マイク・ストーン:臆病者を論破する

マイク・ストーンによる記事「Debunking The Funk : Something smells funky alright」の一部訳です。あまりに長いので。


私は過去数年間、ウイルス学や細菌論(Germ Theory)の妥当性に関する議論に参加するよう何度も要請されてきた。長年にわたり、私はFacebookやその他のプラットフォームで、ウイルス学者、生物学者、科学者、医師、教育者を名乗る人々と誠実な議論をしようと、多くの会話に参加してきた。しかし、このようなやりとりの中で明確になったことがある。誠実な議論は非常に難しいのである。自分の教育、訓練、そして選んだ職業に感情移入し、執着している人々とは難しいのだ。確実にだが、この人たちは自分の専門分野を学ぶため多くのお金と時間と労力を費やしてきた。そのため、自分の長年の信念に異議を唱える者にはあまり好意的ではない。これは理解できる。自分が多くの時間を費やしてきたものが、実は詐欺である可能性を受け入れることは極めて難しい。これも十分わかっていることだが、私や他の者が細菌論やウイルス学の欠陥を暴くことは、彼らにとって脅威であり、そのキャリアにとってだけでなく、そのエゴにとっても脅威なのである。

だから、これは当然のことなのだが、このようなやりとりの中で、彼らには認知的不協和がすぐに生じる、彼ら自身が選んだ洗脳プログラムを通じて置かれた箱の外で考えるよう挑まれた場合には。その結果、非常に感情的な反応や暴言につながり、論理や健全な推論に基づいた議論ではなく、自分の立場を守るために個人攻撃に走る者が多い。多くの場合、彼らはその立場を守るために多くの論理的誤謬を使う。この用語に馴染みのない人のために説明しておくと、論理的誤謬とは、稚拙な、あるいは誤った論理に基づく推論の誤りである。論理的誤謬に頼るとは、直接的な反論を避けるために無関係な点を持ち出すことで、議論を破壊するのである。基本的に、論理的誤謬は無効な議論であり、主張の裏付けとなる証拠が欠如していることで容易に見分けられる。

このようなやりとりにおいて、細菌論擁護派が常套手段として用いる最も一般的な誤謬のひとつが、人身攻撃あるいは人格攻撃(ad hominem attack)と呼ばれるものだ。これは、対立する立場を提示する人物の人格について論じることに焦点を当てるものである。相手の動機や経歴、その他の個人的な属性を攻撃することもある。これは、提示された立場や情報に対して反論することなく、相手の信用を失墜させようとする論理的に誤った方法である。これは通常、感情的で不誠実な攻撃である。簡単な例としては、抗体の特異性について議論したときに私が受け取ったコメントがある。私は、この理論的な実体(抗体)に対する特異性の欠如について論じた私の記事へのリンクを提供したが、その応答としてはこういうものだった。

何の情報?君のブログは、基礎科学に対する意図的な誤解、オリンピックレベルの思い上がり、そしてナンセンスの集まりでしかない。

これほどまでに愚かなことを本当に推進するとは信じられない。

私が記事の中で強調したポイントに直接的に論理的な返答をするのではなく、この人物は私の主張を弱く見せるために私を攻撃することにしたのである。その一方、彼は自身の主張を裏付ける有効な証拠も理由も示さないのだ。

この戦術がうまくいかない場合、彼らが利用する非常に良くある手口がある。「ウイルス」存在は科学的に証明済みという主張に異議を持つ者に対して、彼ら自身から証明責任を(こちら側に)転嫁しようとすることだ。これが、次のような発言で最もよく使われる。「ウイルスの不存在は証明できない 」とか、「ウイルス不存在を証明する科学論文を見せろ 」といったものだ。別の人とのやり取りの中で、病原性「ウイルス」存在の科学的根拠を求めたが、こんな返事が返ってきた。

ウイルスが病気の原因であることを反証する義務は君の方にある。

これは多くの理由から屁理屈といえる。その一つとしては、証明責任は常に肯定的主張をする側にあり、その主張が真実であるという裏付け証拠を提出せねばならない。その主張に異議を唱える者(反対者)が、逆の証拠によってその主張の間違いを証明する必要はない。(我々反対者に)義務付けられることは、相手の証拠や推論の中にある欠陥を示すことだけである。肯定的主張をする者の責任としては、反対者の主張を証拠で守ることである。

これが論理的に誤りであるもう一つの理由としては、絶対的で普遍的には不存在を証明できないことである。しばしば、私たちはこのような反応を目にする。

君は「ウイルスは存在しない」と主張した。君が証明することだ。

「ユニコーンは存在する」と誰かが主張しても、その不存在を証明するのは他の者の責任ではない。架空のものの不存在証明に使える証拠はない。ユニコーンの存在を主張する者は、実際に存在するという有効な証拠を提示せねばならない。自らの主張する架空のものが不存在であることを、誰かが証明する必要があると要求できるものではない。

いかなる証拠も存在しないものは、不存在を証明している。証明、論理、理性、思考、知識とは、存在するものだけに関係し、取り扱われるものである。これらは存在しないものには適用できない。存在しないものには、何も関係しえないし、適用もできない。

立証責任(The Burden of Proof)

こうした手口が通用しないことが明らかになると、より一般的な手口をいくつか出してくる傾向がある。肯定的主張の者が、名前の後ろに必要な資格証明を持つ場合、彼らはしばしば自身をそのテーマに関する権威者だとアピールされ、同じ資格証明を持たずに挑戦している人は、話す資格も理解する資格もないと主張する。これは最近、「ウイルスない」側であるはずの科学者が、私や他の人たちから簡単な質問を投げかけられたときに、(他の多くの誤謬と同様に)この誤謬を繰り返していた。

これが確認していることは、ここで話している人たちは資格を持たず、資格を持つ人からの科学的な質問や議論に対応できないということだ。

もし(上の主張をしている)彼ら自身に必要な証明がない場合、権威のある人物に訴えるのが普通だろう。これは、肯定的主張を真実だと示す有効な証拠の提示を避けるための方法である。彼らが「これは真実だ」と主張する方法としては、自身の専門知識に基くか、あるいは「専門家」とされる誰かが彼らの立場に同意すると主張するからである。これもまた、論理的に誤った理由づけである。自らの肯定的主張、あるいは彼らが訴える「専門家」の主張を裏付ける有効な証拠の提示を避ける権利を与えることはない。

権威への訴えと結びついているのが、コンセンサスへの訴えである。これは「より多くの人が何かを真実だと信じるから、真実であることを意味する」とする、よくある議論である。つい先日も、ある人が「燻製ニシンの虚偽」(関係ない情報をある情報と並べて提示し、関係する情報から注意をそらすこと)のつもりで無造作に電磁波理論を持ち出した。私が、何の脈絡も示さずに膨大な研究に言及していると彼を非難した後である。彼は、論文の多さと科学的コンセンサスが、それが真実であることを意味すると主張した。

すべての論文を総合的に読んでみよ。

繰り返しになるが、電磁波のような理論は、多くの実験という証拠の総体に基づき、科学的コンセンサスとして受け入れられているんだ。

もちろん、再度だが、たとえ多くの人々が同じ主張をしても、肯定的主張の者を免責するものではないのだ。有効な証拠を提示し、どう関連するかを指摘する責任がある。彼らは全員が、自分の信念が真実と示す証拠を提示せねばならない。この誤謬を犯す者は、知的に怠惰で、証拠も求めずに何かを真実として喜んで受け入れることが明らかだ。

このような人が陥りがちな論理的誤謬は他にもたくさんあり、批判的思考能力や健全な推論の欠如を露呈している。この中には、結果論が真であると言われるなら、先行論も真であるに違いない、というものがある。簡単に言えば、観察された結果が、推定された原因が真実であることを証明していると主張することである。ウイルス学においては、この誤謬が「ウイルス」の存在を証明するものとして細胞培養の使用を支持する議論に定期的に現れる。

結果の観察が原因の証明にはならないので、これは論理的に誤りである。この誤りについて、ちょっとおかしな例をあげよう。

例2:

茶色かったら流してください。

流しました。

だから茶色だったんですね。

説明:いいや! 実際のところ、もしそのルールに従うなら、私はまだ独身だったかもしれない。このルールは、単に「茶色なら」(先行詞)、そして(暗示的に)「流せ」(結果詞)というものである。 このことから、「茶色い場合だけ流せばいい」とは言えない。 これは間違いであり、論理的誤謬である。

後件肯定(Affirming The Consequent)

こういった論争でよく使われる誤謬として最後に指摘しておきたいのは、「論点先取」、別名「循環推論」と呼ばれるものだ。これは、結論が議論の前提の1つで仮定されている場合である。

例1:

私は超常現象としか言いようのないものを体験したことがある。だから、超常現象は実在する。

説明:「超常現象が実在する」という主張は、「私は超常現象としか言いようのないものを体験したことがある」という前提によって支えられている。 この前提は、「超常現象が実在する」という主張がすでに真実であることを前提としている。

論点先取(Begging The Question)

アンドリュー・カウフマン博士とアレック・ゼックが、この誤謬を視覚的に説明している。

これらは、会話中に定期的に見られる誤謬のほんの一部である。論理的誤謬は、他人と知的で誠実な議論をすることを非常に困難にしてしまうが、通常私は、こういった誤謬を見かけたら、それを指摘しながら会話を続ける。しかし、私が許さないことが2つある。それは、敬意ある議論をするチャンスを即座に奪うことである。私の立場に対する有効な反論の代わりに、私の人格に対する名誉毀損的な攻撃を受けることはしないし、侮辱や見下した発言のオンパレードを受けることもしない。悲しいことに、このような議論は、たいていの場合、すぐに溝に落ちてしまうのである。

このような経験が何度もあったので、もうこういった会話に参加する気はなかった。しかし、イーロン・マスクの買収によってツイッターがより 「友好的 」になったとたん、家族や友人に説得され、ツイッターの掃き溜めに足を踏み入れたのだ。友人や同僚の経験から、ツイッターに入ったらどんなやりとりが待っているのか分かっていたので、また「議論」の渦に吸い込まれることを十分予測していた。しかし、より多くの人々にメッセージを伝え、志を同じくする人々と交流するためのもうひとつの手段であるツイッターのアカウントを作ることを勧められた。当然ながら、頑なに細菌論を擁護する人々が私を見つけ、私が提示する情報に異議を唱え始めるのにそう時間はかからなかった。敬意が払われるならば、異議を唱えられることに抵抗はないの、こうした人たちの大半は、またしても上記で述べたような戦術をとり、生産的な会話のチャンスをつぶしてしまったのである。こうしたやりとりのうちのいくつかによって、私のさらなる研究につながり、非常に価値のある記事を生み出すことになった。悲しいことに、こうした「議論 」のほとんどは、結局どこにも行かず、フラストレーションと貴重な時間の浪費に終わるのだ。

何にしても、こうしたツイッター上での 「討論 」を続けることで、現在の「科学的 」研究を主導する人々の考え方や姿勢について、多くの貴重な洞察を得られると心から感じている。少なくとも、誠実で尊敬に値する議論ができるチャンスがある限り、私はそうし続けるつもりだ。しかし、経験上、こうした交流はめったにない。最近の例では、ダン・ウィルソンという新進気鋭の 「指導者 」らしき人物とのやりとりがある。

ウィルソン氏は生物学者で、『Debunk the Funk』という自身のポッドキャストをやっている。昨年から何度も要請されていたことは、ウィルソン氏の討論会への参加である。彼の番組で私とダンの間に何かをセッティングしたいという読者からの招待だった。サム・ベイリー医師と狂犬病「ウイルス」を扱った彼のビデオのリンクが送られてきた。すぐに目にしたのは、人を見下し、見下すような態度だった。ウィルソン氏はベイリー医師を引用符で 「医者 」と呼んだ。彼女は金儲けのために人を簡単に騙そうとする嘘つきのペテン師だとほのめかしたのである。彼女のことを、本を読まない怠け者の研究者だと主張した。狂犬病に関する彼女の代替的な説明がどれほど「間抜け」かと、ベイリー医師をあざ笑ったのである。言うまでもないが、私は、ウィルソン氏とのいかなる交流も、実りある知的で誠実な交流にはつながらないだろうと思い、お断りした。ウィルソン氏の資料へのリンクは好まないが、この13分間の「反論」を読めば、他の方や私がウィルソン氏と関わりたくない理由がよくわかるだろう。

運命に導かれるように、ウィルソン氏の友人であるトーマス・ボールドウィンが、ツイッターのハンドルネーム「Sense_Strand」を名乗り、ツイッターで私を見つけ、彼の「スペース」に参加して討論するよう要請し始めた。私の理解では、これはツイッターのライブビデオ配信で、ボールドウィンとウィルソンは、前述したのと同じ手口で、参加した人々に集団で襲いかかろうとする。私は興味がなかったので、彼の度重なる呼びかけを無視した。しかし、結局のところ私は、「ウイルス 」の科学的根拠の欠如をめぐって彼と議論することになった。このやりとりが、最終的には私とウィルソン氏との交流につながった。これらのやりとりを、解説を加えて皆さんにお見せする。確かめて欲しいことは、両氏が採用する論理的に誤った戦術や、誠実で敬意ある会話を不可能にする侮辱や見下した発言を見破れるかどうかである。これが、自分たちの信念体系に異議を唱える者に対するアカデミズムの態度なのだ。願わくば、我々全員がこれらのやり取りから学ぶことができればいいのだが。

(以下、スクショなどを含めて非常に長いので省略します)。

 

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