タイトルを見て驚いた方もいると思いますが、そうです、フラットアース理論は反証不能です。なぜなら、反証可能な構造になっていないからです。これでは誰も反論できません。
フラットアース理論は向かうところ敵なしです。だからこそ、フラットアースは科学ではなく、ただの宗教なのです。
ここでは、カール・ポパーによる「反証可能性」という概念を取り上げます。説明するのが難しいのですが、簡単に言えば、
- 科学として認められるものは、反証可能でなくてはならない。
- 反証可能性の無いものは科学ではない。つまり宗教の類である。
ということです。
フラットアースの反証「不」可能性
フラットアース理論でも、それ以外でも良いのですが、あなたが強く信じていることを一つ思い浮かべてください。そしてこう問いかけてみてください。
「これが間違っているとしたら、それはどんな状況のときだろう?」
この問いに答えられるかどうか——それが「反証可能性」という概念の核心です。 これは、「こういう証拠が出たら、自分の主張は間違いだと認める」条件を、あらかじめ示せることです。例を出しましょう。
- 「すべてのカラスは黒い」→「そうね、一羽でも白いのがいたら、間違いと認めるよ」
このケースは反証可能性があります。では、反証可能性のないケースは?
- 「すべては神の意思である」→神の意思ではないケースを提示することができず、反証不能。
これはわかりやすいでしょう。あるケースが神の意思かどうかわかりようがないのですから、「すべては神の意思である」という声明は反証不能、つまり無敵なのです。神の意思といったものは、聞くわけにもいかず、計りかねるものなので、反証を出せません。
では、フラットアースの場合はどうなるでしょう?
地球は平面だ!重力などない!
↓
どんな証拠が出れば考え直す?
↓
絶対的にそうなのだから、証拠など出てくるはずがない!
↓
こういう証拠があるけど?
↓
それはこれこれこういう理由だ!(その場限りの思いつき)
↓
では、この証拠は?
↓
それはこれこれだからだ!(その場限りの思いつき)
あるいは、こういうパターンですね。
ここはおかしいんじゃないの?どういう理由でそうなの?
↓
お前はまるで理解できてない!(答えず)
↓
いやいや、ちゃんと説明してくれないかな。どうしてこうなるの?
↓
お前はレベル1だ!話にならない!(答えず)
どうでしょうか、フラットアースは反証可能性ゼロであり、無敵です。つまり、科学の範疇には入らず、宗教ででしかないのです。
そして、フラットアースの反証「不」可能性という性質は、フラットアース自体の思想というよりも、フラットアース支持者の言動によって起こっています。こういった者たちが、フラットアースを宗教領域においやり、毀損し、科学ではありえなくしたのです。
いずれのケースにしても「フラットアースは無敵!」なのです。したがって、科学ではありません。科学と主張するのであれば、「否定される条件」「間違いを認める条件」が示されねばなりません。
反証可能性とは何か
改めて、これを説明してみます。難しそうな言葉ですが、考え方自体はとてもシンプルです。「反証可能性」は、哲学者のカール・ポパーが考えだしました。次の問いです。
「その考えが間違いだと示せる方法はあるのか?」
言い換えるなら、「こういう証拠が出たら、自分は間違っていたと認める」という条件を、最初から示せるかどうかです。ここで大事なのは、「どうすれば正しいと証明できるか」ではなく、「どうなったら間違いだとわかるか」を重視している点です。
なぜなら、「何が起きても絶対に正しい」と言ってしまえば、どんな主張でも成り立ってしまうからです。先の例で言えば、
「すべてのカラスは黒い」
→ 反証可能です。白いカラスが1羽見つかれば、「間違いだった」とわかります。
「すべては神の意思である」
→ 反証不可能です。何が起きても「それも神の意思だ」と言えてしまうからです。
反証可能な主張は具体的なことを言っています。反対に、反証不可能な主張は、何が起きても正しいことになってしまうので、実は何も具体的に言っていないのとあまり変わらないのです。
反証可能性のないものは科学とは言えず、信仰でしかない理由
反証可能性のないものが科学と言えない理由は、科学の目的が「自分が正しいと信じ続けること」ではなく、間違いを見つけて修正しながら、少しずつ現実に近づくことだからです。
またも極端な例を考えてみましょう。
「透明で、重さもなく、音も出さず、どんな機械でも観測できない妖精が部屋にいる」
と言われたとします。「証拠は?」と聞いても、
「透明だから見えない」
「機械にも映らない」
「触れない」
と言われたら、否定する方法がありません。でも、否定できないからといって「本当にいる」とは言えません。ここが重要な点です。科学は『反論できないもの』を求めているのではなく、『間違っていたら訂正できるもの』を求めています。例えば、
「地球は球体である」
という主張は反証可能ですよね。もし宇宙から観測したら平面だった、地平線の見え方が説明できない、GPSが全く機能しない――そんな証拠が出れば修正しなければなりません。つまりこの主張は、「こうなったら間違い」と条件を出しています。
一方、
「どんな証拠が出ても陰謀だ」
「説明できないことがあっても未知の力だ」
となると、何が起きても主張は生き残ります。すると問題が起こります。その主張はもう現実によって試されていないのです。科学は、
1.仮説を立てる
2.実験や観測をする
3.間違っていたら修正する
4.また試す
という繰り返しで進みます。反証可能性がないと、3が存在しません。すると最初に思いついた考えが永遠に生き残るだけになります。だからポパーは、「反証不可能なものは絶対に間違いだ」と言ったのではなく、
「それは科学のルールでは扱えない」
と主張したのです。
これは、宗教、哲学、価値観、人生観が無意味という話ではありません。それらは科学とは別の領域です。科学は、「どうすれば自分が間違っていると分かるか」を最初に用意することで、初めて前に進めるのです。
つまり、フラットアースは科学ではなく、宗教、哲学、価値観、人生観の領域であるということです。そして、フラットアースがそういった領域にあることは、どんな主張もはねのけ、どんな疑問にも答えないフラットアーサー自身の態度が示しているわけです。
フラットアースは科学ではありえないのです。
ウイルス学にも反証可能性がない
で、フラットアースには無関係ですが、私自身は「ウイルス学には反証可能性がなく、したがって科学ではない」と考えています。先の
1.仮説を立てる
2.実験や観測をする
3.間違っていたら修正する
4.また試す
とぃう科学的手法の話は、コロナ時代に大橋先生も言っていたことですね。ウイルス学にはこれがないので、科学とは言えません。これは、大橋先生に限らず、多くのウイルス学批判者が述べているところです。
大橋先生がわからない方は、この部分は無視してください。気が向いたら後で説明するかもしれません。



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