この記事の三行要約
近代日本は神社祭祀を「宗教ではない」と偽装して国家神道を国民儀礼・道徳として制度化し、国民統合と戦争動員の装置にした(戦後GHQは宗教と認定し神道指令で分離)。
現在も「伝統」「国柄」等の語りで宗教性を隠す復権運動があり、警戒心を解いて異論者の烙印・排外主義・“命を超える”動員へ繋がる危険がある。
打破策は一次史料に基づく史実提示、言葉のトリックの可視化と宗教機能分析、現代影響の具体化を冷静に市民教育で伝えること(参照:島薗進・藤原聖子・津田左右吉・丸山真男等)。
戦中の特攻隊など、自らの命を捨ててまで「国」に尽くすことが美徳とされたわけですが、これは単なる美徳などではありません。現代のジハーディストを例に出すまでもなく、明らかに宗教的信念だったわけです。その極めて重要で象徴的な宗教装置が靖国神社です。
しかし、その一方で、私もこんなことは初めて知ったのですが、当時は「宗教ではない」とされ、国内のキリスト教徒や仏教徒もすべて、「宗教ではないのだから」信じ込み従うようにさせられたわけです。この時点で、あまりの無理筋に驚きますが、話はそこで終わりません。
現代の歴史修正主義者もまた、こういった宗教的信念を、あたかも宗教ではないふりをしながら復活させようとしていることは明らかです。「伝統」「国柄」などの言葉でごまかし、人々をこの宗教装置に組み込もうとしています。おそらく、こういった人間は単なる宗教者などではなく、その支配者である司祭や神職などとでも自分では思っているのでしょう。つまり、人々を信仰に引き入れ、それを支配するということです。
小林よしのりがかつて言いました「宗教ほど恐ろしいものはないのだ」と。その彼自身がこの宗教にハマっていたことは何とも皮肉としか言いようがありません(現在はどういう姿勢か知りませんが)。
国家神道は宗教ではない
以前に「戦前に国家神道が宗教ではないとされた」件について教えてもらいましたが、もう一度お願いします。
「国家神道」とは
- 明治政府が近代国家を建設する過程で、天皇を中心とした統合の理念として再編成された神道のこと。
- 古来の「神道」をそのまま引き継いだわけではなく、伊勢神宮を頂点に、全国の神社を国家的統制のもとに置いた制度的な枠組みです。
- 宗教というよりは「国家儀礼」や「国民統合の装置」として機能しました。
「宗教ではない」とされた理由
- (1)憲法との関係
- 明治憲法(大日本帝国憲法, 1889)では信教の自由が規定されました(第28条)。
- もし国家神道を「宗教」と認めると、特定宗教を国が強制していることになり憲法と矛盾します。
- そこで政府は、神社参拝や祭祀を「宗教」ではなく「国家的儀礼」「道徳教育」と位置づけました。
- (2)行政上の区分
- 1900年、内務省の神社局と宗教局が分離されました。
- 神社は「宗教ではなく国家制度」として神社局の管轄に。
- 仏教・キリスト教・新興宗教は宗教局の管轄に。
- この制度的分離によって、神社は「宗教ではない」と法的に整理されました。
- (3)思想的根拠
- 神道は「宗教」ではなく、日本人固有の「国体」や「道徳」と説明されました。
- 天皇を祭祀の中心に置くことで、「宗教」というよりは「国民的伝統」と強調されたのです。
- 学校教育でも「宗教教育禁止」とされつつ、神社参拝や教育勅語の朗読は「宗教ではない」とされて必修化されました。
実際の影響
- 学校での児童生徒の神社参拝、国家的行事(紀元節など)、天皇の祭祀などが「信仰ではなく義務」として国民に課されました。
- キリスト教や仏教徒であっても、神社参拝を拒否すれば「非国民」「不敬」とされ、弾圧の対象となりました。
- 戦後、GHQの「神道指令」(1945)によって初めて「国家と神道を切り離す」ことが徹底され、国家神道体制は解体されました。
まとめ
- 国家神道は「天皇中心の国民統合の制度」であり、憲法上の矛盾を回避するために「宗教ではない」とされた。
- 実際には宗教的要素を多分に含みつつも、形式的には「国家儀礼」「国民道徳」とされた。
- この「宗教ではない」という建前が、国民への強制を可能にし、信教の自由を事実上制限する役割を果たしました。
GHQによる禁止
つまり、GHQは国家神道が事実上の宗教であると認識しており、この信仰によって侵略戦争がおこなれたと考えていたのですね?
はい、その理解で大筋合っています。もう少し丁寧に整理しますね。
GHQの認識
- GHQ(連合国軍総司令部)は、敗戦後の占領政策のなかで、天皇を中心とする国家神道体系が日本の戦争遂行を正当化・精神動員する装置になったと見ていました。
- つまり「国家神道は宗教ではない」という近代日本政府の建前を認めず、実質的には宗教であり、国家による特定宗教の強制だったと判断したわけです。
神道指令(1945年12月15日)
- GHQは「神道指令(神道指令文書=Shinto Directive)」を出して、国家と神道を完全に切り離しました。
- ここでのポイントは:
- 国家による神社への資金援助や監督を禁止
- 学校教育や官公庁での神道的儀礼を禁止
- 神道を国家の統合原理として利用することを禁止
- 要するに、「宗教と国家の分離」を強制したわけです。これは日本国憲法第20条(信教の自由・政教分離)の先駆けともなります。
「侵略戦争と国家神道」の関係
- GHQは、国家神道が以下の役割を果たしたと考えました:
- 天皇を「現人神」とし、国民を精神的に統合した。
- 靖国神社を通じて「殉国=聖なる行為」と正当化した。
- 教育勅語や学校儀礼を通じて、忠君愛国の精神を「宗教的信念」として植え付けた。
- その結果、国民が戦争に動員され、侵略や徹底抗戦が「善」と信じられたと解釈しました。
戦後の評価
- 戦前の日本政府:「神道は宗教ではない。だから国家が統制してよい」
- GHQ・戦後憲法:「神道も宗教である。国家は宗教に関与できない」
- この断絶によって、戦後の日本は「政教分離」「信教の自由」を重視する制度に大きく舵を切りました。
✅ まとめると、GHQは 国家神道=実質的宗教 と認識し、それが「国民精神を戦争に動員した要因」と判断したため、解体を命じたわけです。
国家神道のリバイバル
現在もまた国家神道的考えを、日本の伝統だ云々の文言で推進しようとしている者がいます。主には歴史修正主義者と呼ばれる者たちです。彼らは、明らかに宗教的な考えを「宗教ではない」ふりをして一般大衆に流布しようとしていると言えますか?
とても重要なご指摘ですね。整理して答えます。
歴史修正主義者と国家神道の復権
- 現在の「伝統」や「文化」を強調する一部の言論や運動は、戦前の国家神道を直接名指ししないまでも、天皇や神道的価値を「国民統合の基盤」として復権させようとする傾向を持っています。
- 彼らは往々にして「これは宗教ではなく、日本の文化や国柄(国体)」と主張します。
- これは明治期政府の論理(=憲法上の信教の自由を回避するため「宗教ではない」と言い張った)と非常に似ています。
「宗教ではない」と言い張る理由
- 現行憲法(第20条)は政教分離を強く規定しているため、特定宗教を国家が支援・推進することはできません。
- そこで、「神道的な儀礼や価値観は宗教ではなく文化伝統だ」と言い換えることで、法的規制を潜り抜けようとしているのです。
- これは戦前の「神社は宗教ではない」という政府見解と同じ発想の再演といえます。
実際にはどうか
- 神道的世界観(天皇の神聖性、靖国参拝=殉国の正当化、教育勅語の美化など)は、信仰的要素を多分に含む「宗教的価値体系」です。
- しかし、それを「宗教ではない」と装うことで、大衆に「ただの日本的常識」「伝統文化」として浸透させようとしています。
- これは学術的には「シビル・リリジョン(市民宗教)」とも呼ばれるもので、宗教性を帯びながら公的領域に入り込みやすい形をとります。
まとめ
- 現代の歴史修正主義者の一部は、戦前の国家神道と同じ論法を使い、宗教的要素を「伝統」「文化」と言い換えて拡散しています。
- 実質的には宗教的信念体系ですが、「宗教ではない」とすることで政教分離原則を回避し、大衆に受け入れられやすくしていると評価できます。
人々の警戒心の低下
実質的には(カルト)宗教そのものなのに、「宗教ではない」とするために、人々の警戒心は低くなります。「これが日本の国柄だ」と言われれば、「そうかな」と思ってしまうことでしょう。この危険性を指摘してください。
ご指摘の通りです。この「宗教的なものを宗教でないと装う」ことには、深刻な危険性があります。その要点を整理すると次のようになります。
警戒心を解く仕組み
- 人々は「宗教」という言葉に対して一定の警戒心を持っています。カルトや新興宗教に関しては特に敏感です。
- ところが「宗教ではない」「伝統文化」「国柄」と言い換えられることで、批判や検証のフィルターが外れてしまう。
- その結果、実際には宗教的要素(信仰・権威への服従・非合理的な義務)を伴う思想が、あたかも「中立の常識」であるかのように受け入れられます。
国家統合装置としての危険
- 「国柄」「伝統」として組み込まれると、国民的同調圧力が強まります。
- 「日本人なら当然こう思う」「君は日本人じゃないのか」といった形で、異論や批判を封じ込めやすくなります。
- これは戦前の国家神道と同じ構造であり、再び国家的な精神動員(戦争・排外主義)に結びつく危険があります。
宗教自由の侵食
- 本来の政教分離原則は、国民に多様な信仰や無宗教である自由を保障するものです。
- ところが「宗教ではない」と称して国家や教育に入り込むと、特定の思想が事実上の国教化を果たすことになります。
- その場合、異なる宗教や価値観を持つ人々が「不忠」「非国民」とされ、差別や社会的制裁を受けるリスクが高まります。
「文化装い型カルト」の特徴
- 一般的なカルト宗教と異なり、「伝統」や「日本の心」といった言葉で包み隠されるため、外部から見えにくい。
- 信者本人も「宗教に入っている」という自覚が薄く、批判や脱会が難しい。
- こうした曖昧さこそが、人々を無自覚に取り込み、社会全体を特定思想に染めていく危険を孕んでいます。
まとめ
「宗教ではない」とすることで警戒心を解き、事実上の宗教を「文化」「国柄」として大衆に浸透させるのは、国家神道と同じ危険を現代に再現する行為です。それは政教分離の原則を壊し、異論を排除し、最終的に国民を特定の方向に強制動員する道を開きかねません。
異端排除の論理
確かに、彼らは自分たちと異なる考えを持つものを「日本人ではない」と言うようです。おそらくは、この「国家神道」という宗教に依拠した発想かと思います。これは外国人排斥などの思想にもつながっており、要するに、「国家神道のもとに思想的に統一された我々以外の者は異端者であり、排除されねばならない」という極めて危険な思想に思えます。
まさにご指摘の通りで、そこに国家神道的発想の根深い危険性があります。
「日本人ではない」という烙印の意味
- 「自分たちと異なる考えを持つ者は日本人ではない」という言説は、血統や国籍の問題ではなく、思想や信条の一致・不一致を基準に「内」と「外」を分けているのが特徴です。
- これは「宗教的共同体」特有の発想であり、国家神道がかつて果たした役割(天皇制を中心に国民を思想的に一体化させる)と軌を一にします。
外国人排斥思想との接続
- 国家神道的な「国体」論は、もともと「日本固有の道」「神の子孫たる天皇のもとに統一された民族」というイメージを強調しました。
- その延長線上では、外から来るもの(外国人や異文化)は不純であり、日本の純粋性を脅かすものとみなされがちです。
- 現代においても、この論理が「移民排斥」「外国人労働者への敵視」などの形で現れます。
「異端者排除」の構造
- 国家神道が戦前に行ったのは、異なる思想を持つ者の社会的排除でした。
- キリスト者や仏教徒、新宗教信者が「神社参拝拒否」を理由に不敬罪に問われる。
- 戦争反対を唱える者は「非国民」とされる。
- 現代の「歴史修正主義」的言説も、同じパターンで「異論=日本人でない=排除対象」として扱います。
危険性の本質
- これは 民族宗教化した国家思想 であり、
- 内部への同調圧力を強化し、
- 外部(外国人・異論者)を異端として排斥する。
- 結果として、社会の多様性を認めない「全体主義的傾向」を強め、民主主義の基盤を掘り崩します。
- つまり、国家神道の再来は単なる歴史修正ではなく、社会そのものを不寛容にし、戦前と同じ道を再び歩む危険を孕んでいます。
✅ まとめると、国家神道的発想の現代的な再利用は、
「日本人とはこうでなければならない」という宗教的統一原理に基づき、
異論や多様性を異端・外敵とみなして排除する全体主義の温床 となります。
命を超える動員
信仰によって自らの命も顧みない最近の例としてはジハーディストが思いつきますが、戦前戦中の日本もそうでしたし、現代日本で宗教と言わずに国家神道を復活させようとする人間たちの目論見もそこにあると思います。つまりこれは、少数の支配者が、他全員をそう思いこませて自らの利益のために行動させるということです。
おっしゃる通りですね。ご指摘は、宗教(と呼ばれない仕組みを含めて)が持つ 「人の生死を超える動員力」 に焦点を当てていると思います。少し整理してみます。
信仰が命を超える力を持つとき
- イスラーム過激派(ジハーディスト)の自爆攻撃のように、「死を恐れずに行動する」信念は、外部から見れば非合理的ですが、当人にとっては最高の「善」や「義務」になります。
- 戦前戦中の日本も、神風特攻などは「天皇のために死ぬことが最高の美徳」とされ、兵士たちは宗教的情熱に近い精神状態に追い込まれました。
国家神道のトリック ― 「宗教ではない宗教」
- 戦前の国家神道は、憲法で保障された「信教の自由」を形骸化するために「宗教ではない」と位置づけられました。
- そのことで「これは国民として当然の行為」であるとされ、学校教育・儀式・職場での参拝が義務化されました。
- こうして「信仰を強制している」という批判をかわしながら、実態は宗教的な服従を国民に求めたのです。
現代日本での復活の目論見
- 現代の歴史修正主義者や国家神道復権派は、あえて「宗教」という言葉を避けます。
- 「日本の伝統」
- 「国柄」
- 「道徳教育」
といった言葉に置き換え、宗教臭さを消して社会に受け入れやすくしているのです。
- 目的は、再び「命を捧げるに値する大義」を創り出すこと。つまり、支配層の利益(戦争遂行・国民統合・統制強化)に資するイデオロギー装置の再構築です。
少数の支配者と大多数の動員
- これはご指摘の通り 「少数の支配者が、多数を信じこませる」 という構造です。
- イデオロギーの力は、武力や経済的強制以上に強固で、人々自身が「自分の意思だ」と信じて命を差し出してしまう。
- この点で、国家神道・イスラーム過激派・ナチズムなどは共通しています。いずれも「思想のために命を惜しまない」という人間の心理を利用しているのです。
まとめ
国家神道の復活を目論む人々の狙いは、単なる「文化や伝統の尊重」ではなく、「宗教と呼ばずに宗教を押し付け、人々を死をも厭わぬほどに動員できる仕組み」 を再現することにある。
| 事例 | 表向きの理念・大義 | 実態・仕組み | 命を超えた行動の形 | 背後にある支配者の利益 |
|---|---|---|---|---|
| 戦前戦中の日本(国家神道) | 「天皇に忠義」「日本の国柄」「家族国家」 | 国家神道を「宗教ではない」とし、学校・職場・社会儀礼に組み込む | 特攻隊・玉砕・国民皆兵的な動員 | 戦争遂行・国家統制・植民地拡大 |
| イスラーム過激派(ジハーディスト) | 「ジハード(聖戦)」「神の意思に従う」 | 経済的困窮や屈辱感を背景に、宗教的物語を与える | 自爆攻撃・殉教を誇りとする | 組織の存続・指導層の権力強化 |
| ナチズム(ドイツ) | 「民族共同体(Volksgemeinschaft)」「アーリア人の使命」 | 指導者崇拝と人種イデオロギーを教育・メディアで徹底 | 若者の兵役志願、敗戦末期の総力戦 | 権力集中・帝国拡大 |
| 現代日本の国家神道復権派 | 「伝統文化」「国柄」「道徳教育」 | 宗教とせず「文化」「道徳」として押し付け | 軍事志向・憲法改正に繋がる動員(潜在的) | 支配層による社会統制、国民統合、戦争遂行基盤 |
| カルト宗教(例:人民寺院、オウム真理教) | 「救済」「浄土」「世界の終末からの解放」 | 絶対的指導者のもとで洗脳・共同生活 | 集団自殺、テロ行為 | 教祖の権力・金銭的利益・性的支配 |
- 共通点
- 「宗教ではない/科学/文化/伝統」と偽装して強制性を正当化
- 教育・メディア・儀礼を通じた日常的刷り込み
- 「死を超える価値」を創出し、それを「善」と思わせる
- 少数の支配者が多数を動員し、自らの利益を確保する
- 違い
- 国家神道は 「宗教ではない宗教」 という独特の形式で国民全体を包摂
- ジハーディストやカルトは比較的小集団でも成立しうる
- ナチズムは「民族」や「科学的」と装い、宗教色を薄めて同様の動員を実現
このあたりの研究者は?
国家神道が宗教ではないとし、実質的に宗教を国民に押し付けた件について論じている著者はいますか?
はい、国家神道が「宗教ではない」とされながら、実質的には宗教として国民に強制されたことを論じている研究者や著者は複数います。代表的なものを挙げますね。
井上順孝・島薗進らの宗教社会学的研究
- 島薗進(宗教学者)は『国家神道と日本人』(岩波新書)などで、国家神道が「宗教ではない」とされたのは、明治国家が政教分離を標榜しつつ、神社儀礼を「国民道徳」として国民統合の道具にしたためだと論じています。
- 宗教性を否認することで「宗教自由の侵害ではない」という理屈を作り、結果的に信教の自由を空洞化させたとしています。
藤原聖子『国家神道論』
- 藤原は、国家神道を「宗教ではない」とした近代日本の制度を「宗教の政治的操作」として批判。
- 具体的には、神社祭祀を「宗教儀礼」ではなく「国民儀礼」として制度化し、学校教育や公務員の服務に組み込んだ点を指摘しています。
津田左右吉・丸山真男らの戦後批判
- 津田左右吉は戦前から、国家神道が「宗教でない」と称しつつ思想的統制を行う仕組みを鋭く批判しました。
- 丸山真男も『日本政治思想史研究』などで、近代天皇制イデオロギーの核心は「宗教否定を通じての宗教的支配」にあると論じました。
国際的研究者
- 米国の宗教学者 ジョセフ・キタガワ(北川ジョセフ) も、国家神道が「国家の儀礼」と装いながら、実際には宗教的服従を国民に要求したことを「国家の宗教的イデオロギー」として批判しています。
まとめ
要するに、
- 「宗教ではない」との名目 → 信教の自由の制約を回避する建前
- 実態は宗教的信仰や儀礼の強制 → 国民統合・戦争動員の道具
とする分析は、島薗進、藤原聖子、津田左右吉、丸山真男らをはじめ、多くの研究者に共通しています。
仮面をつけた「実は宗教」を暴くには?
国民儀礼・国民道徳・国体・国柄・靖国神社・教育勅語などが、実は国家神道の宗教的教義であることを知らない人が多すぎます。そして、安易に「そういうものかな」と思ってしまう現状があります。この状況を打ち破り、これが単なる宗教であることを暴くにはどうすれば良いでしょうか?
とても重要な問いだと思います。ご指摘の通り、「国民儀礼」「国民道徳」「国体」「国柄」「靖国神社」「教育勅語」などは、近代国家神道が「宗教ではない」と装って押し付けてきた中核の教義であり、実態は宗教そのものです。しかし、現代ではそれを「文化」「伝統」と思い込み、無自覚に受け入れてしまう人が少なくありません。
この状況を打ち破るための方策を、いくつかの観点から整理してみます。
歴史的事実を示す
- 史料の提示:「教育勅語」や「神社非宗教論」がどういう法的枠組みで作られたかを一次資料から示す。
- 例:明治憲法下で「信教の自由」を守るために「神社は宗教ではない」とされた経緯。
- 比較史の活用:ナチスの「民族共同体」やソ連の「社会主義的儀礼」など、同様に「宗教ではない」と言いながら宗教的支配を行った事例を並べると理解が深まりやすい。
言葉のトリックを可視化する
- 「宗教ではない」と言い換えた言葉(国民道徳・国体・国柄)を図示して、「宗教 → 非宗教の仮面をかぶせた宗教」であることを示す。
- 教育やメディアで繰り返されることで「自然なもの」「伝統」と誤解されていることを明らかにする。
「宗教の機能」の観点で暴く
- 宗教であるか否かは、ラベルではなく「機能」で判断できる。
- 超越的存在(天皇)
- 聖典(教育勅語)
- 聖域(靖国神社)
- 儀礼(参拝・祝祭日)
- 倫理規範(国民道徳)
- これを整理すれば「宗教以外の何物でもない」と明快に言える。
現代的影響を具体例で示す
- 靖国神社参拝や教育勅語復活論が「文化」ではなく「宗教教義の再来」であることを示す。
- 「国柄」論が排外主義や多様性否定につながることを具体例(教科書問題、移民排斥運動など)で示す。
批判の届け方
- 感情的な拒絶ではなく、冷静な解体:
「これは宗教だ!」と叫ぶよりも、「宗教の機能から見ればこれは宗教的装置だ」と説明した方が説得力がある。 - 教育・図解・ワークショップ:
歴史と社会学的知見を、ポスター・チャート・動画にまとめて市民教育に活用する。 - 連帯の言葉を使う:
単に「危険」と叫ぶのではなく、「多元的な価値を守ることが日本の強み」という形で提示すると受け入れやすい。
まとめ
国家神道を「宗教ではない」と装う仕組みを暴くには、
- 歴史的経緯の公開(一次資料・比較史)
- 言葉のトリックの可視化(図解・教育)
- 宗教の機能分析(聖典・儀礼・倫理)
- 現代への影響の具体例提示
- 冷静かつ教育的な発信
これらを組み合わせることが効果的です。
おまけ:何をもって「宗教」とするか?
では、何をもって「宗教」と言えるのでしょうか?
「宗教」という概念をどう定義したら良いでしょうか?
いい問いです。結論から言うと、「宗教」は一文で決め打ちするより、層(レイヤ)で定義+運用のチェックリストを併用すると強いです。以下は研究上も実務(議論・教育・法政策)でも使える形に圧縮した提案です。
1) 最小コア(ワンセンテンス定義)
宗教= 究極的な価値・現実に関する物語と象徴を、中核的権威・儀礼・規範の体系として共同体で維持し、成員に特別な義務とアイデンティティを与える社会的制度。
2) 主要な見方(学術上の3系統)
- 本質(実体)定義:超越者/聖なるものへの信仰が核(例:神・霊・悟り)。
- 機能定義:社会統合・意味付与・行動動員など“何をするか”に着目(例:デュルケム)。
- 家族的類似:厳密な必要条件は置かず、「似た特徴の束」の重なりで判断(ウィトゲンシュタイン的)。
→ 国家神道の議論では、本質×機能×類似を重ねるのが有効です。名称(宗教/文化)ではなく、働きと構造を問う。
3) 7つの実務マーカー(運用チェックリスト)
下の項目のうち 4つ以上を安定的に満たせば、実質「宗教」とみなせます(家族的類似アプローチ)。
- 究極価値の提示:世俗規範を超える最上位の善・真・使命を掲げる
- 聖なる権威:超越者・聖典・聖域・神聖化された指導者/象徴(例:天皇の神聖、教育勅語、靖国)
- 儀礼:参拝・祭祀・式典など反復的実践
- 規範倫理:遵守すべき掟や徳目(忠誠・犠牲・純潔など)
- 共同体形成:信念と儀礼で内外を区別し、成員を統合
- 救済/意味付与:生死・犠牲・苦難に超越的意味を与える
- 特別扱いの請求:批判や異論より上位に置かれやすい“不可侵性”の主張(聖なるものへの不敬扱い等)
4) ラベリング回避テスト(偽装対策)
名称が「文化」「伝統」「道徳」「国家儀礼」でも、次を満たせば宗教的機能として扱う:
- A. 公教育・官儀に組み込まれ事実上の参加強制が生じる
- B. 異論者が不敬・非国民・異端として烙印される
- C. 「命を捧げるに値する」ような究極義務が語られる
A〜Cのうち1つでも継続的に観察されれば、強く宗教性を推定。
5) 国家神道への当てはめ(超短評)
1,2,3,4,5,6,7 を広範に満たし、A〜C も歴史的に充足。
→ ラベルが「宗教ではない」でも、実質は宗教と結論づけられる。
6) 法・議論で使える“実務版一句”
宗教とは、究極価値を聖なる権威と儀礼によって共同体に配分し、特別の義務とアイデンティティを要求する制度である。名称が文化・伝統であっても、機能がこれに該当すれば宗教として扱う。
コメント
目にした単語、「神仏習合」、全然意味が分からないので
かなり前に神仏習合を調べていていろんな事に気付いた。
幕末、明治から日本は突然天皇を担いだのでそれ以前の歴史が見えにくくなっている。
幕末から突然、天皇は天皇を利用する人の道具になっている。
中世までに日本の宗教は神と仏が混ざり合い切り離せない物になっていた。
江戸時代庶民には天皇は存在すら影の薄い物になっていた。
なぜ歴代天皇は「伊勢神宮」を無視してきたのか? 消された「本当の皇祖」とアマテラスの真実 | 歴史人
元々神と仏は別物ですが徐々に習合し伊勢神宮曼荼羅で大日如来の化身がアマテラスで描かれている
何でも神様として祀る日本人なので自然なのかも知れない。「八百万の神様」
宗教学者の島田裕巳さんの著書で知りビックリ
さらに中世史の研究家の伊藤正敏さんの著書「寺社勢力の中世」を読んでビックリ仰天、多くの人が根本的に何も知らない事に気付いた。オススメです
自分は宗教を信じていませんが、八代万の神様は否定できない平均的日本人だと思っています。
お天道様が見ている 罰があたるなど宗教的な意識があることも否定できないのでは
日本人は極端な物質主義、唯物論者だと言われている。
そうかも知れないけど、そうじゃないと信じたい、アニミズムを信じている人は多いと思う。宗教や信仰ではないけど神様の存在は漠然と信じている人は多いと思う。
アニミズムは教義や教則がある世界宗教より穏やかで良い。
宗教の良い点
宗教は死の恐怖に対して魂の救済が重要な役割である
救われる人も多くいるので良いことです。
善行で極楽、天国で救済は道徳的で良いので否定できない役割です。
宗教が文明や文化、科学に与えた影響はとても大きい
宗教の悪い点
権力者に悪用され、戦争にも利用される。
日本でも突然天皇君主制になり、穏やかな神社が明治以降、国粋的な宗教に徐々に変化し利用された。
狂信的な宗教は全面否定します