原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(7)〜林は「毒ガス」を証明できない(2)

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この記事の三行要約

  • 林は、原爆被爆者の症状や当時の「瓦斯中毒」「汚染された空気」という記述を、毒ガス被害の根拠として扱っている。
  • しかし、これらの証言には毒ガスの使用を示す具体的証拠がなく、むしろ脱毛・高熱・歯肉出血などは放射線障害として検討すべきである。
  • またジーメス神父の「毒ガスと同じ範疇」という発言も、原爆=毒ガスという意味ではなく、民間人への使用が倫理的に許されるのかという文脈での比較である。 

原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(6)〜林は「毒ガス」を証明できない(1)の続きです。今回は、『第23章 毒ガス被害の実相』を見ていきます。

林はこう書いています。

 P276:1945年8月当時の医師による死因の診断は「瓦斯中毒」であった。診断書が物語っている。

当たり前と思うのは私だけなのでしょうか?この当時の医師は、慢性的な放射線障害は知っていたかもしれませんが、これほどの核爆発による障害は見たことがないはずです。そして、原爆による障害と毒ガスの障害は似ていると言われるのです(本当に原爆があると仮定した場合)。

P277:そして、「吐気」を始め毒ガス(硫黄マスタードガス)の典型的な症状が語られている。

もはや硫黄マスタードガスと決めつけています。これ以前の章において、そんな証拠は一切ありません。もちろん、この章にもありません。これまでと同じく、無意味な証言の切り取りをしているだけです。

1. 薬を与えたが効果なくただ吐気の症状

P277:自分は非常用の救急薬を持ち合わせていたので皆に与えたが一向に効果なくただ吐気の症状を呈して苦しむばかりであった。

『広島原爆戦災誌 第1巻』PDF255ページの証言です。前後も含めて引用してみます。

城子(むらこ)の最期(抜粋)
坂本潔、坂本文子

ようやくにして江波射撃場に来た。空は黒雲に覆われ雨は降り出し、傷ついた人々は所々方々から集って来て全市の被害を受けたことが正午頃にして解った。爆弾でなくて殺人光線だと言う程度のことが口伝えとなってひろまった。その後敵一機が偵察に来たのみで不安のうちに半日は過ぎた。避難者は続々と増して斃れてそのまま死ぬる人あり、血まみれになって水を求める人などこの世の生地獄かと思われた。幸い自分は非常用の救急薬を持ち合わせていたので皆に与えたが一向に効果なくただ吐気の症状を呈して苦しむばかりであった。これが今日の原爆症と記憶される。

(略)

時に午後六時半頃。夕闇はいまより迫り冷気は加わり気はいらだつばかり。名を呼び続けて行くうちかすかな声で「ここよ。」と叫ぶわが子の声と、「築山さんはお父さんが来られていいね。」と、どこからともなく聞えた友達の叫びが、今なお耳底深く残って誰であったか判然としなかったことが、今更ながら残念である。多分仲のよかった友達同志は一緒になって、この川岸まで逃れて来て遂に斃れたのであろう。

どうしてこれが毒ガス被害者になるのでしょうか?これが成立するためには、この吐気症状が、原爆による被害ではなく、毒ガス被害であることを証明せねばならないはずですが、そんなものは一切ありません。

また、この人の証言全編を読んでみると、「何発も攻撃を受けた(見た)」ようにはとても思えませんね。一発の原爆と、その後の偵察機のみで、後は何の攻撃も受けていない(見ていない)ようです。

2.両眼からどす黒いウミ

P277:館内に入ったとたん、門の所に全身火傷してその上に何がついたのか、異様に汚れた皮膚をあらわにしながら、ふるえている親子がいる。寒いのか、子供の両眼からどす黒いウミに似たものが流れ出し、警防団員が『目が見えるか。』とたずねると『見えないのです。』と手をふるわした。一瞬にして健全な肉体が無残なまでに切り裂かれてしまったのだ。『水を飲ましてくれ。』と手探りで哀願する。

『広島原爆戦災誌 第2巻』PDF289ページの証言です。特に前後を引用する必要性はないでしょう。これも同じですが、なぜこれが毒ガス被害者なのですか?何の根拠も書かれていません。

3.民間療法を試みた

P278:目が腫れ、潰れて歩くことも出来ず、医師の手当てだけでは、なかなか直らないので、三日目から民間療法を試みた。

『広島原爆戦災誌 第2巻』PDF249ページの証言です。

とにかく医者も薬も間に合わなかったのが実状であるから、致し方なく民間療法を試みた者が多かった。実は私も、目が腫れ、潰れて歩くことも出来ず、医師の手当てだけでは、なかなか直らないので、三日目から民間療法を試みた。それは油に塩を混ぜて患部に塗りつける方法を行なったのである。その結果は冷えて気持ちがよく、直りも早くて成績がよく、十八日ぶりにいよいよ全癒したのであった。

林は、「民間療法を試みた」で引用を終了していますが、やはりこれも不可解です。その後で、「油に塩を混ぜて患部に塗りつける方法〜十八日ぶりにいよいよ全癒した」と言っていますが、これが不都合だったのでしょうか?

4.汚染された空気を吸ったため死んだ者がある

P278:吉島本町一丁目では、家屋倒壊で直接死んだ者は少ないが、汚染された空気を吸ったため死んだ者がある。 

『広島原爆戦災誌 第2巻』PDF39ページの証言です。

吉島本町一丁目・同羽衣町二丁目では、被爆後復帰した者は、何か原因不明の病気になる人が多く、中でも腹くだしは全員といってもよいほど罹ったが、手当ての仕様がなかった。現場に停住した人の中には、頭髪や歯の抜ける人、斑点の出る人などたくさんあった。斑点は現在(昭和四十一年)でも出る人が多い。

吉島本町一丁目・同羽衣町二丁目では、何ら火の気のない屋根などから火が出た。また火のつきやすいものが、あちらこちらで焦げたり焼けたりしたが放射熱線による自然発火と思われる。

金属・硝子製品は熔解した。瓦は変形して素焼よりもガサガサした感じであった。家の土台石や庭石などが、踏むとすぐ崩れるほど脆くなった。

また、植木の上部だけが焼けたり、電柱の爆心地に向く北側だけが半分焼けたりした。相生橋・元安橋の二橋とも、左右の欄干が開くようにして、両側の川へ向って落ちた。これは爆心直下の現象であって、爆心地点から南西約一・三キロメートルのところにある住吉橋も、前述の二橋と同様に、左右の欄干が相反した方向にむかって落ちていた。

また、電柱がほとんど六〇度、はすかいに傾き、中には、中間から折れたものもあった。電線は散々に切断されて落下し、歩きにくいほどであった。

吉島本町一丁目では、家屋倒壊で直接死んだ者は少ないが、汚染された空気を吸ったため死んだ者がある。

これもまた曖昧な状況です。空気が何によって汚染されたのか明らかではないからです。しかし、「米軍が落とした毒ガス」なのであれば、明確にそう書くでしょうね。

というよりも、林の議論には、「毒ガス」とありますが、米軍がどうやって落としたかの記述がありません。「黒い雨と共に」と言った記述はあったような気がしますが、それをどうやって落としたのでしょうか?B29から直接撒いたとでも言うのでしょうか?そうでないのであれば、液体を格納していたキャニスターが残るはずですが、それはどこに行ったのでしょう?

追記:P289に「黒い雨は、雨とナパームと毒ガスと放射性廃棄物が一体化したものを考えられる」と記述していますね。え?ナパームも?ナパームって爆発させるのが目的なのに、ただ地上に降らせるだけなんですか?

また、上の方にある記述は重大です。「吉島本町一丁目・同羽衣町二丁目では、何ら火の気のない屋根などから火が出た。また火のつきやすいものが、あちらこちらで焦げたり焼けたりしたが放射熱線による自然発火と思われる。」と言っていますね。つまり、原爆投下直後にすぐに火がつかなくても、いくばくかの時間を置いてから火災になった例があるということです。これは林説にとっては致命的ですね。

5.気がゆるんだのであろうか、発熱しはじめた

P278:帰宅後、一週間くらいたったころ、気がゆるんだのであろうか、発熱しはじめた。意識がもうろうとし、頭髪が脱けだし、歯ぐきから出血し、うわごとまで言うようになった。地方の医師はみんな広島市の救援に引き出されており、田舎では治療が受けられなかったが、家族の温い看護によって、一週間くらいしてから熱が下りはじめ、元気をとりもどすことができた。 

『広島原爆戦災誌 第3巻』PDF38〜40ページの証言です。この人の経緯が興味深いのですが、全文を転載すると長いのでAIにまとめてもらいました。興味のある方は元の3ページ分の証言を読んでみてください。

菅田四郎の行動経過

時期 場所 原文から確実に言えること
6月20日 神辺町 → 広島・水主町 19歳で広島県警察学校(練習所)に入校
8月6日 6:30 水主町・警察学校 起床
8月6日 7時過ぎ 水主町 警戒警報。まもなく解除
8月6日 8:15 警察学校・炊事場 時計を見た直後に閃光・爆風。被爆
8月6日 8:15以後 警察学校周辺 建物が火の海となり負傷。いったん意識を失う
その後 住吉橋 「気がついたとき、住吉橋の上に寝かされていた」
その後 住吉橋 → 広島赤十字病院 大八車で搬送され、赤十字病院入口で降ろされる
その後 赤十字病院 → 宇品町・凱旋館 病院に火が迫ったためトラックで移送
8月6日夕方近く 凱旋館 軍医が額12針、右腕8針を縫合
8月6日 19時ごろ 凱旋館 「君はカナワ島(※金輪島。宇品より1km沖合)へ行って療養してくれ」と言われる
その後 金輪島の療養所 伝馬船で移動。30人余の負傷者が療養
金輪島滞在中 金輪島 「ここで二日くらいのうちに、二、三人の死亡者」
金輪島4日目ごろ 金輪島 「カナワ島の療養は四日間」
その翌朝? 金輪島 → 海上 午前3時に起こされ、桟橋へ。ランチが浮き桟橋を曳航
その後 海上 → 大竹 搬送中にも死者が出る。大竹到着時には人数が減っていた
大竹到着後 大竹国民学校 救護所に収容
その後数日 大竹国民学校 傷口にウジ。医師・看護婦による処置
8月15日 大竹国民学校 「日本は負けた」と聞く
8月15日以後数日 大竹 終戦後、竹下重一署長らが面会
8月末~9月初め 大竹 → 神辺 医師の許可を得て帰郷
帰宅約1週間後 神辺 発熱、意識朦朧、脱毛、歯ぐきから出血
約1週間後 神辺 回復
10月31日 呉市広警察署 警察官として赴任

わかりやすいように図で示しましょう。

つまり、この人は8/6に爆心地から極めて近い位置にいましたが、その日の夕方には既に離れており、8/10,11日には大竹国民学校というかなりの距離に移動し、その後、8月末・9月初めに遠方の郷里に帰り、その一週間後に症状を起こしているわけです。

これが毒ガスの症状ですか?毒ガスとは、これほど長期の潜伏期間のあるものなのですか?

6.頭髪が脱け、歯ぐきがはげしく痛んで、多量のよだれが流れ出た

P279:私は、九月下旬まで、べったり床に就いた。わけても、九月はじめからの一週間は、人事不省となった。その間、何度か生死の間をさまよい親族が寄り集った。頭髪が脱け、歯ぐきがはげしく痛んで、多量のよだれが流れ出た。四十度を超す熱が、連日のように出た。…母の執念ともいえる食事療法によって、私は九月中旬をすぎると、にわかに体調が回復し、食欲がでてきた。それからの毎日、私はガキのように南瓜とイモツルを食べつづけた。

『広島原爆戦災誌 第2巻』PDF262ページの証言です。これも前の証言と同じで非常に興味深いものですが、長いので引用しません。257-263のページです。これもAIに経緯をまとめてもらいます。

  • 8月6日午前8時ごろ、警察練習所で被爆
    • 先の証言者と同僚と思われる。同じ場所
  • その直後、元安川沿いを南へ逃げ、吉島飛行場へ
  • その日のうちに江波の「山文」へ避難
    • 爆心地から3,4km程度
  • 8月8日朝まで江波に滞在
  • 8月8日に警察練習所連絡所へ戻り、その日のうちに郷里へ帰る
    • 旧・広島県双三郡君田村、広島市から65〜70km北方
  • 郷里では一旦体調が回復
  • 8月28日頃から急に脱毛+強度の発熱
  • 9月初めから約1週間、人事不省(意識不明)
  • 脱毛、歯ぐきの激痛、多量のよだれ、40℃超の発熱
  • 9月中旬以降に回復
  • 10月にはほぼ健康を回復 

この人の場合は、8月8日のうちに、郷里の旧・広島県双三郡君田村に帰っています。ところが、8月28日頃から急に脱毛と強度の発熱、9月始めから一週間意識不明となったのです。

これが毒ガスの症状ですか?AIに聞いてみましょう。

放射線は、8月6日に身体が受けた被曝量によって、その後の障害が決まります。したがって、

8月6日 広島で被曝

8月8日 広島を離れる

8月28日 君田村で脱毛・高熱

でも全く矛盾しません。放射線障害は「放射線のある場所にその後も滞在しているから発症する」のではなく、被曝した後に身体内部で起こる細胞・組織の障害が時間をかけて表面化するものだからです。

一方、毒ガス説なら、8月6日の曝露から20日以上経過して、しかも広島から数十km離れた場所で、脱毛・高熱・歯肉症状がまとまって発症した理由を別途説明する必要があります。ですから、この証言だけを比較するなら、「毒ガスの潜伏症状」より「急性放射線障害の潜伏期を経た発症」とするほうが、時期・症状ともに整合性が高いというのが妥当です。 

7.本爆弾を毒ガスと同じものと考え

P279:ヨハネス・ジーメス神父(ドイツ出身のイエズス会司祭、広島市の中心から4.5キロメートルの長束の丘に建つ修練院で暮らす・8月7日朝も同地にいて、その後100名以上の負傷者を収容・保護)の記録文書によると、「私達のうちの一部の者は、本爆弾を毒ガスと同じものと考え、これを非戦闘員に対して使用することに反対の意見であります。」

これは、『原爆投下、米国人医師は何を見たか――マンハッタン計画から広島・長崎まで、隠蔽された真実』からの引用ということですが、林は気づかなかったようです。原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(6)〜ハーシー著書の悪質な切り取りにおいて論じたように、P156において、同一人物、同一証言をとりあげ、しかし、一部を切り取って印象操作しているのです。

再度、ハーシーの著書を引用してみましょう。

クラインゾルゲ神父と、ほかのドイツ人イエズス会司祭たちは、外国人であるだけに、比較的距離を置いた見方をすることが期待できたが、原爆を使用することの倫理性について、しばしば議論した。その一人であるシーメス神父は、攻撃当時、長束にいたが、ローマの聖座(Holy See)に提出した報告書の中で、次のように記した。

「私たちの中には、この爆弾を毒ガスと同じ範疇に入れ、民間人に対して使用することに反対する者もいる。一方、日本で行われていたような総力戦においては、民間人と兵士との間に違いはなく、また原爆そのものが流血を終わらせる方向に働く有効な力であり、日本に降伏を警告し、それによって全面的な破壊を避けさせるものだった、と考える者もいる。原則として総力戦を支持する者が、民間人に対する戦争について不平を言うことはできない、というのは論理的に思える。問題の核心は、たとえ正当な目的のために行われる場合であっても、現在の形態の総力戦が正当化できるのかどうかということである。その結果として生じる物質的・精神的な悪は、そこから得られるかもしれない善をはるかに上回るものではないのだろうか?私たちの道徳家たちは、いったいいつになったら、この問いに明確な答えを与えてくれるのだろうか?」  

再度強調しておきますが、これは明らかに、「この爆弾は毒ガスだ」ではなく、「この爆弾は毒ガスと同様に非人道的な兵器である」ということです。

こんな簡単なこともわからないのでしょうか?

 

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