この記事の三行要約
- 日本には16世紀後半に宣教師が地球儀を持ち込み、18~19世紀には蘭学や天文学・測量の発展を通じて、知識人の間で地球球体説が広く受け入れられるようになった。
- 1813年に円通が須弥山儀を制作した背景には、地球儀そのものではなく、それが象徴する西洋科学・球体説・地動説の普及に対抗しようとする意図があった。
- 球体説の普及は地球儀を見て納得したからではなく、観測・計算・測量(特に伊能忠敬ら)の実績によって実証的知識が重視されるようになったことが決定的だった。
当時の地球儀は?
うっかり見逃していたのですが、フラットアーサーの愚かさ(32):球体説で江戸幕府大成功の巻(2)におけるWikipediaの円通の説明にこんなことが書いてありました。
西洋科学を学んだ儒者による仏教思想への批判が高まると、人びとの信仰が離れることを恐れた円通は、地球儀に対抗した須弥山儀や、本品のような木版多色刷の絵図を作らせて、須弥山説の普及に尽力した。
ということは、円通が須弥山儀(しゅみせんぎ)を制作した1813年頃には、既に地球儀が出回っていたわけです。それも、円通が「これに対抗しないと大変だ!」と思う位に数多くです。
もちろん、当時は伊能図が完成しておらず、また忠敬死去後の弟子による1821年の完成後も長らく幕府の機密扱いだったようです。当然、外国人による測量などはできません。したがって、この当時の地球儀では、日本が描かれてはいるものの、かなり曖昧な形のようです。
日本における地球儀の歴史
Wikipediaの地球儀はこんなところですね。ちょっとした記述しかありません。
日本では、1606年に林羅山がキリスト教徒が唱える地球球形説を論難してハビアンと議論した際に登場した「円模の地図」が地球儀であったとされている。その後、渋川春海や司馬江漢が西欧のものを真似て地球儀を作成し、本木良永も地球球形説を支持した。江戸末期、静岡の角田櫻岳が地球儀を作成した。
なお、聖徳太子の地球儀と呼ばれるものに関しては、分析の結果、1602年以降の製作である可能性が高いと言われている。
そこでAIの助けを借りて調べてみます。
最初の伝来:16世紀後半(安土桃山時代)
地球儀が日本にもたらされたのは、16世紀後半、イエズス会宣教師による布教活動の時代と考えられています。宣教師たちは世界地図や天球儀・地球儀を教育や布教のために持ち込み、地球球体説を紹介しました。織田信長が目にした記録があり、豊臣秀吉や知識人もそうだったと考えられます。
※ここでよく考えると「変だな?」と思うのですが、その点は一番下の「追加2」に書きます。
信長が見たことは、こちらに記述があります。宣教師 ルイス・フロイス の『日本史(Historia de Japam)』というものです。
23. 例えば、フロイスは、1580年に織田信長がキリスト教の教え(a nossa ley)について聞くためにイエズス会の住居を訪れ、オルガンティーノ神父とロレンソ修道士に再び地球儀を見せてくれるよう求めたと記している。フロイスは、信長が地球儀を見ながら、仏教の宇宙観に対して不満を漏らしていることに気づいた。その後、信長は再び地球儀に目を向け、日本とポルトガルの間の航路を見せてほしいと頼んだ。
WikipediaのLuís Fróisにも信長や秀吉との交流が記述されていますが、地球儀のことはありません。この地球儀は現存していませんが、欧州には同時代の地球儀が残っているそうです。
ローザンヌ大学が所蔵するメルカトル図法による地球儀コレクションは、地球儀と天球儀の2点からなり、他に類を見ないものです。それぞれ1541年と1551年に制作されたこれらの地球儀は、近代地図学の先駆者である地理学者兼数学者、ジェラール・メルカトル(1512-1594)によって設計・製作されました。16世紀の印刷地球儀を象徴するこれらの貴重な品々は、大航海時代の科学的知識と進歩を物語っています。学術的、技術的、芸術的に傑出した成果であるこれら2つの地球儀は、特に同時代の他の地球儀製作者に多大な影響を与えたことから、16世紀に製作された地球儀の中で最も重要な一対とされています。現在、世界中で現存が確認されている地球儀は30個にも満たないと言われています。
国産化:17世紀初頭~元禄
江戸時代に入ると輸入品を模倣して国内でも製作されるようになります。現存する日本最古の地球儀は、渋川春海が1695年(元禄8年)に製作した紙張子製の地球儀です。この地球儀はマテオ・リッチ系統の世界地図をもとに作られ、暦学研究に用いられたと考えられています。
※以下の写真はレプリカだそうです。
18世紀:蘭学の発展と普及
18世紀になると、オランダ経由で西洋の地理・天文学が流入、蘭学者が地球説・地動説を紹介、日本独自の地球儀も製作されるようになりました。とくに18世紀末には輸入品の単なる模倣ではなく、日本人が各種地図をもとに独自の地球儀を製作するようになっています。
1700年の地球儀は平戸オランダ商館にあるようです。こちらは、当時の地球儀の現代復刻版ですね。
円通の時代(19世紀初頭)
円通が『須弥山儀図』を刊行したのは1813年(文化10年)です。この頃には知識人の間では、地球が球体であること、コペルニクス的な宇宙観、西洋地図・地球儀がかなり浸透していました。そのため円通が対抗した相手は、単なる「地球儀という器具」ではなく、地球儀が象徴する西洋の地球説・地動説・近代科学的世界観だったと言えます。
この当時にも、18世紀の地球儀はそのまま使われたと思われますが、例えば、司馬江漢が18-19世紀に作ったとされる現存する地球儀はなかなか良い写真がないですね。
地球儀は日本人にどのように受け入れられたのか?
さて、もともと海外からやってきた地球儀、つまり「地球は球体」という概念は、日本人にどのように受け入れられたのでしょうか?これを調べるのはあまりに大変そうなので、またもAIに聞いてみました。想像としては、私もこんなところじゃないかと思います。
結論から言えば、「見て納得した」のではなく、「実用上、否定できなくなった」という過程だったと考えられます。「地球儀を見たから球体説を信じた」のではなく、さまざまな経験や知識が積み重なって、知識人の間で球体説が優勢になっていきました。大まかには次のような段階があります。
第1段階 「珍しい説」として知る(16~17世紀)
宣教師が地球儀を持ち込み、地球球体説を紹介しました。しかし、この頃は、仏教の須弥山世界、中国由来の天円地方説、儒学的世界観の方が圧倒的に強く、「西洋にはそういう説もあるらしい」という程度でした。
第2段階 「計算は当たる」と認める(18世紀)
ここが転換点です。渋川春海以後、天文学者は西洋天文学を研究するようになります。すると、日食、月食、惑星の位置、暦などが、西洋の理論の方がよく当たることが分かってきます。つまり、世界観が魅力的だから受け入れたのではなく、計算結果が正しいから受け入れざるを得なかったという順序です。これは現在の科学史でも重要な点です。
第3段階 伊能忠敬の測量(1800~1821)
私は、この時期が決定的だったと思います。伊能忠敬は地球儀を作るために測量したわけではありませんが、地球を球体と考える測地学、緯度の測定、子午線の考え方を実際に使っています。そして日本列島を精密に測量すると、西洋測地学が非常によく現実に一致することが示されました。この経験は幕府天文方や測量関係者には非常に大きかったでしょう。
第4段階 蘭学者の共通認識(1820~1840年代)
この頃になると、蘭学者、医師、天文学者、測量家の間では、地球球体説はほぼ常識になります。例えば、高野長英や渡辺崋山らは、西洋の地理・天文学を積極的に受け入れていました。ただし、これは知識人社会の話であり、一般社会ではまだ須弥山世界観も根強く残っていました。
第5段階 明治維新以降
決定打は学校教育です。明治政府は、地理、理科、天文学を西洋式で教え始めました。ここで初めて、「地球は球体である」という知識が全国民の共通知識になっていきます。
円通は「最後の抵抗」だったのか?
ご質問は、まさにそこにつながります。1813年の円通は、実は時代の境目に立っています。幕府天文方や蘭学者は、球体説をかなり受け入れている。一方で、仏教界には須弥山世界観を維持しようとする人々がいる。そのため円通の『須弥山儀図』は、「古い世界観の名残」ではなく、新しい科学的世界観に対する、意識的な反論として理解するのが適切でしょう。実際、須弥山儀をわざわざ地球儀と同じ「球状の模型」というメディアに対抗して制作したことは、そのことを象徴しています。
一つ付け加えるなら、「日本の知識人は納得していなかった」というよりも、「何を知識の基準とするか」が変わっていったと考える方が実態に近いでしょう。江戸前期までは、仏典や中国古典の権威が知識の基準でした。ところが18世紀後半から19世紀にかけては、観測・測量・計算によって実証できることが新たな基準になり始めます。この知識観の転換こそが、地球儀の受容を支えた最も大きな要因だったと考えられます。
追加:
よく調べてみたら、地球儀の歴史② 〜日本における地球儀の受容と製作の歴史〜というページがありました。参考になります。
追加2:クリスチャンは球体説を信じていたのか?
これもまたAIに聞いてみました。てっとり早いので。各自ご検証ください。
しかし、信長に地球儀を見せた宣教師というのは、当然キリスト教なわけですが、平面説を信じていたのではないのですね?
鋭いご指摘です。実はここには、「中世キリスト教=地球平面説」という非常に根強い誤解があります。結論から申し上げると、16世紀のイエズス会士は、地球が球体であることを当然の前提としていました。ですから、信長に地球儀を見せたことと何の矛盾もありません。
「中世教会は地球平面説だった」は本当か?
実は、これは19世紀に広まった神話です。古代ギリシャ以来、アリストテレス、エラトステネス、プトレマイオスは地球球体説を唱えていました。その知識はローマ帝国、さらに中世ヨーロッパにも受け継がれます。例えば13世紀の神学者 トマス・アクィナス は、地球が球体であることを当然のこととして議論しています。
大学で広く用いられた教科書『De sphaera mundi(天球論)』(13世紀)も、冒頭から地球は球体であることを説明しています。つまり、「地球は丸い」ということは、16世紀ヨーロッパでは教養の一部でした。
教会が問題にしたのは何だったのか
ここで重要なのは、球体説と地動説は別問題だということです。イエズス会士たちが信長に示した地球儀は、地球は球体、宇宙の中心には地球があるという天動説の宇宙観でも十分成立します。つまり、地球儀 ≠ 地動説です。16世紀末のイエズス会は、むしろ、地球は球体、地球は宇宙の中心というプトレマイオス体系を採用していました。
ガリレオ裁判は何を争ったのか
1616年や1633年のガリレオ裁判でも、教会が問題にしたのは「地球が丸い」ではありません。問題になったのは「地球が太陽の周りを回る」というコペルニクス説でした。この点はよく混同されます。
日本との対比
ここが日本史として非常に興味深いところです。16世紀末、
| ヨーロッパ | 日本 |
|---|---|
| 地球球体説は常識 | 須弥山世界観が主流 |
| 地球儀は教育器具 | 地球儀は珍しい舶来品 |
| 議論の焦点は地動説 | 議論の焦点は球体説そのもの |
つまり、ヨーロッパでは「球体かどうか」はすでに決着済みで、論争はその先(地動説)に進んでいたのに対し、日本ではまず「地球が丸いのか」という段階から始まったのです。


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