ウイルス学は科学ではない、ごく簡単な説明

対照実験とは何か?

あなたが異星人だとして、地球に初めて降り立ち、地球上の植物はどうして生えるのかという疑問を持ったとします。あなたは仮説をたてます、「植物は種子から生えてくるのでは?」と。この仮説が正しいか実験で確かめてみましょう。全く同じ土壌、水分、日照の二つの環境を用意し、一方にはひと粒の種子をまき、もう一方にはまかないでおきます。

結果は歴然ですね。種子をまいた方にだけ植物が生育し、まかない方には生えません。さらに観察していくと、生育した植物から最初の種子と同じものがたくさん出てきます。この単純なことが重要なので良く覚えておいてください。

ウイルス学が「ウイルス」をたくさん得る方法

ウイルス学では、人間や動物の体液中に直接的にウイルスを発見することができません。ウイルス学者の言い訳としては、「発見するには少なすぎるから」というものです。それにしては、「飛沫でウイルスが感染する」と言うのですから、素人目でもおかしな話ですが。

では、どうするかと言えば、いったんウイルスを「培地」に入れて培養し、ウイルスが大量に増えてから電子顕微鏡などで「発見」するのです。

この培地としてよく使われるのは、サルの腎臓細胞(異数性という染色体異常のあるもの)、牛胎仔血清、抗生物質等を混合したものです。

この「培地」に、少量だけウイルスという「種子」を入れることにより、それが培養され、最終的にはたくさんの「種子」を得ることができるというものです。これは細胞変性効果と呼ばれ、培地の細胞が崩壊し(死んで)、その代わりにウイルスが大量に現れるというものです。先の植物の例において一つの種子を培地に入れ、最終的にはたくさんの種子が得られるのと同じような理屈です。

もちろん、培地に入れるものとしては、実際には「ウイルスが入っていると想定される体液」でしかなく、あくまでも想定です。その中にあるだろうウイルスを確認できたことは一度もありません。ウイルスを確認できないので、培地にウイルスだけを入れることはできません。あくまでも「ウイルスがあると想定されている体液」を入れるのです。

もし「培養」した結果、「新型コロナウイルス」の「姿」を発見できたのであれば、もともとの体液中に「新型コロナウイルス」があったはずと想定されますが、実際にもともとの体液中に確認できたことは一度もありません。

ウイルス学で対照実験をするとどうなるか?

最初に示した植物の実験では、種子を入れない培地では植物が生育しないことは当然でしょう。しかし、ウイルス学の実験において、最初に少量のウイルスの「種子」を入れないと、どうなるのでしょうか?もし、ウイルス学の言う通りであれば、最終的な「たくさんのウイルス」は得られないことになります、最初の種子が無いのですから。

科学であれば、ここで「ウイルス入り」と「ウイルス無し」の比較対照を行う実験が必要になるのです。前者では細胞変性効果が起こり、後者では起こらないことを確認せねばなりません。

ウイルス学者は、この対照実験を絶対にしません。あるいは、対照実験をしたと言ってインチキを行います。

どういうことでしょう?

実際には、最初にウイルスという「種子」を入れようが入れまいが、最終的に大量の「ウイルス」が得られるからです。つまり、「ウイルス」を生み出しているのは、患者の体液中にあると想定されているウイルスではなく、培地そのものなのです。端的に言えば、培地だけを何日間か観察すれば、そこにウイルスが現れます。

ウイルス学者は言うでしょう、「馬鹿なこと言うな、我々が発見したウイルスは本物だ」と。この意見に対応するのは簡単です。「ならば、患者の体液を入れたものと入れないもの、あるいは患者の体液を入れたものと健康な人の体液を入れたものを比較対照する実験を行ってください」と言えば良いことです。ウイルス学者はこれに反論できません。こんなことやったことなどないし、やったと主張する事例でも、その内容がインチキであることが既に発覚しているからです。

ウイルスの写真とは何か?

彼らの言う「ウイルス」の電子顕微鏡写真、我々が良く見せられるものは、病人の体液中にあったものを撮影したものではありません。上に述べたような、対照実験もできないような自分勝手な「実験」なるもので生じた正体不明のものを撮影したにすぎないのです。さらに、この「ウイルス」なるものを取り出して、実際にその病原性を確認したこともありません。

ここでもウイルス学者の反論が聞こえてきそうですね、「馬鹿言うな!電子顕微鏡写真は本物だ!」と。ならば、先に述べた対照実験を行い、この二つの実験のうち患者の体液を入れたものだけに、その物体が出現することを示さねばなりません。もちろん、行われたことなどありません。

つまり、彼らのしていることは、体液を入れようが入れまいが、故意に細胞崩壊させ、つまり細胞変性効果を起こし、その細胞の様々な瓦礫の中を探して適当なものを電子顕微鏡で撮影しているにすぎないのです。そして、その写真に写ったモノが病気を起こすと証明したこともないのです。

これを例えていえば、卒業記念の集合写真の中の田中君を悪者と決めつけ、田中君を「この人が悪人」と断定しますが、しかし、田中君だけを呼び出して悪事を白状させたことなどありません。「ウイルスの電子顕微鏡写真」の本質はこういうものです。

再度ですが、ウイルス学では対照実験をしないか、あるいはインチキな対照実験を行います。ウイルスがあると想定される体液を入れた場合と、健康な人の体液を入れるか、あるいは何も入れない場合とでは結果が異なるはずですが、まともな対照実験は決して行いません。インチキがバレてしまうからです。

ウイルス学は科学ではない

ウイルス学においては、仮説をたてて、それを実験で確かめる、あるいは否定するといった科学的手法は使われません。「こうすると、こうなるはずだ」という型にはまったやり方を行い、実際にそのとおりになるだけの話です。

科学においては、自らの仮説に反証してみる態度が必要なはずです。自らの仮説が成立するような実験ストーリーだけを行えば、成立するに決まっています。ウイルス学というニセ科学の実態はそういったものです。

つまりは、様々なツッコミを行うこと、「ああしたらどうなる?こうしたらどうなる?」といったツッコミが行われ、それに耐えてこそ科学と称することができるのです。ウイルス学はその成立当初から科学ではなかったのです。

ウイルスゲノムのウソ

ウイルス学では、取得したウイルス(実際にはウイルス入りと想定される混合物)からウイルスのゲノムを取得して見せます。ゲノムとは、つまり遺伝子配列のことであり、ATCGの4つの文字の組み合わせの並びです(DNAの場合)。ヒトの場合は30億、新型コロナウイルスは3万の並びになります。

これもまたインチキであり、非科学です。ウイルスだけを取り出すことができないため、混合物のままショットガンシーケンスという手法で、ゲノム配列を作成します。例えていえば、ごちゃごちゃの鍋物のまま、その中の鶏肉だけのゲノムを得ようとするようなものです。

最初のウイルス学者がこれをやってみせると、その同じウイルスに対する同じようなゲノム配列が世界中で取得されます。このトリックの説明は省略しますが、ここでもまた問題になるのが対照実験です。

彼らは、ウイルス入りと想定される混合物から予定通りのゲノム配列を得ますが、その一方で、ウイルスが入っていないはずの混合物からはそのゲノム配列が得られないことを示したことはありません。

実際には、どんな混合物からも予定通りのゲノム配列が得られるので、こういった対照実験もできないのです。

ここでまたウイルス学者の反論が来そうですね。「そんなことはない!ウイルスがいるからウイルスゲノムを取得できるんだ!」と。であれば、この対照実験も難なくできるはずです。つまり、ウイルス入りと無しの混合物を受け取り、どちらがどちらかわからない状態でゲノム取得してみれば、確実に前者はウイルスゲノムが得られ、後者は得られず、結果的にどちらがウイルス入りかわかるはずです。しかし、ニセ科学者である彼らにはこんなことはできません。ウイルス学は科学ではなく、自分たちの望む恣意的な結果を導くだけの詐欺だからです。

では、彼らの作っている「ウイルスのゲノム配列」とは実際には何でしょうか?おそらくは、体液や培地に含まれるヒト、サル、ウシ、バクテリアなどの様々なゲノム配列の断片を組み合わせたものにすぎないと想像されます。

PCRのウソ

反ワクチン界隈でも未だにPCR検査結果が正しく、陽性が新型コロナ感染だと思いこんでいる医者・学者がいますが、まるで根本問題を理解できていません。PCRは体液中にあるウイルスのゲノム配列を探せるわけではありません。約3万のウイルスゲノム配列のうち、100以下の部分を探すだけです。探す部分をプライマーやプローブと呼びます。

これが地球上でそのウイルスだけにあると証明した者はいません。そもそも、もとの約3万のゲノム配列自体が、他生物のゲノム配列断片の組み合わせで構成されている疑いを払拭できません。というよりも、間違いなくそうなっているでしょう。また、ウイルスが変異しやすい、つまり、ウイルスのゲノム配列が変化しやすいと言われるのに、いつまでも同じプライマーやプローブを使い続けているのです。すべてがウイルス学者の言うとおりであれば、PCR陽性率はだだ下がりになるはずですが、そうなりません。

他にもCt値(サイクル数)の問題など、PCRにはあまり多くの問題があります。しかし、これらの問題は忘れてもらっても構わないほど、最も重要で、誰も反論不可能な本質的問題としては、感度・特異度が不明なことです。

妊娠検査薬の正確性はどう測定するのでしょうか?女性のおしっこを検査薬にかけて「おめでた」が出る場合と、その数ヶ月後のお腹の状態を比較すれば良いことです。お腹の状態はゴールドスタンダード、間違いのない妊娠判定手段です。

PCR検査では、これが一切行われていません。実際の「新型コロナ感染症」を別途、間違いのない手段(ゴールドスタンダード)で判定し、それとPCR検査の結果を比較せねばならないのです。その結果により感度(本当の感染者を正しく感染と判定できる率)、特異度(本当の非感染者を正しく非感染と判定できる率)が算出されるはずです。しかし、PCRの感度・特異度は算出されたことはないのです(この値を提示する医者・学者はウソを言っています)。

算出しようとすると、やはりウイルス学のウソがバレてしまうからです。

なぜなら、ウイルス学において「ウイルス感染」のゴールドスタンダードは、先述した細胞変性効果が起こることとなっているからです。二つの培地にそれぞれ患者の体液と健康な人の体液を入れるという対照実験を行い、たしかに前者のみで細胞変性効果が起こり、後者では起こらず、その結果がPCR検査と一致するかを調べねばなりません。

しかし、何を入れようが入れまいが細胞変性効果は起こる「はず」なので、結局、常に陽性になるPCR検査が正しいというおかしな結果になりかねないのです。

ウイルス議論に決着をつける

これでもまだ半信半疑な人がいると思います。そこで以下の実験です。ウイルス学が本物の科学であれば、以下に示された実験を難なくパスできることでしょう。常日頃ウイルス学者たちがやっていることを単に盲検化しただけ、つまり、何のサンプルかわからない状態でやってみせろというだけのものだからです。

ウイルス学にこんなことはできません。あらかじめ予定された通りの実験と予定された通りの結果しか出せないからです。

「ウイルス議論に決着をつける」文書はこちらにあります。

ニセ科学ウイルス学は対照実験を無視することで成立している

科学において、自身の仮説に反証する態度が必要であり、反証可能性を認めねば科学とは言えません。あらかじめ決められたストーリー通りを行い、あらかじめ予測された結果を得るだけのものは、科学とは言えないのです。考えつくあらゆるツッコミを行い、それに耐えられてこそ科学的と言えるのです。

ウイルス学は科学ではありません。科学としての資格は一切ありません。人々を恐怖させ、製薬企業を筆頭とする医療関係者に儲けさせるばかりか、人々の健康を害し、現代ではその自由を剥奪し、監視を受け入れさせる言い訳にもなっているのです。ニセ科学ウイルス学は撲滅されねばなりません。

 

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