太田泉:なんちゃって世界デモの自由

塚口洋佑の悪事については、/tag/塚口をご覧ください。

あちこちに突然現れて、びっくりさせる太田泉さん(男性)からエッセイをいただきました。このあいだ、大阪豊中での中村医師講演会のボランティアしてるのに出くわした時はびっくりしました。私と中村医師の神戸での講演会もわざわざ来てくれました。

以下のエッセイでちょっと認識が違っているところは、世界同日デモ日本委員会は、決してニコミ会が母体ではなく、これまで世界デモを引っ張ってきた京都、名古屋、大阪等を私が集結させたものです。

前回の彼のエッセイは、一人活動家から見たダブスタ塚口さんです。


「世界同日デモ日本委員会」
(日本と子どもの未来を守る会 が母体)
3月より日子未会で開催し続けた実績によりドイツのWWD本部の
認可を受理。
https://wwd-japan.net/

「日本・世界同時デモ主催者連盟」
(7月設立 反コロナ共闘委員会が 母体でほぼ同一)
今回より、ドイツWWD本部の無認可ながら世界デモと銘打ち開催。
https://korochazuke.blogspot.com/2021/05/blog-post.html

【 世界との接点を持たず開催時期だけ同時な世界デモの「自由」 】

世界同日デモ日本委員会は、従前よりの開催、ドイツとのパイプを
繋いできた経緯より、今回も純然たる継続(持続)開催であることは
明白です。

日本・世界同時デモ主催者連盟は母体「反コロナ共闘委員会」の異名。
委員会メンバー中心で各地にて開催する、海外との接点は一切無い
委員会月例デモの地域分散開催です。

その開催自体に制約は無く全くの自由です。
しかし無秩序状態の時期だったならまだしも、WWD本部に認可された
団体の開催時期にその近隣で世界と接点の無い団体が単に時期だけ同じ
というデモに「世界同時」を銘打つ事実。

それだけではなく、告知画像までも認可団体と見間違う類似デザインで
紛らわしさを意図的に醸しだしている事実。
画像の出処はともかく、認可されていない以上はそれを用いることに
悪意を禁じ得ません。

これらは自団体の月例開催でなくWWD公認団体開催と勘違いさせる誘導を
意図する「挑発行為」との解釈が成り立つ客観的事実です。

その事実を世間一般が認知するところとなれば、普通の感覚の持ち主なら
「反コロナ共闘委員会」に「胡散臭さ」を嗅ぎとるものです。
そうした時に向けられる「世間一般の目」というものを委員会メンバーは
意識出来ないのでしょうか。
それに「怖れ」というものを覚えないのでしょうか。
もっと言えば、誰か「これは一旦立ち止まろうか」と冷静に待ったを
かけられる委員会メンバーはいなかったのでしょうか。

仮にそうだとすれば、もう既に「反コロナ共闘委員会」は本当に場だけを
提供して規律も統制もない、ただ寄り集まっているだけの集団、或るいは
誰かの専横がまかり通る無法地帯化したと言えます。

【 分散開催の功罪 】

分散開催は参加者各自の都合に合わせた選択肢を持てる利便はあります。
より多くの人の目に留まる分散を良しとする見解にも一理あります。

頭ごなしの否定はしませんが、自団体開催を絡めてデモツアーだのを
扇動するのは国内各地で開催している世界同時デモだけに、その感覚へ
かなりのずれを覚えます。
居住地により近い開催地を訪れてくれて近隣地域の方達で繋がりが深まって
くれることに全国開催の意義を見出せます。

東京開催ですと普段は街宣に参加しない一般・家族層が集まってくれます。
少数個別で時間も長い局地的な街宣を躊躇する方でも、大勢に紛れて
街路を連なり歩き、時間も限られるデモの敷居は越えてくれます。
ノーマル感覚を失わない人達が抑圧された感情から解放される社交場に
成りうる側面も持つのがデモです。
特に常連や活動熱に溢れた方では無く、初参加される方へは
これだけ大勢のマスクをしていない人達と気持ちを共有できる場が
残っていることを励みに出来る空間となるやもしれません。

それには多くの方が参集して分散されない、スケールメリットを
追求出来る開催方法が現状の参加者規模においてはベターであると
判断します。

これら背景や事前知識も無いまま共闘委員会開催地へ足を運んだ方達が、
思いと違った規模の参集に遭遇し、かつ強い訴えを良しとする活動家色に
仮にもし触れることがあった場合、どのような印象を抱かれるか。
紛らわしい誘導の弊害が取り越し苦労であってと願いたいですが。

【  デモの目的  】

主張を掲げて集会や行進を行い、団結の威力を示すデモ。
そこでのアピールで世界を変えたいですが、夢と現実は分け隔てます。
通行人への街頭活動に変える大きな力の無いことは紛れもない事実です。
完全無力とは言い切りませんが、これはもう次元の違う話しです。

背後の巨大な力に、政府と行政とメディアが動かされている騒動です。
騒動の根本に関与せず街頭活動に傾注する団体・個人を一つにまとめた
ところで騒動収束の機能は元来備わっていません。
そこの認識は果たして大丈夫なのでしょうか。
街頭活動で覆せた大きな実績は皆無にも関わらず、共闘委員会の
活動者や塚口氏には、特に履き違えの著しい部分です。

夢物語は持ちつつも、デモの目的は各個人で設定するものと解します。
大勢の同志のエネルギーが集まる活動で表現した時間、得られたものは
あるべき論を必要としない自己軸の達成感・満足度だけが尺度。
結果が出ない・見えないデモ活動だからこそ、他人が指し示した
「目的」などという煽りには、恬淡(てんたん)としていたいです。

そしてたまたまデモに出くわせただけの通行人の耳に響かせたいなら
出来るだけ柔らかく伝えることはコミュニケーションの王道です。
通行人だけでなく、部内者へも自己の原理主義、あるべき論に固執し
悶着を起す塚口氏から人が離れてゆくのは、そこにも起因すると思うので
書きました。

【 距離を置くという思いやりの示し方 】

最後はありのままに書きます。
元々「反コロナ共闘委員会」は「日本と子どもの未来を守る会」と過去に
軋轢の生じた方達が主要メンバーとなって発足した集団です。
発起人の塚口氏は他とも多くの離合集散と禍根を遺した前歴の持ち主です。
現状は見越したとおりのとても解り易い展開が起きたにすぎません。
「反コロナ共闘委員会」の居場所づくりと、結果としての意趣返しです。

見越していたから自分は反コロナ共闘委員会設立直前の3ヶ月前に
この内容を綴りましたので抜粋します。

塚口氏が中立という垣根の無い集合体を作る動きは
どのように歩くかよりも誰と一緒に歩くかという
「人の和」を再構築することこそが最重要で、寧ろ
そこだけに尽きます。

きちんと各団体に、今までのしこりを解きほぐす
礼と仁義を尽くす手打ちは絶体に欠かせません。

すなわち、中立団体は「参加しなかった団体」からも
「尊重される」集合体になって意味を成すものなのです。

現時点ではもうひとつの寄合が出来るだけで分断の
新たな火種が出来る見通しを拭えません。

同じ目的なら仲良くせよとか、いつまでも過去をあげつらうなという
的外れな塚口氏の擁護を目にします。

見たい風景は同じでも「思考」も「手段」も異なれば別の道を歩かざる得ません。
謝罪を受けたうえでの和解が無ければ、殴られた方は殴った相手を忘れる
はずがありません。
人として当たり前に持ちうる感情を、ただ普通に抱いているにすぎないのです。

過去のけじめ、清算を一切せずに得た新しい活動の場で、塚口氏は
過去でなく、現在進行形で他人の感情を逆撫でする挑発行為を繰り返し
積み上げているのが現状です。

塚口氏の活動を十把一絡げにコロナ騒動へ反対する者の姿として
括られたくない方々の想いは塚口氏の活動撤退ですが、勿論それを
強いる権利など誰にもありません。

せめて塚口氏が駄目なら共闘委員会の心ある人が、活動に関しては
他者・他団体と距離を取ることを尊重し、不可侵とする紳士協定を
示す判断が下せないものかと個人的には思います。

10年先も反コロで生きて行けることに喜びで体が打ち震えてしまうという
頭の先からつま先まで、全く理解不能な神経の持ち主へ、暖簾に腕押しの
言葉を最後に記します。

『 何もしないことが喜ばれる 』
『 近づかないことが思いやり 』

以上20・21日 世界を銘打つデモを開催する団体の並立と開催地乱立に
ついて私的見解を綴りました。エッセイです。

太田泉

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