原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(31)〜第17章:林の妄想のみで無内容

原爆なかった論の戯言シリーズはこちら

林千勝著、経営科学出版の書籍『広島・長崎 悲劇の正体』の『第17章 冷静と客観VSプロパガンダと煽り』について見ていきます。

林の引用元を見ていくと、かならず林自身の墓穴を発見します。林が引用している前後に、林にとって極めて不都合なことが書いてあるのです。まるで、「発見してくれ!」と言わんばかりにです。

林の妄想的茶々入れが主題の章

この章の概要としては、8月6日に広島原爆が投下されてからの、日本側の報道、各調査団、科学者、研究会議、軍・内務省・情報局・外務省などの動きの概要を、おそらくは史実に基づいて追っていますが、しかし、主題はこうです。

例えば、最初の方ですが、

P184:8月6日以降、広島そして長崎をめぐって「冷静と客観VSプロパガンダと煽り」のせめぎあいが恥まえる。国の上層部での工作はいち早く進められた。

大上段に振りかぶりましたが、その後はどうでしょうか?面倒なので対象となる記述については示しませんが、最初の例としては、8/6,7呉鎮守府の調査団が「敵弾の本体不明なり」としたことに対して、こういう評価です。

P185:冷静で正確な結論だ

これで終わりです。何の説明もありません。

ガイガーを持っていかなった?

このページを見てみます。

P189:大本営 有末調査団の派遣

大本営では参謀本部第2部長有末精三中将を団長とする陸軍技術将校を、急拠、広島に派遣することになり、参謀本部(有末中将以下5名)、陸軍省、航空本部よりなる調査団に理化学研究所の仁科芳雄博士の同行を求めた。8月8日午後3時に所沢を飛行機は出発、機上での仁科博士の談によれば、恐らく原子による爆弾であろう、もしそうであれば、広島を中心に5里(20キロメートル)四方は、鉄道線路も霧の様に消え去っているであろうということであった。(4)

しかし、奇妙なことに、この時、仁科は放射線を計るガイガー計数管を持参しなかった。

仁科は、機上から焼野原の広島を俯瞰して、原子による惨状であると判断したという。

広島到着後、仁科博士は、(若い将兵の屍体の)びらんした内臓を手で持ち上げ、「解りますか、これは間違いなく原子爆弾による内臓の破壊です」と、周囲の人々に宣言した。 (5)(『広島原爆戦災誌』広島市役所)

これがニセ科学体系の出発であった。計測器はなし。焼け野原が東京大空襲後にそっくりであること、毒ガス被害の可能性には言及せず。

引用元をチェックしてみましょう。

『原子爆弾――広島・長崎の写真と記録』仁科記念財団編纂からの引用部分

(4)はたしかに、『『原子爆弾 : 広島・長崎の写真と記録』(国会図書館)』仁科記念財団編纂からの引用部分です。

広島原爆戦災誌からの引用部分

(5)の部分は、たしかに『広島原爆戦災誌 第1巻』PDF33-34ページの内容です。

同日、また、大本営から、参謀本部第二部長有末精三陸軍中将を団長とする調査団(有末調査団という)が来広した。有末調査団は、理化学研究所の仁科芳雄博士を中心とする軍医や技術関係者ら約三〇人で編成され、八日夕刻、DC−3型輸送機で広島の吉島飛行場に到着した。ただし、団長有末中将は、単身で、一日前の七日に飛行機で乗りこんで来たとも一説に言われている。

(略)

また、仁科博士は、機上から焼野原の広島を俯瞰して、原子爆弾による惨状であると判断したという。調査団一行は、すぐに宇品の船舶司令部を訪ね、その夜は、同司令部近くの松乃家旅館に泊った。

(略)

翌九日、元宇品の独立高射砲第二十二人隊本部を訪れ、同隊が前もって調査測定していた結果を聴問した。内山恒太少佐(大隊長・現姓加藤)は、その朝、閃光と轟音を聴いたあと、すぐに船舶司令部に連絡してから、陣地の板囲いの板に一定角度で、キツネ色にこげた跡を見つけた。今の強烈な爆弾は空中で炸裂したのかも知れないと直感し、江波・打越の陣地に電話(電話が通じた)し、そこの焼こげの有無と斜角が何度か調査させた。その報告を総合して、部下に計算させ、約五五〇メートル上空で炸裂したという結果を得ていたのであった。

ここから仁科博士らは二葉山の第二総軍司令部に行き、調査の協力を依頼した。総軍司令部は、すぐに猫屋町の憲兵隊(光道館)に連絡し、柳田博憲兵准尉に案内を命じた。柳田准尉は仁科博士一行七、八人をトラック(運転手は自動車班長別府栄助軍曹)で、市内一円にわたって案内した。

仁科博士は、トラックの上で、助手たちを指示して、ほとんど目測により、ビルの残骸その他の物件の調査を行い、爆弾の炸裂した高度、あるいは地点などをはかった。この間、仁科博士はまったく沈痛な面持ちで、周囲の者にもあまり口をきかなかった(柳田博談)。 

(略)

屍体解剖は、練習部医務室(旧大和紡績広島工場の実験室)で行なわれた。そのときの医務室のなかは、ホルマリンの臭気が充満していて息もつけないような気がした。解剖に立会したのは、衛生課次級の小坂軍医少佐と私と、その他数人の白衣の人がいたように思った。練習部衛生課長大谷軍医中佐は、八月六日、紙屋町付近の電車の中で爆死したらしく、所在不明であったため、衛生課の次級者が立会したものである。

最初の屍体は、若い将兵の屍体で、無傷のためか美しいような感さえした。手術衣を着た仁科博士の立会により、素早く解剖が始められた。メスが一寸動いたと思う間もなく、すぐに内臓が目に飛び込んで来た。

博士は、びらんした内臓を手で持ち上げ、『解りますか、これは間違いなく原子爆弾による内臓の破壊です。』と、周囲の人々に宣言するように申された。

仁科博士ら調査団による屍体解剖は、その他に数体が実施されたと思うが、私は第一回目の解剖が終ると同時に、医務室を飛び出してしまった。やがて、われわれ被爆者も、あのような運命を辿るのかと考え、とても耐えられない気持ちであった。」という。

放射能の人体に関する影響について、当時、物理学界では仁科博士が最も権威ある学者であったことを、同調査団の新妻清一中佐も語っている(昭和三十九年八月六日付中国新聞)。

広島爆撃調査報告

なお、仁科博士らは、十日、焼野原の中で、京都帝国大学から来た荒勝文策教授ら(海軍の原子爆弾研究機関)の調査隊と出あい、その夜、在広の陸海軍の調査隊と共におのおのの調査資料を持寄って、兵器補給廠(爆心地から二キロ東方)の一室で合同会議を開き、原子爆弾であることを確認しあい、今後の対策などを協議した。

この会議で、「航本技術部」の名における昭和二十年八月十日付「広島爆撃調査報告」が正式に大本営に、飛行便と電報で送られた。

調査報告には「判決」として三項目をあげ、第一に「一、本爆弾の主体は普通爆薬または焼夷剤をしようせるものに非ず、原子爆弾なりと認む。」とある。

しかし、本土決戦をもくろむ軍部は、現地調査隊から正式な報告を得ながらも、国民の前に「原子爆弾である。」ということを、なお発表させなかった。 

またも重要な記述を発見しました。上述の内山恒太少佐の話です林の引用元を調べていくと、本当に林にとって不都合なものが次々に見つかるのです。これについては後述します。

広島爆撃調査報告については、原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(15)〜廣島爆撃調査報告のウソ をどうぞ。

「ガイガー計数管を持参しなかった」は見つからない

ところが奇妙なことに、上で林が書いている

しかし、奇妙なことに、この時、仁科は放射線を計るガイガー計数管を持参しなかった。

という一文が見つからないのです。この(4), (5)という引用番号の打ち方だと、当然、この文は(5)、つまり、『広島原爆戦災誌 第1巻』にあるはずです。しかし、ありません。林はこの一文を一体どこから引っ張ってきたのでしょうか?リファレンスが示されていません。

逆にこういう記事があります。これを見ると、最初は持っていった(当然持っていくつもりだった)が、飛ばなかったのでいったん戻り、翌日は持っていかなかったと解釈できます。

 広島に原爆を落されて軍部が非常にあわてたのはいうまでもなかった。どうも原爆にちがいないと思うが、やはりそれときめるには科学者の調査が必要である。そこでこの方面の権威である仁科芳雄博士に広島へ出向いてもらうことにした。

博士はガイガー管を持って立川飛行場にかけつけたが、その日は飛行機が出ないとかでムダ足。

翌日になってやっと東京から飛び立ったが、広島上空にいくと家屋の倒れ方などから判断して、ガイガーの厄介になるまでもなく、すぐに原爆とわかったとか。 

しかし一方で、こういう記事があります

〔1945/8/7,〕直ちに広島で調査を行うというので,随行を求められ,陸軍機で飛び立つため所沢飛行場に赴いたとき,仁科は調査団長の有末精三中将に,
「広島に落ちたのは原爆ですよ」
とはっきり言った.
が,陸軍機はエンジンが故障していったん所沢に引き返し,ひとまず解散となった.

翌朝,仁科は深刻な表情で,
「今度は生きて帰れないかもしれない」
と言い残して出発していった.
そして改めて所沢に集まって輸送機に乗り,夕方,広島の上空に達した.
機中の人々は食い入るように下界を見下ろした.
それは異様な光景であった.
普通の爆撃でやられた市街とは,まるで様子が違っていた.
飛行場に降りたあと,有末は現地の軍人たちに投下前後の模様を聞き,直ちに大本営宛てに,
<これは特殊爆弾である>
と第一電を打った.

第一日の夜は宇品の旅館に泊まった.
電燈がついていることが,仁科には不思議なことに思われ,その口から,
「しまった.電源が健在ならガイガー・カウンターを持ってくるんだった」
の言葉が漏れた.

翌朝から酸鼻の現場で精力的な調査が開始された.
爆心は細工町19番地,爆源はその真上約580mである,ガイガー管がないので放射性物質は直接測定することができないが,赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果,黒くなったところから,エックス線,ガンマー線のような放射線が照射されたことは間違いなく,これは原子爆弾以外ではありえないことである,と推定された.
爆心で拾った瓦や石や馬の骨を,直ちに東京の理研に送った. 

※上の出典は、宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.258-262だそうですが、私は未確認です。
 

何にしても、林による「奇妙なことに、この時、仁科は放射線を計るガイガー計数管を持参しなかった」という文章は見つかりません。これもまた林お得意の悪質な誘導でしょうね。

上の記述を総合すれば、こういう解釈しかできません。

  • 仁科、最初はガイガーカウンターを持っていった。
  • しかし、その日はエンジン不調で飛ばなかった
  • いったん戻り、「広島には電源はないだろう」と推測した
  • だから、翌日は持っていかなかった。
  • ところが、旅館に泊まってみると、電灯がついている。「これなら持ってくるんだった!」

 

被爆当日の爆発高度測定

さて、先程の、『広島原爆戦災誌 第1巻』PDF33ページの内容を再度見てみましょう。

これは極めて重大です。林はまたも大墓穴を掘っているのです。

内山恒太少佐(大隊長・現姓加藤)は、その朝、閃光と轟音を聴いたあと、すぐに船舶司令部に連絡してから、陣地の板囲いの板に一定角度で、キツネ色にこげた跡を見つけた。今の強烈な爆弾は空中で炸裂したのかも知れないと直感し、江波・打越の陣地に電話(電話が通じた)し、そこの焼こげの有無と斜角が何度か調査させた。その報告を総合して、部下に計算させ、約五五〇メートル上空で炸裂したという結果を得ていたのであった。

つまり、こういうことです。

  • 元宇品の独立高射砲第二十二人隊本部の内山(現性加藤)は、閃光の後に「影」の存在に気づいた。
  • 強烈な爆弾が空中で炸裂したと直感した。
  • そこで、江波と打越の陣地に電話して、焼け焦げを確認させた。
  • その結果を総合して計算し、550メートル上空で炸裂したことをつきとめた。

場所としてはおおよそこの三点です。この地図では、爆心地はほぼ原爆ドームの場所と考えてよいです。

広島市周辺の高射砲陣地 という資料に場所が示されています。またここにも、加藤恒太少佐の名前が出てきますね。

つまり、内山(加藤)恒太少佐は、原爆炸裂の当日に、三つの陣地にできた「影」から爆心の高度計算をしていたのです。これでまたパルマー・林にとって難題ができましたね。

フィルムが行方不明

さてP191の最後から、林は次を説明しています。

  • 仁科は、放射線が出ていたのなら、写真やレントゲンが感光しているはずだから、現像してみろと言った。
  • 黒石が赤十字病院地下のフィルムを現像してみると、暑いコンクリートの壁、その中の鉛を通して感光していた。骨折の診断なら使えそうなほどだった。
  • ところが、後で他の研究者や米軍が研究しようとしたが、所在が判明しなかった。わずか7平方センチメートルしか日赤に残ってはいない。

これは、『『原子爆弾 : 広島・長崎の写真と記録』(国会図書館)』51,52印刷ページを引用しています。

P193:偽装工作であった可能性が高い

ただの妄想です。しかも、ここでは原爆によってレントゲンフィルムが感光していた事実を引用しているのに、その評価はせずに行方不明になったことだけに文句をつける有様です。

「そもそもそんなものはなかった」というのであれば、まずはこれら一連の文書や証言が捏造であることを示さねばならないはずですが、自らの妄想で文句を言うだけで後は「読者のご想像におまかせします」状態です。

ところが!

いろいろ調べてみると、このフィルムは2005年に発見されていました。林は調査能力が皆無で、都合の良い切り取りしかできないので、こんなことも知らなかったようです。自分の主張の裏付けは、もっと真剣に調べてほしいものですね。

またも林の論理が崩壊〜発見されたフィルム

 まずはこちらのPDFの83ページです。

原爆投下による放射線で感光し、真っ黒になった広島赤十字病院の大判レントゲンフィルムが、旧理化学研究所(東京都文京区)の仁科芳雄博士の研究室から見つかった。大阪の現地調査に同行した仁科博士の指示で現像され、原爆投下直後の状況を物語る貴重な資料として注目される。
(中村敦生) 

研究室は「仁科記念財団」が保管していたが、昨年6月に建物の耐震工事を実施。仁科研OBで理研元副理事長の中根良平さんが84の資料を整理したところ、古新聞にくるんだビニール袋に入ったレントゲンフィルム7枚と撮影用の撮り枠を見つけたという。

一緒に出てきたリストから、7枚は広島赤十字病院(爆心から1.5キロ)で見つかったフィルムが5枚、陸軍三滝分院(同2.5キロ)が1枚、共済病院(同3.5キロ)が1枚。広島赤十字病院2階のレントゲン撮影室の保管庫にあった大判の1枚(約36センチ、横が約27.5センチ)だけが真っ黒に感光し、残り6枚はほとんど感光していなかった。

では次に理化学研究所の記事を見てみましょう。こんなことを話されていますね。

―― 1945年8月6日、米国が広島に原爆を投下し、仁科博士が調査に派遣されましたね。

中根:8月7日に開かれた閣議で、「広島に投下したのは原爆だ」と米国が発表した「トルーマン放送」が報告されます。しかし軍部には謀略ではないかという人もいて、仁科先生を広島に派遣して本当に原爆かどうか確認してもらうことになりました。そして仁科先生が原爆に間違いないと判断したことが9日の閣議に報告され、大多数の意見がポツダム宣言を受諾して降伏しようということになったそうです。

広島に行った仁科先生は、爆心地から南へ1.5kmほどの距離にあった赤十字病院に行きました。原爆が爆発すると中性子と同時にガンマ線が発生するので、レントゲンフィルムが感光しているに違いないと考えたのです。ちょうど8月6日の朝に装置にセットしてあったフィルムを現像すると、真っ黒に感光していました。ところが赤十字病院の地下室や爆心地から離れた陸軍病院にあったフィルムは感光していませんでした。そこで仁科先生は原爆に間違いないと判断し、政府に報告したのです。実は戦後、そのフィルムは行方不明だったのですが、2004年に私が偶然、仁科先生の部屋で発見しました。

―― 中根先生は終戦のころ、どうしていたのですか。

中根:8月10日に、仁科先生から爆心地で集めた銅線などが理研に送られてきました。西川研の木村一治先生が測定すると放射線が検出されました。やはり、原爆に間違いないと思いましたね。11日の朝、政府がポツダム宣言受諾の交渉をしているという話を、脇村義太郎先生から聞きました。昼前、警戒警報が鳴り、ラジオが「米機が新型爆弾をまた投下するかもしれないので注意せよ」と警告していました。外へ出て玉木英彦先生と空を見上げていると、先生は「東京にも原爆を落とすかもしれないね」と言いました。「それでは防空壕に入っても駄目ですね」と私は答えて、空をずっと眺めていましたが、結局、B29爆撃機は東京に来ませんでした。 

林氏におきましては、これらは全部捏造に間違いないのでしょうから、是非とも暴いていただきたいと思います。それが責務というものでしょう。

林よ、それを証明するのがお前の役目じゃないのか?

P195-196はまるで意味不明ですね。

P195:技術院調査団

広島への新型爆弾投下の報告を受けた鈴木貫太郎内閣では、すぐ「臨時委員会」というのをつくった。とにかく実地調査をし、原爆かどうかを確認することがその任務であった。技術院参議官の松前重義もこの一行に加った。8月8日ひる前……空路広島に向かった。上空についたとき、被害の規模、破壊の状況から、松前と松浦(技術院総務課長)は原爆だと直感したという。この点は仁科博士の場合と全く同じであった市の中央部は灰になって何も残っていない。技術家の松前はトルーマン声明がうそでないことの裏づけを見てとった。飛行場に降りて……用意してくれたトラックに便乗して惨害地の様子を調べた。爆心地付近は一物も余さず消え失せている。10日午後8時、東京に帰着。翌11日朝、情報局次長久富達夫が松浦博士をたずね、原爆か否かの意見を確かめてから言った。「今日午後陸海軍と関係官庁の連絡会議を開くことになっている。どうか広島のは原爆であることを十分判るように、その惨害をよく説明してほしい。中には広島のは原爆でないと主張するもの……もありから、 会議で技術的立場から説得してもらいたい」。

ということだが、おわかりの通り太字部分は出鱈目だ。

と書いているのですが、おわかりではありません。林は何の説明もしておらず、これも林お得意の印象操作の一種です。

松前と松浦(技術院総務課長)は原爆がただ一発で大規模な破壊をもたらすものだと、おそらくわかっていたわけです。そして、事前に「一発の爆弾だった」と聞いており、その上でその目で広島の惨状を見たわけです。であれば、一目で原爆と判断するのは当然すぎるほど当然です。

ここで極めて卑劣な林が証明せねばならないこと、まるでできていないこと、ひたすら逃げ回っていることは、3機の編隊から落とされた観測機数個と一発の原爆ではなく、「大編隊のB29とそこから次々に爆弾が落とされた(まるで東京大空襲のようだった)」という情報が彼らの耳に入っていたかどうかです。その情報が正しかろうが否かはこの論理では関係ありません。

彼らが事前にそのような情報を得ていた上で、「原爆だ!」と判断することなど、当然ありえません。林はその「事実」も示さずに、「おわかりの通り太字部分は出鱈目だ」などと言っているわけで、論理として成立していないのです。

何度でも書いておきますが、パルマーはこれを認めています。「この規模の空爆を行うには、B29が220機必要だ」と。しかし林はこのパルマーの見積もりにも一切触れず、まして、この大編隊が来た証拠も証言も示すことができず、さらには、こんな大それたことをやるには日本側の全面協力が必要のはずなのに、それにも一切言及していません(少なくとも終戦以前のものは)。ひたすらしらばっくれ、逃げ回っているのです。

冷静と客観の圧殺は林のこと

P196:11日の連絡会議は首相官邸の日本間であったと思うと松前博士は回想する。会議の席上広島の爆弾はたしかに特殊な爆弾である、その破壊力は今までの常識では考えられない。その広範囲の惨害は言語に絶することを報告し、原爆の放射線の特性とその到達距離などについての調査結果を説明した。これに対する防御は絶対に不可能とはいえぬが、いま早速にそれを用意することは難しいと述べた。しばらく緊張した静けさが続いた。陸軍の諸君も無言である。そこで「戦争に関する政治的責任は政府の負うべきものであるが、原爆の科学的・技術的特性はこのようである」と結んだ。久富情報局次長は興奮の態度であった。軍に対していつも遠慮がちに見える文官としての次長の態度はこの日に限って毅然としたものが感じられた。「この事実を閣議に報告する。そして善処せねばならぬ」と強く言って会議は終わった。会議のあとで次長から原子爆弾についての発表の話があったが、それは仁科博士が最も適任だろうと答えたとのことである。

このようにして、冷静と客観は圧せられていく。 

まさに林は自分のことを書いています。林の言うことは事実の裏付けがまったくありません。単に、切り取りによって匂わし、印象操作し、誘導するだけです。

林が「国民大集会」とかでやっていることを見れば、まさに、オーディエンスを熱狂させて、冷静と客観を失わせていることが明らかでしょう。そこには事実も論理もなく、ひたすらプロパガンダしかありません。

 

コメント