この記事の三行要約
大日本帝国は、天皇を神とする国家神道体制のもと、軍部が天皇の権威を利用して権力と責任回避を両立させた、国家というよりカルト宗教的構造だった。
天皇の名を使えば戦争も政策も正当化でき、国民は教育とメディアにより異論を不忠(神への冒涜)とみなす意識に染められていた。
終戦期には天皇の降伏決断さえ覆そうとする軍部が現れ、国体護持は実質的に軍の生存と利益確保のためだった。
今日の読売を読んでいたら、終戦特集をやっており、その中に気になる記述がありました。
※私はある事情から読売を購読しており、彼らのグローバリスト犬ぶりがわかってます。もともとCIAのスパイ装置であったことは証拠つきの事実です(今も続いてるでしょうね、想像としては)。
(1945年8月)10日、天皇が出席した御前会議で、天皇の英断(聖断)による形で、米英など連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」の受諾を決める。しかし、(それに対する)米国からの回答が届くと、事態は紛糾した。その内容が国体護持(天皇制維持)を保証していないとして軍部が反発したためだ。
この部分を読んでふと疑問に思ったのは、「なぜ軍部に反発する資格などあったのか」です。現在の文民統制という常識からは考えられないはずです。国に関する何を決める際であろうが、もし軍部(現代では自衛隊が相当するでしょうが)が出てくるなら、それは単に報告者・アドバイザーのはずであり、「反発」などありえないからです。
これを掘り下げていくと、大日本帝国なるものが、現代の概念でいう「国」というよりも、むしろ「宗教団体」に近いものであったことがわかってきます。それも単なる宗教団体ではなく、カルト宗教です。
ここにいたるまでの時系列(1945年)
ほとんど誰でも知ってる(はずの)時系列ですが、一応。私の場合は歴史の勉強が特に嫌いだったので、全く覚えておらず、少々まとめておきます。
ポツダム宣言の時点で日本の戦争継続能力は限界でした。
- 軍事面
- 海軍は事実上壊滅、本土防空も困難。
- 石油や弾薬の補給路は完全に遮断され、航空機もほぼ飛ばせない状態。
- 経済・生活面
- 空襲で都市と工業力が破壊され、国民生活は極度に疲弊。
- 戦争継続は可能でも、勝利や有利な講和の見込みはゼロ。
そして、AIによれば、こうです。
- 沖縄戦での日本軍の必死の抵抗は、米側にも「本土決戦ではさらに大規模な損害が出る」という懸念を抱かせた。
- 予想では、もし本土上陸すれば米兵の死傷者は数十万規模、日本側は数百万の死者が出ると試算されていました(しかし、結局原爆を使ったんですから、米側の死者数を減らしたかっただけという想像も)。
- そこで本土侵攻前に降伏を促す必要があった。
さらに、
- この時点でアメリカは原爆の完成を目前にしており、宣言を拒否すれば原爆使用の口実になることも視野に入れていました。
- 実際、ポツダム宣言は「拒否すれば迅速かつ完全なる壊滅を招く」と警告しています。
ポツダム宣言以降は以下です。特に原爆については、「原爆は不要だった」論、「日本側が降伏を遅らせたため原爆を招いた」論、「米国が原爆を実験したかった」論、「その破壊力で戦後の交渉力を高めるため」論などいろいろあります。
- 7/26:ポツダム宣言:米英中(後にソ連も)が無条件降伏を求める。「国体護持」が不明確で即時受諾には慎重
- 8/6,9:広島・長崎原爆、さらにソ連の対日参戦
- 8/10:最高戦争指導会議(6者会議)で意見まとまらず、天皇を交えた御前会議
天皇の「聖断」による「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾の通告を決定 - 8/12:米国からの回答
- 降伏後の統治は連合国最高司令官の権限下で行う
- 天皇および日本政府の権限は「最高司令官の支持のもとに置かれる」
- 天皇の地位は「最終的に日本国民の自由意思によって決定される」
国体護持の保証は明文化がなく、「天皇の地位保証」はなかった
- 紛糾
- 軍部:国体護持が保証されていない。天皇が廃位される可能性があると解釈
- 外務省・一部閣僚:これ以上の条件改善は不可能、回答を受け入れるべき
- 8/14:再度の御前会議:再び天皇が「戦争終結」の決断。ポツダム宣言の受諾を最終決定。
つまり、天皇は、自身の廃位の可能性にも関わらず、最終的には受諾を決定したわけで、それに反発していた軍部は天皇の決断であればと渋々受け入れざるをえなかったと解釈できます。
「日本のいちばん長い日」
かなり脇道にそれますが、ここに出てくるのが「日本のいちばん長い日」というノンフィクション・映画です。半藤一利原作で1967年公開(予告編)、2015年にリメイク版(予告編)。AIによれば事件の概要はこうです。
背景
- 1945年8月14日未明、昭和天皇の「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定。
- その日の夜、天皇の玉音放送録音が行われる予定で、翌15日正午に放送し国民に降伏を知らせる段取りだった。
- 降伏反対派の若手陸軍将校らは、この録音や放送を阻止しようと計画。
宮城事件(きゅうじょうじけん)の概要
- 首謀者:近衛師団の青年将校ら
- 目的:
- 玉音放送の録音盤を奪取し放送を阻止する
- 一部閣僚・宮中の要人を拘束し、徹底抗戦派の新政府を樹立する
- 動機:
- 「国体護持が保証されない降伏は受け入れられない」
- 「本土決戦で有利な条件を引き出すべき」
結果と影響
- 玉音盤は無事に守られ、計画は失敗。
- 反乱は小規模だったが、もし成功していれば放送延期・戦争継続の可能性もあった。
- 陸軍上層部は「天皇の意思に逆らう反乱」として沈静化に動き、事態拡大を防いだ。
- 戦後、この事件は「終戦を目前にしても一部の軍人は徹底抗戦を望んでいた」象徴的事例とされた。
補足
この事件は、軍部が天皇を統治権の象徴として利用しつつも、いざ天皇が「戦争終結」を望むと、それすら覆そうとした一部勢力がいたことを示します。つまり、「天皇のため」という大義は、実際には自らの戦争継続意志の正当化に使われていた面があります。
最後のAIの「感想」は非常に重要ですね。もはや天皇はどうでもいいわけです。
そして、降伏派の要人を物理的に排除、これは鈴木貫太郎首相(降伏推進派)、東郷茂徳外相(ポツダム宣言受諾を推進)、木戸幸一内大臣(昭和天皇の側近、降伏決断を支援)、宮内省幹部(玉音放送を準備)ですが、彼らを拘束・監禁し、新政府を作るというクーデター計画だったのです。
天皇を含め誰もが降伏を覚悟していた中で、「もっと戦争したいー、し続けたいー」という勢力がいたことがわかります。
最初に示した読売の記事では紙面の関係もあるでしょうが、「終戦に反対する軍人はなおも、皇居を占拠したり、鈴木(首相)を殺害しようとしたりして抵抗した」とさらっとした記述だけでした。
軍部には「天皇」が必要だった
ともあれ、一部とはいえ、天皇の意思に逆らってまで、クーデターを起こしてまで、国体護持(天皇制維持)に固執していたわけです。それはもはや「ほんとは天皇そのものなんて、どうでもいいんじゃね?」、「自分の都合で利用したかっただけでしょ?」とさえ言えてしまうほどです。
しかし、ここで疑問になるのが、軍部はなぜそれほどまでに天皇(の名前)を必要としたかです。AIに聞いてみました。
天皇の統治権は軍部にとって「存在理由」と「正当性の根拠」そのものでした。理由を整理すると、次のようになります。
1. 統帥権の源泉
- 帝国憲法下では、軍の最高指揮権(統帥権)は天皇に専属すると規定されていました(第11条・第12条)。
- 陸海軍は「天皇の軍隊」であり、内閣や議会ではなく天皇に直属する独立機関という立場をとっていました。
- つまり、天皇の統治権が失われれば、軍は憲法上の存在根拠を失うことになります。
2. 政治的免責の盾
- 軍部は自らの行動を「天皇の大命による」と位置づけることで、政策や戦争遂行の正当性を主張してきました。
- 戦争責任を問われたときも、「天皇の名のもとに行った」という形で、組織的・心理的に自らを正当化できた。
- 天皇の権威が否定されると、軍部は一気に「独断で戦争を起こした勢力」として孤立する危険がありました。
3. 国民統合の象徴としての必要性
- 戦前の国家体制では、天皇は「現人神(あらひとがみ)」として国民を統合する精神的支柱。
- 軍部は兵士を動員し士気を維持するために、この宗教的権威を不可欠としていました。
- 天皇制が廃止されれば、軍の存在意義や忠誠の対象が失われ、戦争遂行は困難になると考えられた。
4. 国体護持=自らの生存確保
- 軍部の多くは、連合国が天皇制を否定すれば、日本の体制は根本から変わり、戦後処遇も厳罰化すると予想していました。
- 特に陸軍上層部は、天皇制維持は自分たちの存続条件と直結しており、国体護持は「国家のため」以上に「軍のため」でもあったのです。
まとめ
軍部にとって天皇の統治権は、
- 法的根拠(統帥権の源泉)
- 政治的正当性の盾
- 国民動員の精神的支柱
- 自分たちの戦後生存戦略
のすべてを兼ね備えていました。
そのため、米国回答で天皇の地位が「国民の自由意思で決定」とされたことは、軍部にとっては組織の存立を根本から揺るがす脅威でした。
とのことでした。
天皇の神性
そこでこう聞いてみました、「この当時、天皇はその姿も国民の前には表さず、神であるとして、その命令は絶対と国民は教えられていたのですよね?」。
その通りです。終戦直前までの天皇は、現在の「象徴天皇」とはまったく異なる存在で、姿をほとんど国民の前に見せない“現人神”として位置づけられていました。
1. 姿を見せない存在
- 大正天皇の病弱以降、昭和天皇も公の場への登場は儀式や特別行事に限られ、一般国民が直接その姿を見る機会はほぼありませんでした。
- メディアに出る写真や映像も極めて制限され、天皇の映像は主に行幸(軍の視察や式典)などの公式行事のみ。
この「遠くから拝する存在」という演出が、神秘性と権威を高めていました。
2. “現人神”としての教育
- 国家神道体制のもと、教育勅語や修身教育で、天皇は「天照大神の子孫」「万世一系」の現人神(あらひとがみ)であると教えられていました。
- 国民は天皇に対して無条件の忠誠を尽くすよう教育され、「天皇の命令=絶対」という価値観が徹底されていました。
- 特に軍隊では、「天皇陛下の赤子(せきし)」として命を捧げることが最高の名誉とされました。
3. 命令の絶対性
- 帝国憲法では、天皇は立法・行政・司法の三権を超越する存在であり、統帥権・外交権など国家の最高権限を持っていました。
- 政策や軍事行動も「天皇の大命」によるとされ、国民はそれを疑うこと自体が不忠とされました。
- このため、天皇の名を使えば、どんな政策や戦争も正当化できる構造がありました。
4. 終戦時の変化
- 1945年8月15日の玉音放送が、ほとんどの国民にとって初めて直接耳にする天皇の声でした。
- それまで声すら聞いたことのない存在だった天皇が、終戦を告げる肉声を発したことで、多くの国民が精神的衝撃を受けています。
- つまり当時の天皇は、現実の政治権力と宗教的権威を一身に備え、国民から見れば“神にして最高司令官”という二重の存在でした。
- 軍部にとっても、こうした絶対的権威を背景に戦争を遂行できる体制は手放せないものでした。
誤解を恐れずに簡単に言ってしまえば、当時の日本は正当な統治機構を持つ国家というよりも、むしろカルト宗教だったわけです。だってそうでしょう?天皇は神であって、「民」はその姿を見たことも、声を聞いたこともなく、そして「天皇の名を使えば、どんな政策や戦争も正当化できる構造」があったのです。
国民どころか、本人である天皇の意思さえも無視して(報告は受けたでしょうが)、勝手なことができたわけですね。だからこそ、天皇が自らの処遇に関わらず降伏受諾の決断をしたときにさえ、これに反発してクーデターさえ起こそうとしたのです。
これは軍部によって非常に都合のいい構造と言えます。天皇の名において好き勝手なことができ、それに国民を従えることができ、その一方で責任は自分たちにはないのです。信者には神が見えない、その声も聞こえないことをいいことに、司祭たちはやりたい放題できて、その結果を「神」に背負わせるということです。
こういう解釈には異論がありましょうが、私にはそうとしか見えません。
つまりこれは、国家などではないのです。カルト宗教だったのです。
天皇は戦争の各段階にどれほど関わっていたのか?
よく「天皇の戦争責任は?」と言われますが、実際にどれほど関わっていたのでしょう?たぶんこれも、様々学説などあるでしょうけど、もちろんここではAIの答えを見てみます。
史料を総合すると、「天皇は戦争の各段階で一定の関与や了承をしていたが、それは直接の作戦命令というより、方針承認や人事裁可の形が多かった」と言えます。
戦前・戦中の統治構造では、天皇は「統帥権の総攬者」と憲法に定められており、軍の最終権限は天皇にありました。しかし実務は参謀本部や軍令部が握り、天皇は彼らからの「上奏」に対して裁可する形式でした。
1. 開戦前の段階
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例:1941年12月1日 御前会議
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対米英蘭開戦を決定した最高意思決定の場
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天皇は軍部・政府の意見を聴取し、「やむを得ない」と最終的に承認
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裏では、開戦を避けるための外交努力を続けるよう指示した記録もあり
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2. 戦争中の関与
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作戦計画の事前承認
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大規模作戦(真珠湾攻撃、ミッドウェー作戦など)は天皇に報告され、裁可を得た
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戦局悪化時の意見
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1943年以降、戦局に懸念を示し、和平の可能性を探る発言が増える
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しかし軍部の強い抵抗や情報統制で実際の影響力は限定的
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人事への関与
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参謀総長や海軍軍令部総長など、軍トップの任命権を保持し、時に人事介入を行った
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3. 終戦段階
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1945年6月22日 御前会議
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「国体護持」を前提に終戦工作を開始することを指示
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1945年8月10日・14日
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ポツダム宣言受諾を最終決断
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徹底抗戦派の反発を押し切り、玉音放送を通じて国民に直接呼びかけ
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まとめ
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天皇は憲法上も実質上も戦争の最終権限者で、開戦・主要作戦・終戦に関して裁可を与えていた
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ただし実務の大半は軍部主導で、天皇は事後承認に近い形も多かった
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情報の多くは軍部フィルターを通しており、戦局の真実を把握するのが遅れた面もある
昭和天皇の戦争関与時系列表(1931〜1945)を作成します。これは、主要な戦争関連の決定・事件において、天皇がどのような発言や裁可を行ったかをまとめたものです。
昭和天皇の戦争関与時系列(1931-1945)
| 年月日 | 出来事 | 天皇の関与・発言 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1931/9/18 | 柳条湖事件(満州事変の発端) | 事件直後に報告を受け、「現地軍が不拡大方針を守るべき」との意向を示す | 関東軍は無視して戦線拡大 |
| 1937/7/7 | 盧溝橋事件(日中戦争開始) | 当初は拡大回避を望むも、参謀本部の報告に同意し裁可 | 事実上、日中戦争承認 |
| 1940/9/27 | 日独伊三国同盟締結 | 外交的リスクを懸念する発言あり | 最終的には同盟調印を承認 |
| 1941/9/6 | 御前会議「帝国国策遂行要領」決定 | 対米開戦を前提とする方針に裁可 | ただし外交努力も並行するよう指示 |
| 1941/12/1 | 御前会議で開戦決定 | 米英蘭への開戦を裁可 | 「やむを得ない」との発言 |
| 1942/6/5 | ミッドウェー海戦前 | 作戦説明を受け裁可 | 結果は大敗、以後作戦説明への質問が増える |
| 1943/9月頃 | 戦局悪化の認識 | 「戦争の終結を考えるべき時期」と側近に漏らす | 宮中日記などに記録 |
| 1944/7/18 | 東条英機首相辞任 | 東条の更迭を決断 | 戦局打開策の行き詰まりが背景 |
| 1945/2 | 米軍フィリピン制圧 | 終戦の可能性を近衛文麿らに打診 | 「国体護持」を条件に和平を模索 |
| 1945/6/22 | 御前会議で終戦工作指示 | 外務省にソ連仲介による和平交渉を命じる | 徹底抗戦派は依然強硬 |
| 1945/8/10 | 御前会議でポツダム宣言受諾決定 | 「私の意見は変わらぬ」と述べ受諾を決断 | 国体護持の保証はなし |
| 1945/8/14 | 終戦の聖断 | 徹底抗戦派の抵抗を抑え、宣言受諾を最終決定 | 玉音放送録音 |
| 1945/8/15 | 玉音放送 | 国民に終戦を告げる | 初めて直接国民に語りかけ |
特徴的な傾向
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開戦前は外交努力を並行する姿勢を見せつつも、最終的には軍の方針を承認
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戦局悪化後は終戦意向を強めたが、軍部の反発で実現が遅れた
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終戦は天皇の「聖断」がなければ実現困難だった
私の見方
途中で書いたように、これは国家などではなく、カルト宗教です。全国民の約半数の男子の選挙により議会を作ってはいましたが、それとは無関係に天皇が神とされ、その意思として、あるいは意思に背いてさえ、主には軍部が勝手なことをし、その強制信者(つまり国民)は疑うことさえ不忠(神への冒涜)とされ、そんなことをすれば容赦なく罰を受けたわけです。
これは憲法自体の問題を越えるものじゃないでしょうか?たしかに帝国憲法では、国民の権利は「国から与えられるもの」となっており、法によって簡単に言論の自由などが制限されたわけですが、それだけの問題ではありません。
それよりもむしろ、国民の意識がそうなっていたということです。ここで重要な役割を果たしていたのが、やはり教育やメディアなんですが、特にとりあげるまでもないでしょう。彼らもまた、この架空のストーリーを強制信者に流布し、異論を許さない体制を作っていたわけです。
これがカルト宗教でなくて何なのでしょう?結局のところ、この国の国土全体がカルト教団だったのです。現代的な言葉で表現するのならば、そうとしか言いようがないのですが、他に何か言い方がありますか?
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