ジョン・ロックの思想から日本国憲法までの続きです。
この記事の三行要約
- 近代立憲主義は、人間の自然権(人権)を守るために国家を認めつつも、国家や多数派の暴走を防ぐために憲法で権力を制限する考え方である。
- 民主主義だけでは「多数派の専制」が生じうるため、古典的自由主義(自然権思想)は多数決でも侵してはならない権利があると主張し、一方でアナーキズムは国家そのものの正当性を問い直した。
- 近代立憲主義は、人権・民主主義・国家権力の間の緊張関係を調整する歴史的妥協であり、日本国憲法97条もまた、人権を絶対的真理としてではなく「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として位置づけている。
近代立憲主義とは?
おさらいですが、さっくり言えば近代立憲主義とはこんなところです。ここでは簡単に自然権と表現します。
人間の自然権を守るために国家は存在する。しかし国家は暴走する可能性があるため、憲法で国家権力を制限する。
そもそもの目的はこれです。近代立憲主義は民主主義と自然権の保障を前提としていると考えて良いのだそうですが、ただし、民主主義だからと言って何でも多数決で決められるわけじゃありません。
- 奴隷制度を復活させる
- 特定宗教を禁止する
- 言論を封殺する
はできません。つまり、立憲主義とは民主主義をも制限する仕組みを前提としています(AIに言わせると、この断定は少々強すぎるそうですが、簡単のためにこのままにしておきます)。民主主義の問題はこの後述べます。
ただし、近代立憲主義と、ただの立憲主義とは別物のようです。19世紀欧州では、国王と議会があり、憲法で王の権限が制限されるという政治「立憲主義」があったそうです。そこでは、現代ほどの民主主義ではなかったし、現代ほどの人権保障でもなかったようです。
民主主義の問題
民主主義は、本来的には、専制君主や貴族支配に対する解放の思想として登場しました。支配者ではなく人民が政治権力を持つという考えですね。しかし、民主主義には根本的問題があります。これは私自身も常々思うことですが。。。
例えば、51%が賛成した場合、49%が反対しても、その49%の意見を完全に無視できます。その決定で49%が不利益を被るとすれば、彼らに強制できてしまうわけです。これを「多数派の専制」と呼ぶそうです。
なぜ51%に49%を支配する権利があるのか?
この問いに民主主義だけでは十分に答えられません。
古典的自由主義
ここに古典的自由主義(リベラリズム)が登場するのですが、わざわざ「古典的」とつけるのは、「自由主義」という言葉だけだとかなりの誤解を受けそうだからです。しかし、憲法学などでは、単に「自由主義」と呼ばれるそうです。また、英語ではリベラリズムですが、現代米国のリベラルという言葉とはかなり意味あいが違います。
実は、この古典的自由主義は近代立憲主義よりも先にあった思想です。代表的な思想家としては、ジョン・ロック、アダム・スミス・ジョン・スチュアート・ミルなどです。古典的自由主義(自然権思想)が「人間には侵してはならない権利がある」と主張し、その権利を国家から守るための制度として発展したものが近代立憲主義だそうです。
これは、自然権思想を土台にしながら、
- 国家権力の制限
- 法の支配
- 信教の自由
- 言論の自由
- 財産権の保護
- 自由な経済活動
を含む概念です。ともあれ、自然権思想の立場からは、どれほど多数が賛成しようが、
- 奴隷制度を復活させる
- 特定宗教を禁止する
- 言論を封殺する
など認められません。こんな議決をしようとすれば、現代日本では憲法違反となりますが、偶然ではありません。そもそも日本国憲法自体が近代立憲主義に基づいて作成されたため、そのような決定は認められないわけです。
つまり、多数派が賛成して政府にうっかりその力を持たせてしまっても、本来的には無効ということですね。ただし、実際には違憲立法が成立したり、違憲判決が出るまで運用されることがありますが。
人権とアナーキスト
しかし、ここでまた問題が発生します。なぜ多数決より人権の方が上位なのか。
もし人権が自然に存在する、つまり客観的に証明できるものであれば話は簡単ですが、しかし自然権の存在は客観的には証明できません(私は完全に自然権存在派です)。
人権が実在するかどうかは、今日でも哲学的に決着していないのです。ですから、「なぜ証明できない人権が多数決より上位なのか」という問題が出てきます。
たった一人が反対でも、残り全員が賛成ならそこで議決した行為ができるんでしょうか?
ここでアナーキズム(無政府主義)側は言います。ライサンダー・スプーナーやラーケン・ローズ(現代の人)などです。
「個人が持たない権利を、多数決によって創造することはできない」
アナーキストの自然権思想においては、他者の自由、例えば他者の言論の自由を封殺する権利はありません。ですから、100人集まろうが、1億2000万人集まって賛成しようが、そんな権利は発生しないということです。もちろん、政府による徴税の権利もありません。これは、他者から金を強奪することだからです。
何かしら1億2000万人がちょっとずつそんな権利を持っていて、それを集めたら、そういった権利ができる、なんてことはありえません。
アナーキストにとっては、賛成者が大多数だろうが少数者だろうが無関係です。これは非常に強力な主張ですね。この考え方が正しければ、国家による課税や法の強制そのものが正当化できなくなります(私自身はアナーキズムの考え方にだけは同意していますよ)。
しかし、ここで当然、別の疑問が生まれますね。もし国家が存在しなければ、治安は誰が守るのか、契約違反は誰が裁くのか、外敵から誰が社会を守るのかという問題です。
そもそもの話、近代立憲主義はもともと、簡単に言えば、人間の自然権を守るために作られたわけですよね?しかし、アナーキストの主張としては、逆に国家が我々の人権を剥奪していると主張します。
国家擁護論
「外敵から誰が社会を守るのか?」に対してアナーキストは独自の答えを用意していますが、多くの政治思想家、というよりも、ごく普通の人は国家を完全否定するなんてできませんよね。
ホッブズはこう考えました。
もし国家が存在しなければ、治安、契約、裁判、防衛はどうなるのか。
ホッブズは、共通権力が存在しなければ社会は不安定になると考えたのです。つまり、
- 自由を最大化しようとすると秩序が崩れる。
- 秩序を最大化しようとすると自由が失われる。
という緊張関係が存在すると。
近代立憲主義は妥協策
近代立憲主義は、
- 民主主義が絶対に正しいとも言わない。
- 人権が完全に証明されたとも言わない。
- 国家が完全に正当化されたとも言わない。
その代わり、
- 民主主義は必要
- 国家も必要
- しかし権力は危険
- だから権力を制限する
という妥協策を採用します。ですから、近代立憲主義の原理的一貫性は弱いわけです。
- アナーキストから見ると、国家に強制力を認めた時点で矛盾している。
- 権威主義者から見ると、人権によって国家を縛るのは非効率である。
つまり立憲主義は、どちらの立場から見ても中途半端です。しかしその中途半端さこそが特徴です。
立憲主義は、人権の哲学的根拠について最終的な結論を出しているわけではありません。しかし歴史的経験から、人権を尊重する制度の方が望ましいと考えられてきたわけです。
不完全さこそが近代立憲主義の本質
立憲主義は絶対的真理ではありません。
- 民主主義
- (古典的)自由主義
- 国家権力
- アナーキズム
の間で成立した歴史的妥協です。
- 民主主義だけでは多数派の暴政が生じる。
- 人権だけでは制度運営が難しい。
- 国家だけでは専制に陥る。
- アナーキズムだけでは秩序維持の問題が残る。
そのため現代社会は、
- 「国家を認めるが制限する」
- 「民主主義を認めるが制限する」
- 「人権を最上位に置くが、その哲学的根拠については完全には決着させない」
という不完全な均衡を採用したわけです。この不完全さこそが立憲主義の本質だといいます。
近代立憲主義とは、人類が発見した完成形ではなく、自由と秩序の間で現在まで生き残っている暫定的な妥協点なのです。
再び日本国憲法第97条へ
ここでもう一度読んでみましょう。
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
「これは絶対的真理だから守れ」ではなく、「人類が長い失敗の末にようやく獲得した成果だから守れ」というニュアンスです。
実際、97条の「侵すことのできない永久の権利」という強い表現と、「人類の多年にわたる努力の成果」という歴史的な表現が同じ条文の中に並んでいるのは興味深いところです。ある意味では、自然権思想の理想と歴史的経験主義の両方を抱え込んだ条文とも読めるわけです。





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