この記事の三行要約
- 林千勝は、広島周辺のB-29目撃証言を別々の機体としてつなぎ合わせ、実際以上に多数のB-29が広島上空にいたように印象操作している。
- 大荷康夫の「B-29の機銃掃射」証言は、別の年の本人の証言には出てこず、原爆投下機の飛行高度(約9.5km)からもエノラ・ゲイ等による機銃掃射とは考えにくい。
- 「B-29二機が焼夷弾・爆弾で広島を攻撃」という8月7日新聞記事も、当時は原爆と判明しておらず報道統制下だったことを示す資料であり、通常爆撃が実際に行われた証拠ではない。
以前に少しだけ言及しましたが、林千勝『広島・長崎 悲劇の正体』の『第7章 広島、あの日のB29の目撃証言』についてもう少し見ていきます。
この本は細かく見ていくと、つっこみどころが満載で、指摘する方も大変なのですが、普通の人は見きれず、信じ込んでしまうようです。これは非常に危険であり、林のような嘘つきにとっては「とってもいいカモ」です。この記事では第7章だけについて見ていきます。
林の手口
この章での林の狙いとしては、散り散りバラバラのB29目撃証言を取り上げることによって、あたかもB29の大群がいたかのように印象操作することです。
ある人の証言による一つの機体が、別の人の証言による機体と同じかどうかはわかりません。また、特に原爆投下後の観測機は、旋回してキノコ雲を撮影していたことがわかっています。しかし林は、どの証言とどの証言が同じ機体か、別の機体かを特定することもなく、別の機体との前提で、このような地図を作成しています(P44)。
もちろんこれでも、パルマーの認める「通常爆撃でこれだけ破壊するには220機のB29が必要」には到底及びませんが。。。
実際の証言の極解
敵機の通過
P40:「警報が発せられていないときでも、1万メートル上空を白い雲の尾をひいて、敵機が通過するのがしばしば見られていた」
『広島原爆戦災誌 第1巻』PDFの23ページです。ここでも林の切り取りと印象操作が明らかです。
敵機に慣れる
この頃、日本の制海制空権を完全に奪っていたアメリカは、自由自在に日本の上空を飛びまわったから、子どもですら「今のはBの爆音だ。」と、その機種を判別するまでになっていた。
連日連夜の空襲で、一種の慣れっこになっていたためか、あるいは来襲のたびに騒いでいると、生産活動に支障を招くためからか、一機や二機の来襲のときは、警報さえ発令されないことがあった。当時の体験者の語るところによると、事実として、敵機は一万メートルの上空から侵入し、高射砲もとどかなければ、迎撃機も上昇するのが間にあわなかった。空襲警報も「安芸の宮島附近を…」と言っているときは、すでに敵機は一〇分前に通過したあとであった。またあるときは、警報が発せられていないときでも、一万メートルの上空を白い雲の尾をひいて敵機が通過するのをしばしば見たという(森宗寿人著「紫色の閃光」)。
市民も、敵機の爆音を聴いても「朝帰りのお客さまか…」と、気安く思い、振りかえりもしないで歩いていた(原爆体験記・陸勝利)。また、警戒警報発令中でも、「毎日のことなので、特別な危険も感じないで」町を行く者もたくさんいた(原爆体験記・北山二葉)。
明らかですね。これは投下前日・当日の話ではまったくありません。以下に米側が広島を投下候補にしたことと、その後の動きをまとめてみます。あとで一次資料を参照しようと思います。
- 5月2日:原爆目標選定委員会で、広島は「最大の、まだ爆撃されていない都市」として注目された。
- 5月10~11日:委員会は広島などを原爆用に確保する候補とし、陸軍航空軍の通常爆撃から除外する方針に合意。
- 5月15日ごろ:広島・京都・新潟を「Reserved Areas(予約区域)」として、通常爆撃を行わないよう米陸軍航空軍に指示する動きが具体化。
- 5月28日:ターゲット・コミッティーは広島・京都・新潟を正式な候補として推薦。広島については「これまでほぼ無傷」であることが重要な条件になった。
ですから、まとめるとこういうことです。
B29に対し、日本側はまったく無力になっており、自由自在に日本の空を飛び回った。広島は爆撃しなかったが、他都市は自由に爆撃されていた。これらの爆撃機が広島上空を通過することはあっても、決して爆撃はしないため、広島市民は慣れっこになっていた。
上の証言が一体何の証拠になるのですか?教えてほしいものです。
上空を数十分旋回して、西南方へ
P41:8月5日 午後9時27分
10機より成る編隊3個梯団が、豊後水道から広島湾上空に侵入し、市の上空を数十分旋回して、西南方に飛び去る[2]。
これについては、原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(4)〜原爆投下前後に広島上空には何機の米軍機が来たのか? にて既にとりあげています。もう一度確認しますが、前証言から明らかなことは、B29は自在に日本上空を飛び回れて、広島を爆撃する気はまったくなく、これらのB29もおそらくは、その夜の宇部の爆撃参加機であろうということです。
1万メートル以上の上空を通過
P41:1万メートル以上の上空を通過しているらしい無気味な爆音が聞える。臨時ニュースが、「敵のB29数機は広島湾の上空に集結して、広島市の上空を北進し、山陰地方に向うものの如し」と伝える。
『広島原爆戦災誌 第4巻』PDFの237,8ページです。この証言もまた興味深いものです。そして、林が切り取りによって印象操作していることもまるわかりです。ちなみに五日市とは、以下のあたりです。彼は、ここから広島市に通勤していたようです。
被爆のその日
佐久間作一郎五日市の磯の香の匂う海岸地帯(略)灯火管制を完全に行えば、ここばかりは極楽である。
すでに岩国・呉も戦禍をうけた。広島は今日まで小型機で二、三回小型爆弾を投下せられたに過ぎない。大型B29は、広島の上空を数回通過するばかりで、爆弾はおとされない。今日はやられるか、明日はやられるか、どうも広島ばかり残されているので、疑問でさえあった。
夜になると、空襲警報のサイレンが鳴りわたった。ラジオに聞き耳をたてている。近くの人家には、誰一人として騒ぎたてる人もない。海上遠くの島の山頂に、防空サーチライトが交差しているが、敵機らしいものは見当らない。しかし、一万メートル以上の上空を通過しているらしい無気味な爆音が聞える。臨時ニュースが、「敵のB29数機は広島湾の上空に集結して、広島市の上空を北進し、山陰地方に向うものの如し。」と、伝えていた。
今夜も迎えざる客は来なかった。やっと警報解除となって、ほっと一息ついた(略)
七時を過ぎて、出勤(日本通運広島支店副長)のため畑道を、五日市駅に急いだ。朝の静けさを破って、空襲警報のサイレンが、あの嫌なブーブーの響きが無気味に鳴りわたった。突如として、南方海上からロッキード二機が、低空で真一文字に、私を襲うかのように突進して来た。とっさに、横に積み重ねてあった麦ワラの中に這いこむようにうずくまった。頭上をかすめた機は、左に旋回して西の方向に飛び去ってしまった。畑の中で私一人で生きた気はしなかった。今日は何となく不吉を感ずる日である。
遅延した満員の列車に乗って、広島駅に着いたが、土用の朝の太陽はアスファルト道路に反射して暑い。すでに出勤の時刻に近かった。午前八時、恒例の朝礼は形のごとく行なわれた。(略)
八時十五分、まさに世界的一瞬であった。西の窓からピカリと、眼もくらむフラッシュのような、電車のスパークの如くもの凄い光がきらめいた。アラッと思う間もなく、何とも言えない地鳴りとともに、事務所を押し破るような爆風がドスンと来た。
B29の機銃掃射を受け
P43:警戒警報解除と共に兵舎(「爆心」から13キロメートル南方の江田島の)に戻りました所、寸刻を経ずして兵舎屋根に、B29の機銃掃射を受け…
『広島原爆戦災誌 第5巻』PDFの165ページです。彼の言う兵舎とはこのあたりです。
大荷(広岡)康夫
(当時第四十二戦隊・特別幹部候補生)江田島幸ノ浦海岸の基地において特攻隊員として、 (略)
八月六日は朝食を終り、演習にそなえて何かと準備をしておりましたところ、空襲警報発令、隊員は直ちに裏の洞穴に退避しましたが、警戒警報解除と共に兵舎に戻りました所、寸刻を経ずして兵舎屋根に、B29の機銃掃射を受け、思わず兵舎内士間に伏せておりました。暫くしてものすごい耳をつんざく爆発音と共に、閃光が走しました。みんなと直ちに舎外へ出ましたところ、対岸宇品の方向にムクムクと煙が中天高く発達していくのを見ました。
(略)
その六日午後五時半頃、戦隊令により完全軍装、大発舟艇にて宇品着港、船舶司令部より命令受領の間、暫く、血染めの布をまとって続々集って来る負傷者群を見て、爆撃の惨禍を痛切に感じた次第です。
私達は爆心地に向って行動、放置された電鉄会社の電車を小隊毎に割当てられ、清掃の上、車内を仮宿舎とし、又根拠地としてドーナツ化的に向う七日間の救援作業に従事することになりました。
(略)
とにも角にも、私達生涯忘れ得ぬ悲惨悲惨の連続又連続でした。最後に私達は障害物を除去し、道路を清掃して、わずか一週間とは言え今次大戦の終局的な大惨禍を体験して血と涙の広島を去ったのです。
事前偵察機の警報が解除された後のB29ですから、エノラ・ゲイなどの3機だと思われますが、しかし、この証言には疑問符がつきます。同じ方の別の証言を見てみます。十九歳で体験した血の海の広島です。
さて、運命の一番暑い日、八月六日、月曜日の朝は雲もなく、よく晴れて真夏の日差しで気温もぐんぐん上がりました。
八時十五分、突然海を隔てて十三キロメートル離れた広島方面から、一瞬まるで写真のフラッシュをたいたようにピカッと青白い閃光が輝きました。二十秒近く間を置いて、今度はドーンと大音響と、もの凄い大爆風で、倉庫改造の兵舎が激しく揺れました。咄嗟に耳と目を両手で押さえて床下にもぐり込み、間もなく「こんな所で命を落としてたまるか」と、裏山の防空壕に避難しましたが、その後、異音もなく静かになり、みんな一斉に海岸線に走り出ました。
広島を見ると、中央から傘状に白い煙がモクモクと上昇して、次第に黒煙に移り変わりました。すごい勢いで次から次へと中天高く駆け上って行き、雲の柱がキノコ傘の様に横に広がりました。
こちらではB29から機銃掃射を受けたことは書いてありません。エノラ・ゲイ等の3機がどういう経路を飛行したのかはっきりしませんが、仮にこの上空を通過したとしても高度は9.5km程度のはずなので、機銃掃射はありえないと思います。
焼夷弾と爆弾とをもって広島市付近を攻撃
これを証拠にするとは、林はよっぽど騙し素材がなくて困ったのでしょう。
P43:B29、2機は広島市に侵入、焼夷弾と爆弾とをもって同市付近を攻撃、このため、同市付近に若干の損害をこうむった模様である(大阪発)」8月7日の各新聞。(『原子爆弾 広島・長崎の写真と記録』仁科記念財団編纂)
ここで林の引用している新聞報道は間違いありません。この通りに報道されています。しかし、林の参照している『原子爆弾 : 広島・長崎の写真と記録』という文献を見てみましょう。この94コマ(PDF94ページ、印刷ページ53)をみてください。こうあります。
最初の新聞発表
中央の新聞に最初に生のかたちで報道されたのは、8月12日の紙面であった。被害者の声という形で広島被災状況の一部を伝えた。「突然どこか高いところで電気がショートした折に発するボーッという鈍い音がしたかと思ったとたん、写真撮影に用いるマグネシウムの燃焼のようなかすかな熱気を含んだ白色光線で思わず目がくらくらした瞬間、物すごい轟音とともに自宅が根こそぎ引き倒したように倒壊し、あっという間もなく一家四人が家の下敷になった」(朝日)。当時の軍の新聞検閲下にあって、これ以上、惨害にはふれられていない。
すでに、トルーマン大統領の声明が短波放送によって伝えられており、また、8月8日以降の調査にもとづいて大本営調査団が、原子爆弾であると判定したのであったが、軍及び内閣(情報局)では「原子爆弾」という言葉の使用に反対しつづけた。
読売新聞(8月13日)が「原子爆弾」という見出しで「天文学的な爆発力、人類の滅亡招く暴君」という解説記事をのせたが、広島の惨状にふれていないにもかかわらず、一部配布ずみのものを除いて発禁の処分をうけた。チューリッヒ外電などの小さな報道記事で「原子爆弾」という言葉を使ったものが検閲をのがれて、1、2の紙上に出たが、それも読者の注意をひくものではなかった。
降伏が決定してからも、情報局として、正式に発表したわけではなく、新聞各社の自由な取材にまかせる形をとった。そして、新聞各紙に出た次の「仁科博士談」の記事が最初の公式発表であった。ただし、実際の仁科博士の「談」でないことは、この発表文が8月10日の大本営調査団報告書の、別紙(1)「特殊爆弾一般=発表=関スル件」と同一内容であることで明かである。これが国民に「原子爆弾」の名で正式発表された最初のものであった。
よくわかりましたか?8月7日の時点で、原爆かどうかわかりゃしないし、たとえわかったとしても新聞がそんなことを書けるわけがない状況だったのです。だから、「焼夷弾と爆弾とをもって同市付近を攻撃」と書くしかなかったわけです。いわゆる大本営発表による嘘ばかり報道していたことを見りゃわかりそうなものですが、この程度もわかりませんか?
そして、8月13日の読売が原爆を報道したわけですが、この時点でさえ発禁になったわけですね。新聞社が自由に取材できることになったのは敗戦後なのです。
ちなみに、『8月10日の大本営調査団報告書の、別紙(1)「特殊爆弾一般=発表=関スル件」』の内容はこちらのものと思われます。
追加:もう少し詳しいタイムテーブル
もう少し詳しく書くと、次のようなタイムテーブルです。
| 時刻(日本時間) | 出来事 |
|---|---|
| 8月6日 08:15頃 | 広島に原爆投下 |
| 8月6日の日中~夜 | 日本側で被害情報を収集 |
| 8月7日 01:00頃 | トルーマン声明がワシントンで公表 |
| 8月7日 朝 | 日本の新聞朝刊 |
| 8月7日 15:30 | 大本営が「新型爆弾」について発表 |
| 8月8日 朝 | 日本の新聞が大本営発表を報道 |
じゃ、トルーマンの声明を日本側で聞けたかというと、AIによれば次のような状態だったようです。
理化学研究所の仁科芳雄に関する資料によれば、同盟通信社の受信所がこのトルーマン放送を傍受し、直ちに日本語訳を作成して大本営や仁科芳雄のもとへ届けたとされています。受信所は川越にあり、当時、同盟通信は大本営から外国放送の傍受を許されていた、と説明されています。
この同盟通信社というのは民間ではなく、国策通信機関だったとのこと。こんな大ニュースを大本営の許可を得ずに新聞社に流すことはない、というのが私の想像です。ですから、8/7の新聞朝刊は「何が起こっているのか皆目わからずに、目撃証言だけを頼りに書いだだけ」と推測できます。
じゃ、8/7の大本営発表はどうだったかというと(『広島原爆戦災誌 第1巻』PDFの227ページです)
大本営は新型爆弾と発表
この(トルーマンの)声明は、当然、日本の中央政府においても聴取された。七日、ただちに関係閣僚会議が開かれ、東郷茂徳外相は、席上でアメリカ放送を詳細に報告した。しかし、陸軍側は、現地の調査報告をまって必要措置を執ろうと主張し、国民の戦意喪失を怖れて、なるべくその惨禍を軽視しようとしたと言われる。
この間の事情については、当時、国務相兼情報局総裁であった下村海南著「終戦記」に詳述されているが、種々議論のすえ、結局、軍部に押されて、次のように簡単に発表されたのであった。
大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分)
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり新聞記事
この発表を掲載した昭和二十年八月八日付毎日新聞は、これに続けて「落下傘つき 空中で炸裂 軽視許さぬ威力、必ず待避せよ」という見出しで、次の一文を併記している。落下傘つぎというのは爆弾ではなく、観測用テレメータ(ラジオ・ゾンデ)であったが、当時はそう思われていた。
(記事)
八月六日午前八時過ぎB29少数機は広島に侵入、少数の爆弾を投下した。そのため同市の相当数の家屋が倒壊、各所に火災が発生した。敵の投下した新型爆弾は落下傘をつけ空中で破裂したものの如くであり、その詳細については目下調査中であるが、その威力は軽視を許されぬ。敵は引続きこの新型爆弾を使用するものと予想される。これに関する対策については、早急に当局より指示されるが、現在の待避設備はさらに徹底的に強化する必要がある、今後は少数機といへども軽視することなく、慎重な待避が望まれる。敵はこれと同時にトルーマンの声明をはじめ、頻りに誇大な宣伝を開始しているが、その桐喝に屈することなく対策よろしきを得れば、被害は最小限度に食止め得るであろう。敵はこの挙により一般民衆をも無差別に殺傷する残忍性を遺憾なく発揮したもので、その非人道性は永久に歴史の汚点として残されるであろう。(以上)
この章にはまだまだありますが、お腹いっぱいになったので続きは後ほど。





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