当な阿呆と言わざるをえないでしょう。

で、このあたりは歴史の授業が大嫌いだった私も覚えているのですが、戦後のGHQによる「財閥解体」というのがありましたね。この理由を聞いてみますと。


一言で言うと、占領軍(GHQ/SCAP)が「軍国主義を支えた経済権力の集中を解体し、民主化・競争原理を根付かせるため」です。主な理由はこの3本柱。

  • 再軍備の土台を断つ(デミリタリゼーション)
    財閥は戦前・戦中に軍需と結びつき、資金・生産・人事で軍部の後ろ盾になったと見なされた。再発防止のため、巨大資本の再結集を不可能にする必要があった。
  • 経済の民主化(デモクラタイゼーション)
    少数の同族持株会社が銀行・商社・製造を系列支配し、政治・官僚とも結びつく構図は「民主体制にそぐわない独占的権力」と判断。株の分散所有、労組の育成、中小企業の活力を狙った。
  • 独占・カルテルの是正(反トラスト)
    米国の反独占思想(ニューディール的発想)の影響も大きい。持株会社の解体、過度経済力集中排除法(1947)や企業再建整備等で、系列・相互持株・役員兼任を断ち切り、自由競争を促すのが狙い。

その結果、持株会社解体・同族財産の処分・主要役員の公職追放・株式の一般/従業員への放出などが実施されました(持株会社整理委員会・過度集中排除指定など)。
なお1950年代に入ると、銀行を核にした企業グループ(いわゆる「系列/戦後型“ケイレツ”」)が再編成されますが、同族持株による垂直支配という戦前の「財閥」とは別物です。


ということです。GHQは当時の「日本」の根本問題を理解していたわけです。

 

軍部による政治へのテロ行為

で、まがりなりにも国民の半分が選んだ政府を無視して軍部が暴走するために、軍部はそれなりの手段で恐怖を与えたわけです。ここでは五・一五事件、二・二六事件を見てみます。


ざっくり言うと、どちらの事件も暴力(テロ/蜂起)で内閣と政党政治を“物理的に”揺さぶり、以後の人事・制度・政策決定を軍の都合に沿う方向へねじ曲げた、という意味で「政治への直接威圧」でした。

  • 五・一五事件(1932)
    何をしたか:海軍青年将校らが首相・犬養毅を暗殺。同時に官庁・警察・放送局などを襲撃。   

    • 政治への威圧の中身
      • 首相暗殺というテロで政党内閣を直接打倒。
      • 事件後、世論の一部に同情・減刑嘆願が広がり(重い処罰が抑えられる)、政治家側に恐怖と自己検閲が生まれる。
      • 後継の斎藤実(海軍大将)内閣で、政党中心から挙国一致・官僚・軍主導へ軸足が移動(政党政治の終焉の決定打)。
  • 二・二六事件(1936)
    何をしたか:陸軍の青年将校と部隊が東京で蜂起。
    高橋是清(蔵相)、斎藤実(内大臣)、渡辺錠太郎(教育総監)らを殺害、首相・岡田啓介は辛くも難を逃れる。数日間、戒厳下で中枢を占拠。   

    • 政治への威圧の中身
      • 主要閣僚を殺害・排除して政策の要(財政・宮中)を直撃。以後、政治家・官僚に暴力的圧力の現実性を刻み込む。
      • 収束後に陸軍は組織として“統制強化”の口実を得て、
        • 軍部大臣現役武官制の復活(1936)=陸海相を現役将官に限定し、大臣を出さないだけで内閣を倒せる拒否権を取り戻す。
        • 人事・政策で陸軍の意向を通しやすくなり、内閣は軍の顔色をうかがう構造へ。
      • 政党勢力はさらに萎縮し、のちの翼賛体制(政党解消・挙国一致)への道筋が固まる。 

両事件とも背景は複雑なものなのですが、いずれにしても軍部による政府に対するクーデターと言って良いでしょう。しかしいずれについても言えることは、政治が萎縮し、軍部の影響力が強化されたことです。軍部独裁への道筋だったわけです。

これでも当時の「日本」のやったことが、現代の目線で見る「日本」のやったことと言えますか?仮に彼らが「悪いことをしたんだ」と非難された場合、それを擁護する必要など、どこにあるんでしょう?

まとめ

これでもかなりざっくりと見てきました、1890年から1945年の敗戦までですから。私の言う「日本は日本であって日本ではない」の意味がおわかりいただければ幸いです。

過去、特に戦中の日本というのは、現代の目線から見れば全く「日本」ではありません。この当時の「日本」が良いことにせよ、悪いことにせよやったことは、それは現在我々が暮らす「日本」という国とは無関係です。

ですから、何かしら理屈をつけて「自分たちの国がやったこと」として批判したり、擁護する必要性は全くないのです。

我々に必要なことは、過去の日本を「どこか他の国」であるかのように引き離して見る視点です。その視点から「ここは良かったね、あそこは駄目だったね」と評価すべきなのです。

こういった視点をとらず、「自分の国、先祖がこれこれやった」という議論は無意味で非常に危険です。そういった視点をとってしまうと、感情が入り込んで客観的に物事が見れなくなってしまうのです。実際にそういう人間が大勢出てきています。

「自分の国が悪いことやったなんて、ウソだー!」と、どうしても「やっていない」証拠を見つけ出そうとし、そういった精神的に弱い人たちをニッチ市場として、これまたデマゴーグがデマを流して人気を博していますね。

だいたい、我々の先祖(の一部)が仮に悪いことをしたとして、それは自分がやったことでもなく、彼らの記憶も持ち合わせていないのに、なぜ気にする必要があるのでしょう?

この精神構造自体が問題なのですが、しかし、故意にこういう考え方に誘導されているのです。その目的としてはもちろん、現代「日本」にも存在している一部「支配層」の利益にゆくゆくは資するからです。何らかの概念で人の思考を縛れば縛るほど利益を得られる人間がいるのです。ネタは何でも良いのです。このあたりはまた別途書きたいと思ってはいますが。

もちろん、国際社会から見れば、「日本」という国は、連続しているように見えます。そして、「お前ら『日本』が悪いことした」という非難は続き、それに対処せねばならないでしょうけれども、これは海外からの視点でしかないことに注意が必要です。

 

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