このプロジェクトについては、伊能忠敬『仏教宇宙観の誤り』(1)に説明があります。
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(円通は)「北極星の高さに違いが見えるのは、観測する場所との遠近によるものであり、地球が丸いからではない」と言う。そこで、身近な例で説明してみよう。
(以下、円通の主張として。。。)
南北に十八里離れた場所に、高さ三丈六尺の柱を二本立て、その先端に大きな松明(たいまつ)を置く。そして、その二本の柱の中間に人が立って松明を見る。
その状態から少し北へ移動すると、北側の松明はやや高く見え、南側の松明はやや低く見える。さらに北へ進めば、その差はますます大きくなり、南側の松明はついには見えなくなるほど低く感じられる。
しかし、それは地球が丸いからではなく、距離の違いによってそう見えるだけである。反対に南へ移動した場合も、同じことが起こる。
このように、二つの松明の高さや見え方が変化するのは、地球が丸いからではない――というのが円通の主張である。
しかし実際には、江南では北極星の高度は三十二度、浙江では三十度、京師では四十度、琉球では二十七度と、それぞれ異なっている。
しかも、それぞれの土地の人々は皆まっすぐ立って生活しており、誰一人として傾いたり倒れたりしているわけではない。場所が変われば見える天の位置も変わるだけなのである。
もし地球が球体でないというのであれば、このような北極星の高度の違いや、太陽・月・惑星(七曜)、さらには星々の見え方の違いを、いったい何によって説明できるというのだろうか。
簡単に言えば、ここで円通は北極星の仰角を平面説北極星点光源モデルを使って説明していますが、忠敬は球体説無限遠北極星モデルを用いています。もちろん、定性的な見え方「近づけば高く見え、遠ざかれば低く見える」は円通の言うとおりですが、実際の角度を測定すれば、忠敬の言い分が正しいことは現在ではわかっていることです。
この議論は、日本国内で実際に行われた観測結果の提示へと続く。
我が国の南北について実際に測定すると、その北極星高度の差は一度七分である。
□命により地図を作り、蝦夷および対馬を測量すること□十余年、その間に作成した地図では、南北・東西の経緯度はすべて一致していた。また、□乾隆十六年の図とも一致した。しかし、東西一度と南北一度とでは大きな違いがあることは理解されていない。
東西一度の距離は、赤道の下では南北一度と同じである。北極(北極星)の高さが三十五度の土地では、東西一度は二十三里である。
忠敬の意図するところは以下です。
- 緯度については、一度あたりの距離はどこでも同じ
- 経度については、一度あたりの距離が場所によって異なり、赤道が最も大きく、そのときの距離は緯度一度あたりの距離と同じである。
実際に、地球に引かれた緯度線の間隔はどこでも同じなのですが、経度線の間隔は場所によって異なります。
京師と江戸とは東西に四度余り隔たっており、□長州とは九度余り隔たっている。そのため、日月食□る場合には、京師と江戸との間に二、三分の差が生じる。日月帯食の場合も同様である。
日や月が昇る時に帯食している場合には、江戸では食分が多く、京師では食分が少ない。反対に、日や月が沈む時に帯食している場合には、京師では食分が多く、江戸では食分が少ない。まして薩州山川・肥前長崎・五島などでは、その食分には大きな違いがある。
詳しく天□・地□すれば、おのずから渾天地球の理を知ることができる。
この部分は要するに、京都(西)と江戸(東)とは、経度が4度違っていて、日食や月食の時には、その進行に2,3分差が出るということです。現代では当たり前です。
※ここで注意したいのは、時間の表示です。当時の日常生活では、不定時法というものを使っていましたが、天文学では、現代と同じ24時間制でした(一時間は60分、一分は60秒)。これは、中国暦法(授時暦・時憲暦)でも西洋天文学でも同じです。
日食・月食以外の普通の日の出・日没の場合も、京都と江戸では、同時刻の見え方が違うという当たり前の話をしています。
これらを詳しく調べれば、渾天地球(球体説)が正しいことがわかるということです。
さらに、(円通は)「今、二本の柱を立て、南北に相距て……」と述べる。
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(円通は言う)「二本の柱は南北に十八里離れ、高さは三丈六尺である。その二本の柱の先に大きな松明を置き、人がその中間に立って松明を見ると、その見え方は天地の場合と同じである。
人が少し北へ進めば、北の松明は少し高く見え、南の松明は少し低く見える。さらに北へ進めば、北の松明はいっそう高く、南の松明はいっそう低く見え、その姿は見えなくなったように感じられる。しかし、それは単に遠く離れたためではなく、見る位置が変わることによってそのように見えるのである。 南へ進んだ場合も同じである。
北へ近づくにつれて見え方に高低や隠れたり現れたりする違いが生じるのは、遠近法による見え方の違いであって、どうして地球が丸いことによるというのだろうか。」
先程出てきた主張と同じですね。仰角が変わるだけでなく、遠近法により見えなくなるのだそうです。
(ここで伊能忠敬は、この議論に反論する)
このような議論は偏った説に基づくものである。もし円通の説のように遠近法だけで説明するなら、松明は九里離れただけで見かけの高さが五十間余りも低くなり、大きな松明であっても、やがて地面の下へ沈んで見えなくなることになる。しかし実際に物が低く見えるのは、観測者の位置、すなわち南北・東西の経緯度が変化するためであって、単なる遠近法だけでは説明できない。
円通は、遠近法だけで物体は低く見え、やがて見えなくなると考えています。これに対して忠敬は、その理屈では松明は短い距離でも地面の下へ沈んでしまうことになり、現実と合わないと指摘してますね。実際に遠方の物体が低く見えたり地平線の下へ隠れたりするのは、遠近法だけではなく、観測地点の経緯度、すなわち地球の曲率が変化するためであると。
いま地図を見ると、北極度と東西度を基準として□し、山や島を測っている。山や島が数十里離れていると、平地からは見えない。しかし、高い場所へ立てば見え、さらに丘や陵へ登れば見えることは明らかである。
例えば、富士山は東海道の原駅において、原駅の付近から見ると、まっすぐに二里の高さに見える。江戸から二十六里ほど離れた地点について、測遠術によって求めると、その高さは約二十町である。したがって、□の方向であることはわかる。ただし、低く見えることには疑いがない。
円通は、遠くの物が低く見えたり見えなくなったりする現象は、すべて遠近法だけで説明できると主張しています。忠敬は、実際の測量や地図を例に挙げて反論しています。遠くの山は平地からは見えなくても、高い場所へ登れば再び見える。また、富士山も遠くからは低く見えるが、測遠術によって測定すると、その高さは正しく求められる。
つまり、「低く見える」という見かけの現象は事実ですが、その原因は単なる遠近法ではないということです。忠敬は、観測地点の位置(経緯度)が変わること、すなわち地球が球体であるために遠方の物体が地平線の向こうへ隠れていくと論じています。
また、地球の直径は二千六百里である。三線表によって正割線を求めると約六百となり、このことはいっそう明らかになる。実際には、ごくわずかに低く見えるだけである。
600が何を示すのか不明ですが、ここでの論理はこうです。
- 地球の直径は約2600里である。
- この大きさを前提に三角法(三線表)で計算する。
- すると、遠方の物体が低く見える量はごくわずかであることが分かる。
- したがって、円通が言うように、遠近法だけで大きく沈んで見えなくなるという説明は成り立たない。
太陽や五星は非常に高く遠いため、この場合には用いることができない。一方、月は地球からの距離が近く、その径も小さい。
『暦象考成後編』には、月の高さや全径、地球との位置関係について述べられている。
常に『暦象考成後編』に基づいて月の南中を求め、月の高さに応じて加減し、南中の時刻と高度を得る。さらに、地球の年径も気差によって定めることができる。これらは地球について実際に測って確かめられるものではないだろうか。
ここでは、富士山など地上の測量だけでなく、月の運動も地球球体説を裏付ける証拠として挙げています。『暦象考成後編』に基づいて月の位置や南中時刻を計算し、実際の観測結果と照らし合わせると両者は一致すると。つまり、地球球体説は理論だけでなく、天体観測によっても実証できるというのが伊能忠敬の主張です。
「西洋で定められた地球の経緯の里数の是非を論ず」
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(前頁末尾の新章見出しから続く)
山西・北京・直隷は三里離れており、また□同州府は山西に属している。一〇〇里で地球の度数はすでに一度となる。□によって地球を三六〇度とすると、その周囲は十五万里となる。
南北へ進んだ距離は、そのまま南北の度数となる。これは昔も今も変わらない。しかし、東西へ進んだ場合は一度あたりの里数が異なる。そのため、一度について四十里余りとする説や三十里余りとする説があるが、それだけで正しい度数を知ることはできない。
ここでは、中国の実測の例をあげているようです。この実測も西洋の地球の大きさを支持しているという話です。また、先程の話と同じで、東西方向(経度)では、その1°は場所によって変わることを示しています。だから、東西距離を計ったからといって、そこから正しい度数(経度)はわからないということです。
再度、さっきの図を。
高さ七十余度に達するところでは、□の山や高台から山脈や海岸を望むと、その線は平らではなく、水面は高く一直線に見える。また、器具を設けてこれを確かめることもできるので、測定しなければならない。
そうすると、地球の周囲百五十万里というのは、□のいう節度の□となる。
七万について二十二・二十三・二十四・二十五・二十六を記さないのは、おそらく国内の広さが十五万里だからである。名理沿絶、四寸四字、山海十寸、画夜して四里起心……
数十里どころではなく、亜里亜利加はそれよりも何万倍も遠い。古皇国から亜里亜利加西海までの道のりは、わずか二十万里である。たとえ陸路や水路が曲がりくねって距離が半分になったとしても、それでも十万里を下回ることはない。もし地球の周囲が九万里であるならば、亜里亜利加州の都はいったいどこにあるというのだろうか。
ここは判読がむずかしいので保留します。
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(前頁から続く議論)
明るい松明や吊り下げた灯火のように、鳥は東南インドの境にあり、そのまま海上を二十一万里余り進む。また北は香山まで十四、五万里余り離れている。さらに、その反対側の北端の地までは、およそ三十五、六万里にもなる。
また、「僧伽羅国の南、数十里の海を渡ると那羅稽羅洲に至る。そこでは人の背は低く、竹は三尺余りの長さである」と述べられている。
『南海伝』には、「室利佛逝国では、正午になると人が立てた竿には影ができない。まさに赤道の下にある土地である」と記されている。
玄奘や義浄の伝えるところによれば、僧伽羅までは二万里に満たない。そこは辺境ではあるが最南端ではなく、北の鉄門に対する場所も最北端ではない。それにもかかわらず、その道のりは二十五、六万里にも及ぶ。地球九万里説は誤りであり、拠りどころにはできない。
以上も、地名などがわからないので保留にします。以下からは、忠敬の回想になります。
私は寛政丙辰年(1796年)、初めて日官高橋子(幕府天文方・高橋至時)に会い、ともに推歩・暦理・測量を学んだ。その後、歴川里江町(AIによる誤読と思われる。実際には深川黒江町のはず)へ移り住み、望景儀を設置し、子午線終限儀を用いた……
提球儀を用いて星を観測し、七曜や恒星の位置を計算した。私の住む場所は暦局(幕府天文方役所、浅草と思われる)から南北に約一里離れていた。暦局では北極星の高度は三十五度四十二分ほど、歴川(深川)では三十五度四十分半であり、その差は一分半であった。
門前仲町に忠敬の住居跡石碑があります。おそらく明治以降の町名変更などで、深川黒江町という地名は消滅したのでしょう。現在の浅草天文台跡が幕府の天文方役所でした(解説はこちらに)。この緯度差を計算すると、1分36.29秒になりますから、忠敬の計算は驚くほど一致しています。Google Mapの表示するそれぞれの緯度は
- 35.702074704188476
- 35.67532706798366
その差は、0.0267476362∘で、分・秒に直すと1分36.29秒です。
※緯度1°より小さい単位は、それを60に分割して分と呼びます。1分をさらに60分割して秒です。
2つの地点の直線距離は3.02kmで、南北距離は2.98km程度です。
そこで歴川から暦局までの道のりを測量し、南北一度に相当する里数を明らかにしたいと考えた。高橋子は、距離が短く高度差も小さいため、北極一度(緯度一度分の距離)を求めるには十分ではないと述べた。
その後、寛政庚申年に蝦夷地の測量を命じられた。帰路でも観測を続け、毎夜北極星の高度を測定したため、おおよそ二度分の里数を得た(2°×111km=222km)。
翌年には再び相州・武州・両総州・房州・常州などの測量を命じられ、各種測量器具を用いて方位や恒星を観測した。
このあたりは、Wikipediaにも記述されていることで、本人の言で確認できることですね。
(続く)




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