この記事の三行要約
- 江戸時代は鎖国下で外国人の直接指導はほぼなく、杉田玄白や志筑忠雄らは、乏しい辞書や教師しかない中で蘭書を苦労して解読し、西洋医学・天文学を日本に導入した。
- 高橋至時と伊能忠敬は、観測と計算の一致を重視して球体説やケプラー理論を実務に取り入れ、より正確な暦と日本地図の作成を目指した。
- これらの成果は、理論を権威として受け入れたのではなく、観測による検証を重ねて最も精度の高い理論を採用した、江戸時代科学の実証的な姿勢を示している。
フラットアーサーの愚かさ(32):球体説で江戸幕府大成功の巻(2)の続きです。
鎖国体制
さて、ここで江戸時代の西洋文明との交流の歴史をざっと見てみましょう。ここでの要点としては、伊能忠敬の時代には、フラットアーサー陰謀論者の言うように
外国人勢力が政府トップをコントロールして、皆をウソの球体説に洗脳させる
など不可能だったことです。ざっと概観してみます。鎖国体制が1641-1853年と200年以上続いたことには改めて驚きです。
江戸初期(1600年前後~1630年代)
1543年にポルトガル人が日本へ来航。鉄砲や西洋技術が伝来。キリスト教が急速に普及。幕府はキリスト教勢力を警戒し始める。
オランダ・イギリスの来航
1600年、ウィリアム・アダムス が日本へ漂着。1609年、オランダ東インド会社 が平戸に商館設置。イギリスも一時的に商館を設置。この頃はまだ比較的自由な交流があった。
鎖国体制の成立(1630年代)
1614年にキリスト教禁止。1637~1638年の 島原・天草一揆 を契機に警戒強化。幕府はスペイン・ポルトガル勢力を危険視する。1639年にポルトガル船の来航禁止。一般にこの頃が「鎖国完成」とされる。ただし、外国との交流そのものを止めたわけではない。
鎖国時代(1641~1853)
1641年に商館を平戸から出島へ移転。以後200年以上、貿易、医学、天文学、測量学、地理学などの西洋知識が流入。これが後の「蘭学」。
他に中国、朝鮮、琉球、蝦夷地との交流があるが省略。
黒船来航(1853)以降
マシュー・ペリー が来航し、鎖国体制が大きく揺らぐ。その後、
1854年 日米和親条約
1858年 日米修好通商条約
(1868年 明治維新)
当然ですが、伊能忠敬の時代(1745~1818)の時代には、海外の知識は入ってくるものの、外国人の指導は受けていないわけです。外人さんがちょろちょろしていたら、そりゃ目立つでしょうし(笑)。
ですから、至時も忠敬も、海外文献をもとにした日本語文献から苦労して何とか知識を吸収したことが推察されます。
杉田玄白の話
その前に、オランダ語文献を解読して1774年に『解体新書(ターヘル・アナトミアの翻訳)』を完成させた杉田玄白の話は超有名ですね。こんなところだそうです。
- 辞書がほとんどなかった
オランダ語辞典は極めて限られており、単語の意味を調べる手段がほぼなかった。 - 先生も少なかった
蘭学を教えられる人は日本にごくわずかで、ほとんど独学に近い状態だった。 - 文法もわからない
現代のような文法書はなく、単語を一つずつ推測しながら文章を解読していった。 - 実物と照らし合わせるしかなかった
前野良沢らとともに解剖を見学し、オランダ語の医学書の図と人体を見比べて、「この単語はこの臓器を指すのだろう」と推理して訳していった。
そもそもは、それに先立つ1771年に、ターヘル・アナトミアを持参して解剖(幕府管理下の刑死者の遺体)に立ち会うと「書物と実物が驚くほど一致していた」という感動からだったそうです。
別に彼らは外国人のサイミン術にかけられたわけではなく、そこにある本を苦労して解読しながら、一歩一歩その正しさを自らの目で確認していったわけです。
天文学は?
天文学・物理学は医学以上に大変だったと言います。人体という答えあわせができないからです。代表的なのは、志筑忠雄(しづきただお、1760-1806)だそうです。このWikipediaから少し引用してみます。強調は私。
天文・物理・数学、地理誌・国際情勢といった分野を中心に、蘭書を底本とした各種和訳書を成し、その翻訳経験と知見に基づいて革命的なオランダ語学書を執筆した。
生前の著訳書の半分以上は西洋天文・物理学・数学関係の蘭書からの訳出で、「引力」や「遠心力」などの言葉を創出し、ニュートン物理学を初めて日本に導入することとなった『暦象新書』[14](1802成)がその代表的な仕事で、球面三角法の訳出も行った。ジョン・キールの翻訳とホイヘンスなどを参照にしつつ書いた自らの注釈であり、無限小概念や逆2乗の法則などに基づいてケプラーの第三法則などを基礎づけ、地動説を強固にするのには十分な内容で、自ら気圧を測る実験を行う記述もある
最後に、前二者に比べると数は多くないが、世界地誌や国際情勢に関する和訳も認められる。「鎖国」という言葉を生み出した『鎖国論』(1801成)がこの分野の主たる作品である。
AIが以下のようにまとめてくれました。
志筑忠雄は、オランダ語の天文学・物理学書を何年もかけて翻訳しました。その成果が暦象新書です。これはニュートン力学や地動説、ケプラーの法則などを日本へ本格的に紹介した画期的な書物でした。さらに驚くのは、日本語そのものが存在しない概念を訳さなければならなかったことです。例えば志筑は、「地動説」「重力」「引力」「遠心力」「求心力」など、現在でも普通に使われる言葉を新たに作り出しました。これらは単なる翻訳ではなく、「新たな科学概念を日本語で表現する」という創造的な仕事でもありました。
また、その前段階では、本木良永がオランダ語の天文書を訳して地動説を日本に紹介していますが、まだ十分に理解できず、概念的な紹介にとどまっていました。志筑はその一歩先まで理解を深め、ニュートン力学と結びつけて説明できるようになりました。
さらに興味深いのは、高橋至時や麻田剛立らの暦学者たちも、西洋天文学を取り入れるために、中国語訳の西洋天文学書とオランダ語文献を照合しながら理解を深めていったことです。地球の自転・公転や地動説を受け入れるまでには、多くの試行錯誤がありました。
つまり、杉田玄白たちは「人体」という実物を頼りに医学を翻訳し、志筑忠雄たちは「数学・観測・論理」だけを頼りに宇宙を理解し翻訳したという違いがあります。
ここで重要な点としては、ケプラー(球体説かつ地動説)の理論を扱った暦象新書は1802年と、忠敬の測量事業開始後なのですが、実際には1790年代から幕府天文方で活用され始めたという見方ができるとAIは言います。
以前に紹介した、至時が弟子に学ばせた「暦象考成後編(1742)」もケプラー楕円軌道を扱っています。ただし、この本はケプラー法則を理論的に解説した本ではなく、
- 暦を正確に作るための実用的な計算書
- 観測値と一致する計算法を示した書物
だそうです。
高橋至時(よしとき)はどんな人物?
Wikipediaの高橋至時をみてみましょう。まず第一に目につくのは、50歳の忠敬が弟子入りしたとき、彼は31歳でしたが、忠敬が測量中の1804年に41歳で亡くなってるんですね。
当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦13年(1763年)に起きた日食の予報を外してしまっていた[4]。一方でこの日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。
至時はこの剛立のもとで、同じころに入門した間重富とともに天文学・暦学を学んだ。
当時至時らが暦学を学ぶ際に参考にしていたのは、授時暦や貞享暦などの日本・中国の暦法、および『暦算全書』、『天経或問』といった書物だった[6]。そしてその中でも重要視されたのが、『暦象考成上下編』であった。
『暦象考成上下編』は、何国宗・梅殻成らによって編纂された、西洋の天文学をまとめた書で、天体の運動についてはティコ・ブラーエによる円軌道を基軸としている。ところがその後、間重富は新たに『暦象考成後編』を入手した。本書は書名こそ同じ『暦象考成』であるが、著者も内容も異なるため、実質的には「上下編」とは別の書である[7]。『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、円軌道ではなく、ヨハネス・ケプラーの唱えた楕円軌道で説明していた。この理論は当時の日本人にとっては革新的であり、かつ難解でもあったが、至時は剛立・重富と共に取り組んだ研究の結果、この理論を習得することができた[7]。こうして至時らの天文学の知識は当時の日本では他を抜きんでたものになってゆき、その評判は広く知られるようになっていった。
改暦のために江戸に向かった数か月後、至時の元に伊能忠敬が弟子入りを求めて訪れた。至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えた。至時は毎日天体観測に熱を入れる忠敬を「推歩先生」と呼んだ[18]。
忠敬は緯度1度に相当する子午線弧長を求めることに興味をもち、それは至時の関心事でもあった
この事がきっかけとなり、忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながった。至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には忠敬に助言を与えたりするなど、測量事業を支援した[21][22]。
改暦を成し遂げた至時の評判はますます高まり、幕府からの信頼も厚くなった。そのため至時は、改暦をつかさどる土御門家とのやりとりや、その他の雑務に追われるようになった[25]。さらに、前述のように、寛政暦は至時にとって満足のゆくものではなかったため、暦学の研究も続けた[26]。
享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じた。このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだ[27]。
享和3年(1803年)、若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられることになった。これを手にした至時は、「実ニ大奇書ニシテ精詳ナルコト他ニ比スヘキナシ」[30]と、同書の優れていることにすぐさま気付いた。さらに、この書を読み解けば、『暦象考成後編』には記されていなかった5惑星の運動などについても理解することができると感じ、解読につとめた[24]。
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった[34]。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため[35]、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている[36]。
まさしく「天文の虫」といった人物で、自分の作った暦が「日食の予測を15分もはずした!」と言って残念がるような人物だったわけです。というよりも逆に、素人考えでは「どうやったらそこまで当たるの?」という感想です。コンピュータも、まして計算機もなく手計算の時代ですよ。しかし、AIによれば、「現代でも15分という誤差は非常に小さい」ということです。
至時が正確な暦を作るにあたっての各理論の重要性をAIに評価してもらいました。
| 理論 | 至時(忠敬)にとっての重要性 |
|---|---|
| 地球球体説 | ★★★★★(不可欠) |
| ケプラーの楕円軌道 | ★★★★☆(暦の精度向上に重要) |
| ニュートン力学 | ★★★★☆(理論的理解に重要) |
| 地動説 | ★★★☆☆(統一的理解には重要だが、計算自体は他の体系でも可能) |
そして、AIの評価としては以下です。
この点は、日本の天文学史の特徴でもあります。江戸時代の学者たちは、「地動説だから採用した」のではなく、「観測と計算が最もよく一致するから採用した」という、非常に実証的・実務的な姿勢を取っていました。これは、高橋至時や伊能忠敬の業績を理解する上で、とても重要な視点です。
何度でも強調したい点ですが、至時や忠敬は、正確な暦・正確な日本地図を目標にしていたのであり、その目的に最も合致する理論を選んだだけです。すると、球体説は不可欠になったわけです。
そして、これもしつこく確認しますが、何の理論もなく、辻褄が合わず、あちこち矛盾だらけの平面説など採用していたら、一体どうなっていたことでしょう?




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