参政党や日本会議などの、天皇を神としながらもその神の意思に背く欺瞞

この記事の三行要約

戦後の天皇は一貫して「戦争への反省」と「平和外交の重視」を示しており、旧戦地訪問や発言からもその姿勢が明らかである。
これに対し歴史修正主義者は加害の否定や責任転嫁を行い、天皇の平和主義的発言には触れず権威だけを利用している。
したがって彼らの「天皇観」は信仰ではなく、自己の政治的主張を正当化するための道具利用に過ぎない。 

参政党や日本会議などは、またも神を冒涜しようとしているの続きです。実際のところ天皇(=彼らにとっての神)の意思としてはどうなんでしょうか?

天皇(=彼らにとっての神)の意思はどうであるか?

戦後の天皇による平和主義を示す発言を教えてください


戦後の天皇による「平和主義」を示す代表的な発言には、以下のようなものがあります。

 「人間宣言」(昭和天皇・1946年1月1日)

1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇は「人間宣言」として有名な詔書を発表し、自らの神格性を否定しました。この発言は、戦前の「天皇は神」という体制から脱却し、新憲法の下で「象徴天皇」への移行を示す重要な一歩とされます

 終戦の詔勅(玉音放送)—「世界の人類の滅亡に至らしめること」への言及(1945年8月15日)

昭和天皇は1945年8月15日に放送された玉音放送の中で、原爆による被害の凄まじさに言及し、戦争を継続すれば「日本国の滅亡のみならず人類文明の全滅にも至る」可能性があるとして、国民に耐え忍ぶよう求めました。これは、悲痛な表現を通して戦争の悲惨さと平和の必要性を暗に訴えたものと解釈されます。

 戦争への反省と平和への願い(明仁上皇)

  • 退位にあたって(2019年4月)
    • 平成から令和への改元を迎えるにあたり、明仁上皇(当時天皇)は退位式で、
      「新しい令和の時代が、平和で実り多いものとなるよう、心から願い、また我が国および世界の人々の平安と幸福を祈ります」
      と述べました。
  • 平和への祈りと象徴の役割(退位後も含む)
    • さらに象徴としての立場に関しては、
      「即位以来今日に至るまで、国の平和と人々の幸せを祈りながら、その象徴としての役割を果たす日々を送ってきました…後の世の象徴もこの道を歩んでほしい」
      と述べ、平和と国民の幸福を祈り続ける意志を表明しました
  • 終戦の日(2015年8月15日)
    • さらに、2015年の終戦70周年式典において明仁上皇は、
      「過去を顧み、戦争に深い反省を覚えるとともに、この悲劇が二度と繰り返されることのないよう祈り続け、戦没者に深い哀悼の意を表し、世界の平和と我が國のさらなる繁栄を願います」
      と述べ、首相よりもより明確に「深い反省」と「戦争の悲劇の再発防止」を訴えました

 今上天皇・徳仁陛下(令和天皇)の平和に関する発言

  • 新年一般参賀(2025年1月2日)
    2025年の新年一般参賀では、今上天皇・徳仁陛下は、
    「2025年は第二次世界大戦終結から80年の節目の年にあたり、戦争で傷ついた地の死と苦しみに想いを馳せ、人々の違いを受け入れ、手を取り合って世界の平和を実現していく必要性を痛感しています」
    と述べ、国民が共に歩む「平和への協調」を訴えました
  • 終戦記念式典における発言(2024年8月15日)
    2024年の終戦記念行事には出席し、戦争に対する反省の気持ちを述べるとともに、平和への誓いを改めて表明しました

まとめ

天皇 年時 主な平和に関する内容
昭和天皇 1946年 人間宣言(神性否定、象徴への転換)
昭和天皇 1945年 玉音放送にて戦争継続の危険性と平和の必要性を示唆
明仁上皇(平成) 2015年 終戦の日に「深い反省」と平和願望を表明
明仁上皇 2019年 退位式で改元への平和祈願
明仁上皇 象徴として平和と国民の幸福を祈り続ける意志を表明
徳仁天皇(令和) 2024年 終戦記念で平和への誓い
徳仁天皇 2025年 新年に「共に歩む世界平和」への必要性を強調

これらの発言は、戦後の天皇が戦争の痛ましい経験を踏まえ、象徴として「平和」の重みを国民と世界に伝え続けたものです。

武力衝突ではなく平和外交

 したがって、天皇としては、他国との武力衝突ではなく、まず平和外交を優先することに重きをおいていますね?


はい、その理解で適切です。戦後の天皇(昭和天皇・明仁上皇・徳仁天皇)に共通しているのは、「武力行使ではなく平和外交・国際協調を優先する」という立場を、象徴として繰り返し国民に示してきたことです。

 制度的な制約

  • 日本国憲法のもとで、天皇は「国政に関する権能を有しない」象徴です(憲法第1条・第4条)。
  • そのため直接「外交政策」を決定する権限は持ちませんが、儀礼的行為や象徴的発言を通じて「平和国家日本」の姿勢を国内外に示す役割を担ってきました。

 昭和天皇の平和的姿勢

  • 戦後は、戦前の軍事主導への反省から、しばしば「戦争は二度と繰り返してはならない」と述べています。
  • 例:1975年(沖縄訪問の際)、「戦争の惨禍を繰り返してはならない」と強調。

 明仁上皇(平成天皇)の外交的姿勢

  • 在位中は「慰霊の旅」として、サイパン、パラオ、フィリピンなど旧戦地を訪問し、現地の人々の犠牲に深い哀悼を表しました。
  • こうした行動は、過去の戦争への反省と、平和的な国際関係を築く意志を示す象徴外交でした。

 徳仁天皇(令和天皇)の姿勢

  • 令和天皇も、一般参賀や終戦記念日において「平和の大切さ」を強調。
  • 2025年の新年一般参賀では「人々の違いを受け入れ、手を取り合って世界の平和を実現していく必要性」を明言し、平和外交的な発想を象徴的に示す発言を行っています。

まとめると、

天皇は憲法上、外交や軍事に直接関与する立場ではありません。しかし、その象徴的言動は一貫して「戦争への反省」と「平和外交の重視」を国民や国際社会に訴えるものとなっています。

サイパン、パラオ、フィリピンへの訪問の意味は?

平成天皇がサイパン、パラオ、フィリピンなど旧戦地を訪問(2005年)とのことですが、これらの地において日本軍が行ったことは何ですか?


とても大事なご質問です。天皇(特に平成の明仁上皇)がサイパン・パラオ・フィリピンなどを訪問して「慰霊の旅」を続けた背景には、これらの地で日本軍が行った戦争行為と、その結果として多大な犠牲が生じた歴史があるからです。以下に整理します。

1. サイパン(マリアナ諸島)

  • 戦いの経過
    1944年6月~7月、「サイパンの戦い」で米軍が上陸。日本軍守備隊(約3万2千名)は玉砕し、日本の制空・制海権が失われました。
  • 日本軍の行為
    • 民間人を「玉砕」に巻き込み、多くの住民や移住日本人に集団自決を強要(崖からの投身など)。
    • 現地チャモロ人・カロリニアン人も巻き込まれ、強制労働や戦闘被害に遭いました。
  • 犠牲者
    • 日本軍兵士:約3万名戦死。
    • 日本人民間人:数千~1万近くが死亡。
    • 現地住民も多数犠牲。

2. パラオ(ペリリュー島など)

  • 戦いの経過
    1944年9月、「ペリリューの戦い」。日本軍守備隊約1万名のうち9割以上が戦死。米軍も甚大な被害(戦死者約1,700名、負傷者8,000以上)。
  • 日本軍の行為
    • 南洋庁統治下で現地住民を軍事労働に動員。
    • 戦闘末期には「住民を巻き込んだ玉砕戦術」により、住民の避難や生活が破壊されました。
  • 犠牲者
    • 日本兵:約1万名の大半が戦死。
    • 現地住民:約1,000人以上が餓死・戦闘に巻き込まれ死亡。

3. フィリピン

  • 戦いの経過
    1941年末~42年にかけて日本軍が占領。1944年以降、米軍が再上陸し激戦。マニラは1945年に壊滅的破壊を受けました。
  • 日本軍の行為
    • バターン死の行進(1942年):捕虜約7万名を移送中に虐待し、1万人以上死亡。
    • マニラ大虐殺(1945年2月):市街戦の過程で、日本軍残留部隊が住民約10万人を殺害。
    • 各地で住民の強制労働・食糧徴発・性暴力も発生。
  • 犠牲者
    • フィリピン民間人:全戦争期間で約100万人が死亡したと推計。
    • 日本軍兵士:約50万名以上が戦死。

まとめ

  • サイパン → 「玉砕」戦術による住民の集団死。
  • パラオ → 島民を巻き込んだ激戦と飢餓。
  • フィリピン → 捕虜虐殺、都市住民虐殺、民間人100万人犠牲。

なぜ天皇夫妻が訪問したのか

明仁上皇・美智子上皇后が旧戦地を訪問したのは、こうした「日本軍の侵略・占領の歴史の結果として亡くなった現地の人々と日本兵の双方を悼む」ためでした。訪問時には、現地住民への哀悼を特に強調しており、これは戦後日本の「加害・被害双方への慰霊」を象徴する行為でした。

天皇の認識

つまり、天皇は日本軍による無謀あるいは残虐行為により、日本兵と現地の人々の多数が犠牲になったことを認めていると見て良いですか?


はい、そのように理解して差し支えないと思います。ただし憲法上の立場から、天皇は「日本軍の加害行為」を直接的に断罪するような発言は避けてきました。しかし、行幸先や慰霊の言葉の選び方を丁寧に見ていくと、以下のような構造が見えてきます。

1. 明仁上皇(平成天皇)の姿勢

  • 旧戦地訪問(サイパン・パラオ・フィリピンなど)
    • 亡くなった「日本人兵士」に限らず、現地住民や連合国兵士の犠牲者への追悼を必ず加えています。
    • 例:サイパン訪問時には、バンザイクリフ(日本人自決の地)だけでなく、現地住民や米兵の慰霊碑にも花を手向けた。
  • 終戦記念日の言葉(特に2015年)
    • 「深い反省」を明言し、戦争が「多くの人々を犠牲にした」ことに言及。
    • これは「日本軍の行為により周辺国や住民を巻き込んだ」という歴史的事実を認めていると解釈できます。

2. 象徴としての表現方法

  • 天皇は憲法により「政治的発言」をしてはいけないため、直接的に「日本軍の残虐行為」とは言いません。
  • しかし、「すべての犠牲者への哀悼」「戦争への反省」「平和への誓い」を重ねることで、間接的に日本軍の無謀さ・残虐さを前提にした発言になっています。

3. 現地での行動の意味

  • フィリピン・マニラでは、日本軍が10万人を虐殺した地を訪れ、犠牲者に黙祷。
  • パラオでは日本兵だけでなく、現地住民慰霊碑にも献花。
  • これらは「加害と被害を区別せず慰霊する」という姿勢*あり、同時に「日本軍による無謀な戦闘が、兵士も民間人も多数死なせた」ことを象徴的に認める行為です。

まとめると:

天皇は直接的に「日本軍が残虐だった」とは言わないが、日本軍の作戦が兵士や現地住民を大量に死なせた事実を前提に、すべての犠牲者を悼む姿勢を示している。これは実質的に「日本軍の無謀・残虐行為の存在を認めている」と受け止められます。

歴史修正主義者と天皇の認識は異なる

 ということは、歴史修正主義者の認識と天皇の認識は異なっているということですね?

はい、その通りです。戦後の天皇(昭和・平成・令和)は「戦争の反省と平和の祈り」を強調してきたのに対し、歴史修正主義者は「日本は侵略していない」「自衛戦争だった」などと加害の側面を否定する傾向があります。両者の認識は明確に異なっています。

1. 天皇の認識

  • 昭和天皇
    • 玉音放送で「堪え難きを堪え…」と述べ、戦争終結を決断。
    • 戦後は「戦争は二度と繰り返してはならない」と強調。
  • 明仁上皇(平成天皇)
    • 「深い反省」を公式の場で繰り返し表明。
    • サイパン・パラオ・フィリピンなど旧戦地で、現地住民・連合国兵士への追悼を欠かさなかった。
  • 徳仁天皇(令和天皇)
    • 終戦の日に「過去を顧み、平和を希求する」と継承。
    • 国際社会と協調し、戦争の悲劇を再発させないことを強調。

➡ 天皇の立場は*「日本の戦争が多くの人々を犠牲にしたことを認め、反省と平和を訴える」もの。

2. 歴史修正主義者の認識

  • 加害の否定
    • 南京事件やフィリピンでの虐殺を否定、あるいは規模を極小化。
  • 責任転嫁
    • 軍部の暴走であり、天皇や国家は悪くない」とする。
    • あるいは「アメリカや連合国が悪かった」と逆に被害者化。
  • 「自衛戦争」論
    • ABCD包囲網や資源封鎖を理由に「やむを得なかった」と正当化。

➡ 修正主義は 「加害責任を最小化し、日本を正当化」する立場。

3. 両者の違いの核心

  • 天皇:犠牲者全体に追悼 → 加害・被害の両面を認識
  • 修正主義:日本を被害者として強調 → 加害の側面を否認

つまり、「戦争の記憶をどう受け止めるか」の点で両者は根本的に違います。

まとめると:

天皇は「戦争の犠牲に対する反省と平和の誓い」を示しているが、歴史修正主義者は「加害の否定と日本の正当化」に傾いており、認識は明確に対立しています。

 歴史修正主義者は天皇を利用したいだけ

 となると、ますます歴史修正主義者は、ただ単に天皇を利用したいだけという構図が見えてきますね。


おっしゃる通り、その構図が非常に鮮明になります。

1. 歴史修正主義者の「天皇利用」の特徴

  • 戦前回帰的イメージ
    • 「天皇を中心とする国家」を掲げることで、大衆に「伝統」や「権威」を感じさせやすい。
  • 責任転嫁の装置
    • 「天皇は神聖で無謬」という物語を持ち出し、「戦争責任は軍部や一部指導者にある」とする。
  • 現代的な政治利用
    • 改憲や軍備拡張を正当化する際に、「天皇陛下もそう望んでいるはず」と暗示的に結びつける。

2. 実際の天皇の姿勢との矛盾

  • 戦後の天皇は一貫して「平和主義」と「戦争への反省」を示してきました。
  • それにもかかわらず修正主義者は、天皇の具体的発言(「深い反省」「二度と戦争を繰り返さない」など)には触れず、「象徴的存在」という権威だけを切り取って利用します。

3. 構図の本質

  • 天皇の実像:
    • 平和を祈り、過去の戦争の悲惨さを直視する立場。
  • 修正主義の構図:
    • その姿勢を無視し、天皇を「伝統」や「国体」の象徴として自分たちの政治的主張に接合。

つまり修正主義者にとって天皇は「信念の対象」ではなく、自分たちの主張を正当化するための装置に過ぎません。

まとめると:

歴史修正主義者は、天皇の平和主義的な実像とは矛盾する態度をとりながら、その権威だけを利用している。
この乖離を見れば、修正主義者の天皇観が「信仰」ではなく「政治的道具立て」であることがはっきり見えてきます。

私の見解

ここまで来ると、もはや連中の意図は、誰にも 動かしがたいほど明確になってきますね。

 

続きは、参政党による「装置」としての天皇利用戦略 です。

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