フラットアーサーの愚かさ(57):太陽照射範囲で簡単に詰んだ

フラットアーサーのトンデモはこちら

またも平面説の致命的欠陥を発見してしまいました。この指摘も世界初かも。。。(既にご存知であればお知らせください)

追加:失礼、この動画で指摘されていました。

南極についてはごたごたがありますが、しかし、平面信者自身も受け入れていることとしては、「太陽が赤道より北側を回るとき、北極では24時間太陽が見える」です。これは観測事実です。ここで言うのは、「北極付近」ではなく、「北極」そのものです。つまり、これは球体説だろうが平面説だろうが同じなのですが、

 赤道にいる太陽の光は北極点までしか到達できない

ということです。すると、平面説では解決不能な重大な矛盾が発生します。平面説のほとんどの「派閥」においては、「太陽は地球平面上を周回する点光源」ということになっていますね。では、この点光源を赤道に置いてみて(つまり、春分・秋分のとき)、その光が到達する範囲を描画すると、どうなるでしょうか?

※もちろん、平面上を周回する点光源であれば、その照射範囲が制限されず、平面全体を照らすことになるはずですが、ここでは仮に平面信者の言うように「制限される」としてみましょう。

これを見れば、ひと目でおかしいとわかります。さらに、太陽を同じ経度で南回帰線(北半球にとっての冬至)に動かしてみると、はるかに状況が悪くなります。これをどう説明するつもりでしょう?

太陽の照射範囲は地球を飛び出し、無駄なところを照射しています。さらには、南極の照射領域が大きくなり、南半球の人の住んでいるところへの照射は減少してしまいます。これは南半球が夏のときですよ。ありえますか?

では、最初の春分・秋分に戻り、現実に太陽が照射している範囲は? 季節を問わず、太陽は地球の半分を照らしていますが、春分・秋分のときは、ちょうど北極点と南極点を通る面で地球を半分に分割した片側が照射されています。

これはもちろん観測事実ですし、球体地球を想像すれば、簡単に理解できますね。

これを平面地図に表現してあげると、こうです。

さて、こういった照射範囲を実現可能な点光源とは何でしょうか? ありえません。平面をこのように照らすことなど不可能と誰でもわかることです。そして、この仕組みがどう動くかを見てみると、こうです。

太陽は時計まわりに移動していき、照射範囲から外れた人たち、つまり、図の黒い直線上にいる人たちが一斉に「沈む太陽」を見ることになります。もちろん、(平面地球では)「沈む」わけないことは、これまで何度も指摘していますが。

ともあれ、この位置の太陽が、黒線上の人たちにおいては一斉に「沈む」、平面信者の言葉としては、「遠近法で見えなくなる」そうですが、太陽までの距離が全然違いますね。南方の人にとっては太陽が遠いですが、北方の人にとってはかなり近いのに「沈む=見えなくなってしまう」のはなぜですか?

もちろん、反対側の人たちは、一斉に日の出をみることになります。この場合も、太陽からの距離がまるで違うのに、なぜ一斉に日の出になるのでしょう?

もし、こういう「星」を題材とした小説やアニメがあるとするなら、「その仕組みは何か?」まで説明しなければならなくなり、かなり面倒ですね。作家さんはどういう設定をするでしょう?

ともあれ、平面信者の方は、どうしてこんなことが起こるのか説明してください。何から何まであまりにめちゃくちゃです。再度ですが、平面信者の頭の中は、次のような感じのはずですが、これでどうやって上のような照射範囲を実現するのですか?

コメント

  1. その照射範囲は確かに不自然です。
    https://www.youtube.com/watch?v=OImc6KG0iyI
    こちらの動画にもコメントしている通り、仏典中では、夜というのは須弥山の向こう側に日が隠れるから発生するものです。

    ただし、白夜と時差が現実にあるので、須弥山観ではその説明ができなくなるという矛盾に突き当たります。
    これは私の凡智では永遠に解決できない悩み所です。

    石井さんが仏典の平面論にほとんど言及しないのはなぜか不明ですが、中央に光を遮るほどの山があって、それを基軸に日月が周回しているとすれば、記事にある問題は平面でも解決します。

    また、仏典に基づいて、日月はプラズマなどではなく、諸天の宮殿です。
    その位置も、球体論の設定よりもう少し高い、四万由旬の高さにあります。
    流石に、6000kmとか1万kmにあるという説は誤りです。
    由旬の長さは諸説ありますが、1由旬7~15㎞の設定で、高めに見積もると40万km以上離れています。
    須弥山は八万四千由旬ですから、大体100万kmの高さの山が天下の中央に聳え立っていることになります。
    これを主張している平面論者は、世の中に私ぐらいしかいません。