この記事の三行要約
人権は「生まれながらの宝もの」だけど、自称「愛国者」はそれをじゃまにして奪おうとする。
彼らは歴史をねじ曲げたり「国のため」と言って自由や平等をけずり、人々を従わせようとする。
本当の愛国心は人権を守ることにある。こわさに負けず考え、話し合い、思いやりで人権を守り続けることが大切。
人権とは何か、自称「愛国者」の究極的目標が人権を奪うことにあること、それに対抗せねばならないことを、小中学生でもやさしく理解できるように書いてみたつもりなんですが、結局小中学生には難しいかも。。。
人権をうばう人たちは「愛国者」なの?
「愛国者(あいこくしゃ)」って言葉、ニュースやネットで聞いたことがあるよね。これは「日本を愛する人」という意味だよ。
普通の人は、日本を愛するも何も、そこで生きているんだから、特に「愛している」などと思ったり、言ったりはしないかもしれない。危険な海外の国よりも平和で安全な日本が好きなはずだし、それが続いてくれればいいと思っているよね。でも、こういう人たちは、わざわざ自分のことを「愛国者」と呼びたがるんだ。
でも、なかには「自分は愛国者だ!」と言いながら、じつはみんなをだまし、みんなの大切な人権(じんけん)をうばって、日本をこわそうとしている人たちがいる。明らかにむじゅんしているよね。
もう一度言うよ、「自分は愛国者だ」と言いながら、実は国をこわそうとしているんだ。これがどういうことなのか、これから説明してくよ。
人権ってなに?
人権(じんけん)は「生まれたときから、みんながもっている宝もの」だよ。
- 思ったことを自由に言える
- 学校に行って勉強できる
- 差別されない
- 健康にくらせる
これらは、国やだれかが勝手にとりあげてはいけないんだ。そして、これが日本という国の基本ルールになっている。これが、日本国憲法という国のルールブックにちゃんと書いてある。
「どれも当たり前のことじゃないか」と思うかもしれない。ふだん気にしてもいないかもしれない。でも、これが当たり前ではない時代があったし、そこに戻そうとしている人たちがいるんだ。
自称「愛国者」の考えかた
自称(じしょう)「愛国者」だと言う人、つまり、自分で自分のことを「私は愛国者です」という人の中には、こんなことを言う人がいる。
- 「国のためなら、言いたいことをガマンしろ」
- 「国とちがう考えをもつ人は、国民じゃない」
- 「みんな同じ考えにそろえるべきだ」
いっけん「国を大切にしている」ように聞こえるけど、これって人々の自由をなくすこと、つまり、人権をせばめてしまう考えかただね。
本当の「愛国心」って?
国を大事に思うことじたいは悪いことじゃない。でも「国を口実にして人権をうばう」のは、かえって国をよわくしてしまう。自由に考え、意見を言い合える社会こそが、みんなが幸せにくらせるつよい国をつくるからだ。
まとめ
- 人権は、みんなが生まれながらにもっている宝もの
- 今は当たり前と思うかもしれないけど、当たり前でない時代があった
- 自称「愛国者」がやろうとしているのは、その宝ものをうばって、当たり前でない時代に戻すこと
- 本当に国を思うなら、人権を守ることがいちばん大切
そもそも人権ってなに?
そもそも人権とは、
- 生まれながらにみんながもっている 大切な権利 のこと。
- 国やだれかが勝手にうばったり、ふみにじったりしてはいけない。
例えば、キリスト教などの宗教を信じる人であれば、「そもそも神から人間に与えられたもの」と考えればわかりやすいよね。
でも、特に何の宗教もやっていなくてもいいんだ。「人間が生まれながらに持つ権利」というのは、世界的に認められている考え方なんだ。
そして、このことがちゃんと日本国憲法にも書いてあるんだ。
日本国憲法で守られている人権
では、国のもとになっている日本国憲法というルールブックには、人権について何て書いてあるんだろう?
- 自由に生きる権利
- 思っていることを自由に考えていい(思想・信教の自由)
- 話したり書いたりして伝えていい(表現の自由)
- 好きな仕事をえらべる(職業選択の自由)
- みんな平等であること
- 人種や性別、家柄などで差別されない(法の下の平等)
- 人間らしく生きる権利
- 健康で文化的な生活ができるように(生存権)
- 学校に通って勉強できる(教育を受ける権利)
- 働くこと、労働者が団結すること(労働基本権)
- 政治に参加する権利
- 選挙で投票できる(選挙権)
- 政治に意見を出すことができる(請願権)
- 国にまもってもらう権利
- もし不当にあつかわれたら裁判でたすけてもらえる(裁判を受ける権利)
- 国のせいでひどいめにあったら国にたすけをもとめられる(国家賠償請求権)
国や国家権力(こっかけんりょく)、例えば役人や警察などは、この基本的なルールを外れる命令をすることはできないんだ。例えば、「そんな意見を言ってはいけない」とか「あなたはこの仕事につきなさい」とかだね。
大事なポイント
- 人権は みんながもっている「宝物」
- でも「自分だけ自由」ではなく、みんなの自由を大事にしあうことが大切
- 憲法は「国や権力からみんなを守るための約束」
イメージすると
「人権=みんなが幸せに生きるためのルール」
「憲法=国がまもらなきゃいけない約束ごと、ルールブック」
もし人権がなくなったら?
もし人権がなくなったら、どんなことになってしまうんだろう?
言いたいことを言えない(憲法21条 表現の自由)
- 新しい考えを発表したり、政治家のまちがいを指摘したりできなくなる。
- ネットや本も「これはダメ」と止められてしまうかも。
まちがいを直すチャンスがなくなり、社会がよくならなくなる。
信じることをえらべない(憲法20条 信教の自由)
- 自分の好きな宗教や考え方を持てなくなる。
- 国が「これだけ信じろ」と決めてしまうかもしれない。
自分の心の自由がなくなり、みんな同じ考えを強制される。
勉強できない、働けない(憲法26条・27条 教育・労働の権利)
- お金のある人だけ学校に行ける、女の子は学校に行けない、なんてことになるかも。
- 危ない仕事やただ働きも断れなくなる。強制される。
将来を選ぶ自由がなくなってしまう。
差別されても守られない(憲法14条 平等)
- 「出身地」「性別」「親の職業」などで差別されても、止めてもらえない。
- 「あの人は本当の国民じゃない」と言われて仲間はずれにされるかも。
友だちやクラス全体が分けられて、社会がバラバラになる。
生きることがあぶなくなる(憲法25条 生存権)
- 病気になっても病院に行けない、家がなくても助けてもらえない。
- 「健康で文化的な生活」ができなくなる。
生きていくこと自体がとてもむずかしくなる。
まとめ
- 憲法の人権がなくなる=社会の安全ネットが全部なくなる ということ。
- 表現の自由がなくなれば声をあげられない。
- 平等がなくなれば差別がふえる。
- 生存権がなくなれば生活できない。
だから憲法に書かれた人権は、わたしたちが安心して生きるための 最低限のルールなんだ。
自称「愛国者」は人権が大嫌い
さて、なぜ自称「愛国者」は、「国を愛している」はずなのに、人権をきらい、私たちからうばおうとしているのだろう?実際に、自称「愛国者」は人権をなくしたくてしかたがないんだ。いったいなぜだろうか?
本当の「愛国心」とは?
- 国を大切に思う気持ちそのものは、とても自然で大事なこと。
- 家族や友だちを思うように、「国をよくしたい」という気持ちは悪くない。
でも自称「愛国者」はちがう
一部の自称「愛国者」は、こう考えてしまう。
- 「国を守るためには、みんな同じ考えでなきゃダメだ!」
- 「国に逆らう意見はじゃまだから消したほうがいい」
- 「国を批判する人は、本当の国民じゃない」
そういって表向きは「国のためだから」と言うのだけど、逆に、人々の自由や権利をうばう方向に進んでいる。
なぜ人権をきらうの?
- 人権があると、一人ひとりが自分の考えを自由に言える。
- それには「国のやり方はまちがってる!」と批判することもふくまれる。
- 自称「愛国者」にとっては、こうした自由な声が 自分の考えとちがう=国をよわくするもの に見えてしまうんだ。
ほんとうは逆!
- 人権があるからこそ、いろんな意見が出て、よりよい国づくりができる。
- 人権をうばうと、一時的に「みんな同じ考え」のように見えるけど、じつは不満がたまって国は弱くなるんだ。
まとめ
- 本当の愛国心=人権を大事にして、みんなが幸せに生きられる国をつくること。
- 自称「愛国者」=国を思うと言いながら、人権をじゃまにしてうばおうとする人たち。
「国を愛する」と「人権をうばう」は、本当は正反対なんだ。だから、自分で自分を「愛国者」と言う人たちは、国を愛しているわけではまったくない。彼らが実際に愛しているのは、もっと別のものなんだ。つまり、「愛国」というのは全くのウソだ。これはあとで説明するよ。
自称「愛国者」が人権をうばうやり方
自称「愛国者」たちは、いろんな手段を使って、私たちから人権をうばおうとしている。
「みんな同じ考えじゃないとダメ」と言う
- 「国のために一つの意見にまとまれ!」と言って、ちがう考えや反対意見をゆるさなくする。
- そうすると、自由に意見を言う権利(表現の自由)がなくなる。
「国を守るため」と言って自由をけずる
- 「国のためなら少しぐらい自由をガマンしろ」と言う。
- その結果、学校や仕事、生活の場で「言いたいことが言えない」「やりたいことを選べない」状況をつくり出す。
「敵を作って分ける」
- 「あの人たちは本当の国民じゃない」「あの人たちは危ない」と言って、特定の人を悪者扱いする。
- 差別を正当化して、「平等に扱われる権利」をうばう。
「反対する人は国をうらぎっている」と言う
- 国を批判する人や、ちがう考えの人を「非国民」とレッテルをはって沈黙させる。
- こうして「考える自由」「学ぶ自由」「議論する自由」をじわじわなくしていく。
人権のない時代を「良い時代だった」と美化する
自称「愛国者」が人権をうばうやり方として特に注意しないといけないのは、80年以上前の日本の戦前戦中を「良い時代だった」とウソをつくこと。
戦争の時代は人権がなかった
- 戦前や戦争中の日本では、人権がほとんどなかった。
- 自由に意見を言うと、つかまることがあった。
- 新聞や本も国に都合のいいことしか書けなかった。
- 「戦争はいやだ」と言うことさえできなかった。
自称「愛国者」のやり口
- こういう時代を「よい時代だった」と言う人がいる。
- これは「歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ)」といって、むかし本当にあったつらい出来事を『なかった』と言いかえるやり方。
- たとえば戦前・戦中の日本では、
- 他の国にせめこんで、多くの人を殺してしまったこと、
- その結果、日本の国民自身も大勢が戦争で死んでしまったこと、
という大きな悲しみがあった。
- ところが、歴史修正主義の人たちは、こうした事実を「なかった」かのように言ったり、「よい時代だった」「ほかの国の人を解放してあげたんだ」と言いかえたりする。
- 彼らは「みんな同じ気持ちで国のためにつくした」と言うけど、実際には多くの人が苦しんで、意見を言えず、戦争で死んでいったんだ。
本当はどうだったの?
- 人権がなかったからこそ、戦争に反対できず、大きな悲劇が起こった。
- 多くの人が自由をうばわれ、たくさんの命が失われた。
だから、「人権がなかった時代こそ危ない時代」だったんだ。
まとめ
- 「よい時代だった」と言って、その時代に戻し、人権をなくそうとするのは、歴史をねじ曲げるあやしいやり方。
- 本当の学びは「人権がなかったからこそ苦しみがあった」という事実を知り、同じ失敗をくり返さないこと。
- 人権を大切にすることが「国を大切にすること」につながる。
自称「愛国者」は、なぜこんなことをしたいの?
どうして、自称「愛国者」は、みんなが幸せに生きられるルールをなくしたいのだろう?この人たちの心の中を見てみよう。
もちろんこういう心の動きは、誰にでも起こることなんだ。だから、自称「愛国者」の言い分に賛成する人が、ますます増えているんだ。これは本当に危険なことだ。
心の中で起きやすい 6つの「クセ」
- こわいと「強いルール」を求める
不安や心配が大きいと、「みんな黙って言うことを聞けば安全だ」と考えやすくなる。
→ ちがう意見や少数派の人の権利がジャマに見えてしまう。 - 「みんな同じ」が安心
バラバラな考えがあると不安。だから「同じ考えにそろえたい」と思う。
→ 自由に考えたり意見したりする権利をせまくしたくなる。 - むずかしい問題を「カンタンな合言葉」にしたい
現実は複雑。けれど「国のために!」の一言で全部まとめたくなる。
→ 個人の権利や事情を見なくなる。 - 「上から命令してくれる」とラク
自分で考えて話し合うのは大変。だから強いリーダーにおまかせしたくなる。
→ ルールでしばって人権を小さくしようとする。 - 「自分のチーム」を守りたくて他の人を悪者に
「あの人たちが問題だ」と敵を作ると、仲間意識が高まる。
→ 差別を正当化して、平等の権利をけずりやすい。 - 「まちがいを認めたくない」から反対意見をしめ出す
失敗や歴史の反省が痛いと、耳の痛い意見を遠ざけたくなる。
→ 表現の自由を弱くしようとする。
すると何が起きる?
- ちがう意見が言いにくくなる(表現の自由が弱る)
- 一部の人が悪者にされる(平等の権利が弱る)
- 生活や学びの自由がせまくなる(勉強・仕事・暮らしの権利が弱る)
つまり、人権が「じゃまもの」に見えてしまう心のクセが重なると、権利を小さくしようとする動きになりやすいんだ。
でも本当は…
- 人権はみんなを守る防具。自分も、考えのちがう相手も守る。
- 自由に話しあえるほど、まちがいに気づきやすく、国は強くてしなやかになる。
- 「国を大切にする」ことと「人権を守る」ことは同じ方向だ。
見分けるための「5つのサイン」
- 「ちがう意見は言うな」「質問するな」
- 「本当の国民/にせの国民」と人を分ける言い方
- 怖い言葉や数字ばかりで、理由や証拠がうすい
- ある人たちをまとめて悪者にする(差別の口実)
- 「国のために少しの自由はガマンしろ」と言い続ける
こういうサインが重なったら、人権を小さくしようとしていないか注意してみよう。
上にはペコペコ、下にはエラそう(権威主義的人格)
ちょっとむずかしいけど、権威主義的人格(けんいしゅぎてきじんかく)について説明するよ。
わたしたちが生まれながらに持っている人権によって、わたしたちには自由がある。他の人を傷つけたりしない限り、何をしても自由。言いたいことが言えるし、やりたいことができる。
でも、自由を「こわい」と思う人もいるんだ。自由に何でもできることを「こわい」と思うなんて、ふしぎに思うかもしれないね。でも、これは本当なんだ。
上からの命令をほしがる人
- 自由に考えて「自分で決める」のは大変で、時にはこわいこともある。
- だから「えらい人が命令してくれたらラクだなあ」と思う人がいる。
これが「上に従いたい」という気持ち。
下の人には命令したい
- その一方で「自分より立場が低い人には、言うことをきかせたい」と思う。
- つまり「上にはペコペコ、下にはエラそう」な態度をとりがち。
これが「下に命令したい」という気持ち。
なぜこうなるの?
- 自由や対等な関係を「こわい」「めんどう」と感じてしまうからだ。
- 「みんなちがっていい」と思うより、「命令どおりにそろったほうが安心」と考えてしまう。
どんな問題があるの?
- 自分の頭で考える力が弱まってしまう。
- 強い人に悪用されやすくなる。
- 下の人にきびしくなって、いじめや差別につながりやすい。
まとめ
上にはペコペコ、下にはエラそうな権威主義的人格とは、
- 上から命令されると安心し、
- 下には命令したくなる性格のこと。
自称「愛国者」にはこういった人が多いんだ。この人たちにとって自由はこわいもので、自由をなくしたい、なくなればいい。
そして、上から自分を縛ってもらい、それとは逆に下を縛ろうとする。「みんなの自由なんかない方がいい、みんなが縛られればいい」と考えているんだ。
自由には代償がある。自称「愛国者」はこれに耐えられない
ここまででわかったかもしれないけど、自由には代償(だいしょう)があるんだ。自称「愛国者」とは、これに耐えられない人たちだ。
自分でえらぶ → 自分でせきにんをとる
- 自由にえらべるって、とても大切で楽しいこと。
- でも、その結果がうまくいかなくても「自分のえらび方のせい」になる。
だれかに命令されたら責任はその人にあるけど、自由だと自分が責任を持つことになる。
人によって答えがちがう
- 自由があると、みんなが自分で考えてえらべる。
- だから意見がぶつかったり、けんかになったりすることもある。
「みんな同じ意見でそろえる」より大変だけど、それが自由な世界の当たり前なんだ。
まちがえることもある
- 自由に行動したら、まちがえることもある。
- でもその経験から学んで、もっとよくできるようになる。
まちがえるチャンスがあるのも自由の一部なんだ。
まとめ
- 自由の代償とは、「自分でえらんだことの責任を、自分で負うこと」。
- 人とちがう意見が出たり、まちがえたりするのもセットでついてくる。
でも、それをこえてこそ、本当に自分らしく生きられる。でも、自称「愛国者」は、こういったあやふやなものが嫌いなんだ。誰かに決めてもらって、自分がそれにしたがうだけではなくて、みんなにも押し付けないと気が済まないんだね。
人権は日本国憲法より上にある
人権と憲法、どっちが大事?
人権は生まれながらの宝もの
- 人権は、生まれたときからみんながもっている権利。
- 「生きること」「自由に考えること」「差別されないこと」などは、だれも勝手にうばえない。
人権は憲法よりも上にある 大切なものなんだ。
憲法はその人権を守る約束
- 憲法は「国は人権をちゃんと守りなさい」という約束のルールブック。
- 屋根(憲法)が家(社会)を守るように、人権を守るために憲法がある。
こわいのは「人の心」が変わること
- もし憲法を変えて「人権より国の命令が大事!」というルールにしてしまったら?
- 憲法が変わっても絶対に人権がなくなることはないのだけど、「人権はたいしたことない」と思う人がふえてしまう かもしれない。
これがいちばん恐ろしいことだ。
守るのは私たちの気持ち
- 人権を守る力の一番のよりどころは、「人権を大切にするのが当たり前」という私たち一人ひとりの気持ちなんだ。
たとえ憲法が変わっても、その気持ちを失わないかぎり、人権はうばえない。
まとめ
- 人権は憲法より上にある「生まれながらの宝もの」
- 憲法はその宝ものを守るためのルールブック
- 本当にこわいのは「人々の意識が変えられてしまうこと」
だからこそ、「人権は大切!」という心をみんなで守り続けることが必要なんだ。
人権を守る「考え方の戦い」に勝つには?
自称「愛国者」は、何とかしてみんなに人権を捨ててほしい。そのために、「考え方の戦い」をしかけてくるんだ。みんなが自分から人権をゴミ箱に捨ててくれるようにするんだ。みんなに「人権なんかじゃまだ!」と思わせたいんだ。
自称「愛国者」は、そういった「考え方の戦争」を私たちにしかけてきている。戦争というのは、武器で打ち合うことだけではないんだ。今の世の中では、「人々の考え方を曲げてしまうこと」あるいは「自然に曲がってしまうこと」を目的とした思想戦(しそうせん)というものの方が重要になってきている。
武器で脅して強制したら、誰の目にも明らかに間違いとわかるけれども、思想戦では「自分でそう思ってくれる。自分で賛成してくれる」のだから、誰も「そんなのおかしい」とは言えなくなってしまう。
この戦いに勝つにはどうしたらいいんだろう?
こわがらない
自称「愛国者」は「国が危ない!」「敵がせめてくる!」と大きな声で言うことが多い。でも、こわさにまどわされてすぐに自由を手ばなさないことが大事だ。
しっかり考える
- 「ほんとうに事実なのかな?」
- 「数字や情報の出どころは正しいのかな?」
- 「この意見が自分や友だちに向けられたらどう感じるかな?」
と考えることで、だまされにくくなる。
みんなで話し合う
自由に話し合えるのが、人権がある社会の強さです。
- 友だちと話す
- 家族と考える
- 学校で意見を出す
こうした小さな「対話」が、じつは大きな守りになる。
相手を悪者にしない
自称「愛国者」がよく使うのは「敵を作ってわける」やり方だ。こちらが同じように「悪者!」と言い返すと同じ土俵に立ってしまう。大事なのは 「人権はみんなのものだよ」と落ち着いて伝えること。
毎日の中で人権を大切にする
- 友だちをバカにしない
- ちがう意見も聞いてみる
- 自分も自由に意見を言う
こうした小さな行動が、人権を守る力を育てるんだ。
まとめ
人権を守る「戦い」は、
- こわさに負けない
- しっかり考える
- みんなで話す
- 相手を悪者にしない
- 毎日の中で人権を大切にする
こうした積み重ねで必ず勝てる。いちばん強い武器は「冷静に考える力」と「相手を思いやる心」だ。



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