「南京虐殺はなかった」に見る代償的アイデンティティ防衛

この記事の三行要約

「南京虐殺はなかった」と否認し攻撃するのは、自己正当化と代償的アイデンティティ防衛の心理から生じる。

個人の不安や空虚さを国家や集団の名誉に投影し、認知的不協和を回避するために攻撃性が強まる。

その依存は無害な「日本スゴイ!」系から、排外主義や歴史否認、社会分断へと発展する危険を孕む。

なぜネトウヨ、歴史修正主義者は「あった派」に攻撃的になるのか?

ネトウヨ、歴史修正主義者は、「南京虐殺はウソ」などの言説を流し、日本軍があたかも「紳士的に戦った」かのような考えを押し付けたいようですが、その一方で彼らは「あった派」に対しては非常に攻撃的です。この心理的な矛盾をどう考えますか?


とても重要なポイントですね。この矛盾は、単純な論理矛盾というよりも「心理的防衛機制」や「集団心理」によって説明できます。いくつかの観点から整理してみます。

自己正当化とアイデンティティ防衛

歴史修正主義的な立場をとる人にとって、「日本軍は無辜の民を虐殺した」という事実は、自分が属する集団(日本人・国家)への誇りを脅かすものです。したがって、「虐殺はなかった」と信じ込むことは、自己のアイデンティティを守る心理的防衛になります。しかし同時に、この「防衛」は非常に脆いものなので、それを揺さぶる「あった派」の主張は強い脅威となり、攻撃的な反応で押し返そうとします。
→ 否認と攻撃が表裏一体になっているのです。

 認知的不協和の解消

彼らは「日本軍は誇り高く戦った」というイメージを持ちたい。しかし、実際には大量虐殺や残虐行為を示す証拠が存在する。この「不協和」を解消するために、証拠を否認する一方、それを提示する人々を「反日」や「嘘つき」とレッテル貼りして排除するのです。
→ 外敵攻撃によって不協和を回避している、と言えます。

 投影と敵の悪魔化

歴史修正主義者はしばしば「日本軍は紳士的だった」と強調しますが、その裏返しとして「中国や韓国は嘘をついて日本を貶めている」と主張します。つまり、自らの攻撃性や加害性を相手に投影し、相手を「悪」として攻撃することで安心を得ているわけです。
→ 自分の加害性を見たくないため、相手を攻撃するという構造です。

 集団的エコーチェンバー効果

ネット上では、同じ意見を共有する仲間との間で「南京虐殺はウソだ」という主張が反響し合います。この環境の中で、反対意見は「共同体を脅かす裏切り者」の声として認識され、過剰な攻撃につながります。
→ 仲間内の結束を強めるために敵を叩くという動機です。

まとめ

ネトウヨ・歴史修正主義者の矛盾は次のように説明できます:

  • 「虐殺はなかった」と否認することで自己正当化をし、
  • 「あった派」を攻撃することで脅威を排除しようとする。

つまり、矛盾しているようでいて、心理的には一貫して「自己と集団のイメージを守る」行動だと言えます。


自分の加害性を見たくないため、相手を攻撃する

「自分の加害性を見たくないため、相手を攻撃する」についてもう少し詳しく


なるほど、では「自分の加害性を見たくないため、相手を攻撃する」という心理について、もう少し掘り下げますね。

 投影(projection)という防衛機制

フロイト以来の心理学では、人間は自分の中にある認めたくない感情や性質を、無意識のうちに他人に押しつけることがあります。これを「投影」と呼びます。

歴史修正主義者の場合:

  • 日本軍が行った虐殺・加害の歴史 → 自分(日本人)がその一部であると認めることは耐えがたい
  • その結果 → 「加害性」という属性を相手(中国や韓国)に投影し、「嘘をついている」「日本を貶める悪意を持っている」と断じる

つまり、「自分(=日本)が悪だった」という可能性を「相手が悪だ」という形にすり替えるわけです。

 攻撃の逆転:被害者→加害者のすり替え

虐殺の事実を認めれば「日本は加害者」という立場になります。しかしこれを否認すると、「日本は本当は善良で、逆に被害を受けている」という構図に変換されます。

  • 歴史認識を直視した場合
    → 日本=加害者、他国=被害者
  • 修正主義的否認をした場合
    → 日本=被害者(濡れ衣を着せられている)、他国=加害者(日本を陥れる悪者)

→ この「立場の逆転」が、彼らが強く求めている心理的安定です。

 攻撃による安心感

自分の加害性を認めると、罪悪感や恥の感情が生じます。これを回避するために「攻撃する」という行動を取ると、一時的にスッキリして安心感を得られる。

例えば:

  • 「虐殺はウソだ」と言い切る → 不快な歴史を直視しなくて済む
  • 「あった派は反日」「売国奴」と攻撃する → 自分の立場を正義にすり替えられる

攻撃は「罪悪感から逃げる手段」でもあるのです。

 集団レベルでの拡大

この心理は個人だけでなく、集団心理でも働きます。ナショナリズムの枠組みの中で「自分たちが悪だ」と認めるのは耐えられない。だから「相手が悪い」という共同幻想を作り、その幻想を守るために異論を攻撃する。

→ これが「ネット空間での集団的な攻撃性」に直結しています。

✅ まとめると:

  • 自分(日本)の加害性を認めたくない → 投影により「相手が加害者」になる
  • 被害者/加害者の立場を逆転させることで心理的安定を得る
  • 攻撃することで罪悪感を一時的に解消する
  • 集団心理により、この構造はさらに強化される 

攻撃は最大の防御なり

簡単に言えば、攻撃は最大の防御なりということですね?


はい、まさにその通りです ただしここでの「攻撃は最大の防御」というのは軍事戦略の話ではなく、心理的な防御反応として現れている、ということです。

  • 本来向き合うべきもの:自分や自分の属する集団の加害の歴史
  • それを避けるための防御:否認や投影
  • その結果の行動:相手を攻撃して「自分が正しい・被害者だ」という構図に置き換える

つまり、攻撃的になるのは「強さの表れ」ではなく、むしろ「自分が傷つきやすいことの裏返し」なんですね。

簡単にまとめると:

  • 加害性を認めるのはつらい
  • だから「自分は悪くない、相手が悪い」とする
  • そのために攻撃が強まる

これが「攻撃は最大の防御」として心理的に働いている、という理解が一番しっくりくると思います。 


それほどこだわる理由

しかし、それにしても疑問なのは、全く自分には無関係なのに、なぜそれほどこだわらなければならないのかという点です。


とても本質的な疑問ですね。おっしゃる通り、彼ら自身が当事者でもないのに、なぜ「南京事件はウソだ」とそこまで強烈にこだわるのか? この点にはいくつかの心理的・社会的要因が絡んでいます。

 代償的アイデンティティ

多くの人は「自分個人」では誇れるものが少ないとき、より大きな集団に同一化して自己価値を得ようとします。

  • 「俺は平凡な人間かもしれないが、日本人である」
  • 「日本人は素晴らしい民族であり、加害の歴史なんてあるはずがない」

→ 個人の誇りの不足を「国家や民族への誇り」で補う。これが強いこだわりにつながります。

 ナショナリズムの感情動員

「国家の名誉を守れ」という大義名分は、個人の生活上の不満や鬱憤を外部へ転嫁する格好の材料です。

  • 経済的不安、社会的な孤立 → 「日本を貶める奴らが悪い」という形に変換
  • 結果として、自分の不安や怒りを歴史論争に投影し、必死に戦う姿勢になる

 認知的不協和の回避

もし「南京大虐殺はあった」と認めてしまえば、

  • 「自分の属する国家=悪」という事実に直面する
  • 「愛国心」と「歴史の事実」が矛盾して耐えられない

→ その不協和を避けるために、徹底的に「なかった」と信じ込む。こだわりは強迫的になるほど強化されやすいです。

 集団的同調圧力

ネット空間では、同じ主張を共有する仲間がいることが「正しさの証拠」のように感じられます。

  • 「みんな言ってるから自分も言う」
  • 「裏切り者(=あった派)を攻撃しないと、自分が仲間から外される」

→ 個人の意識ではなく、共同体的な忠誠心からもこだわりが強まります。

まとめ

  • 彼らが「無関係な歴史」に過剰にこだわるのは、
  • 個人の誇りを国家に投影しているから
  • 自分の不安や不満を外部にぶつけられるから
  • 認知的不協和を避けるため
  • 仲間意識によって強化されるから

つまり「自分の人生と関係ない話」ではなく、自己の存在証明や不安解消に直結しているからこそ、彼らは強迫的にしがみついているわけです。


日本スゴイ!

要するに、馬鹿げたテレビでよくあるような、外国人が日本文化に触れて「日本人スゴイ!」などと言えば、自分には全く関係ないのに、それを見ていい気持ちになるといったことと50歩100歩ということですか?


はい、かなり近い現象だと思います。いい例えです。

共通点

  • 自己と直接関係ないことに「自分ごと」のように喜ぶ
    • 外国人が寿司を絶賛 → 「日本スゴイ!」「自分もすごい気がする」
    • 南京事件を否定 → 「日本は潔白だ!」「自分も誇らしい」
  • 個人の実績や努力ではなく、集団(日本人)に属していること自体から自己価値を得る
  • アイデンティティの補強手段として「国の名誉」や「文化の誇り」を利用する

違い

  • 「日本スゴイ!」系は比較的無害で、単に気分が良くなる娯楽にとどまることが多い。
  • 歴史修正主義は「相手を攻撃する」形で現れやすく、排外主義や歴史否認と結びつくため、社会的影響がずっと深刻。

まとめ

要するに、どちらも「自分とは直接関係のないものに同一化して、心理的な報酬を得る」点では同じです。違いは、それが「ポジティブなナルシシズム」で終わるか、「攻撃的な排他主義」にまで発展するか、という程度の問題です。 


日本スゴイ系の危険性

こういった代償的なアイデンティティに頼らないと自分がないような人、少なくとも多くを依存する人は、非常に危ういと思うのですが、どういった危険性が考えられますか?


とても重要な指摘です。「代償的アイデンティティ(compensatory identity)」に過剰に依存する人は、確かに心理的にも社会的にも危うい存在になりやすいです。いくつかの観点から整理してみます。

 個人のレベルでの危険性

  • 自己喪失
    個人としての経験・能力・価値観よりも「集団に属していること」だけに自分の存在根拠を置くため、独自の判断力や批判的思考が育ちにくい。
  • 感情的依存
    集団やナショナルアイデンティティが脅かされると、自我そのものが攻撃されたかのように反応し、冷静な対話が困難になる。
  • 極端化への脆弱性
  • 代償的なよりどころが揺らぐと、ますます過激な言説や行動に走りやすい(陰謀論や排外主義に傾斜)。

 集団的な危険性

  • エコーチェンバー効果の強化
    同じ「依存対象」を共有する人々同士で結束し、ますます外部の異論を敵視する。
  • カルト化のリスク
    「集団に属すること」自体が自我の根幹になっているため、リーダーや思想への盲従が起こりやすい。
  • 暴力への転換
    「集団の名誉を守る=自分を守る」という構図から、実際の攻撃・排除行動にまで発展しやすい。

 社会的な危険性

  • 民主主義の弱体化
    多様な意見や事実を受け止められないため、理性的な議論が成立しなくなる。
  • 歴史の歪曲
    集団の誇りを守るために不都合な事実が否認され、教育やメディアが歪められる。
  • 分断の激化
    「我々 vs 彼ら」の二分法が強化され、国内外の対立が深まる。

まとめ

代償的アイデンティティへの過剰依存は、

  • 個人を「自分を持たない人間」にし、
  • 集団を「異論を許さない共同体」に変え、
  • 社会を「分断と排他主義」に導く危険があります。

要するに、自分が空虚であるがゆえに、集団の名誉や虚像にしがみつき、それを守るために攻撃性を高める。これが危うさの核心です。 


 

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