
- 伊能図は19世紀初頭としては世界水準でも高精度な地図であり、その精度を支えた最大の基準が「北極星仰角≒緯度」という球体地球モデルから導かれる事実だった。
- 忠敬と高橋至時は、北極星観測に大気差や時刻補正まで加えた。忠敬は、全国規模の測量を行い、その結果は現代地図とも驚くほどよく一致した。
- 一方、同時代の円通は仏教的な平面世界観を擁護したが、暦や測量による検証ではなく信仰を根拠としており、これこそが科学と伝承の違いである。
フラットアーサーの愚かさ(31):球体説で江戸幕府大成功の巻(1)の続きです。さて、伊能忠敬の地図がどのように球体説の恩恵を受けてきたか、それなしではこれほどの正確な日本地図は不可能であったことを説明していきましょう。
とは言っても、この記事は平面説否定が主眼なので、そのつもりで。
忠敬の地図の正確さ
ここはAIに評価してもらいました。次のようなものです。
- 伊能図は「江戸時代としては正確」どころか、19世紀初頭の世界水準で見てもかなり正確でした。
ただし、「日本全国で誤差数メートル」などではありません。そこは少し誇張されがちです。 - 現代地図と重ねると、本州、四国、九州の形が驚くほどよく一致します。
- その一方、経度(東西方向)は難しい。現代なら時計で求められますが、忠敬の時代には高精度な携帯時計がありません。そのため、三角測量、方位測定に頼る部分が大きく、経度方向の誤差は緯度方向より大きくなります。
北極星〜伊能図の精度を支えた最も重要な基準
伊能図の精度を支えた最も重要な基準は北極星仰角です。北極星仰角については、このシリーズで何度も取り上げてきました。詳細を省いてざっくり言えば、
- 北極星は全く動かない
- その仰角は北緯に一致する
ですから、北極星の仰角を測定すれば、自分がどの位置にいるか、南北方向はほぼ正確にわかったわけです。そして、伊能図の最北端と最南端はそれぞれ以下でした。
- 宗谷岬よりも少々南(北緯45°付近)
- 屋久島あたり(北緯30°付近)
つまり、その差は15°であり、南北距離としては、15×111kmで、1665kmです。これもおさらいですが、緯度一度は約111kmです。以下は小数点を丸めた、おおよその緯度≒北極星仰角です。
そしてこれも何度もしつこく説明してきましたが、球体地球においては北極星仰角≒北緯です。これは平面説では絶対に成立しません。
平面説の北極星点光源モデルが観測事実と一致することは絶対にありません。先の記事の考察に書いた通りです。この一点だけをとりあげても平面説は破綻しています。これは伊能図の正確性においても実際に証明済みなのです。
実際には補正が必要
先に述べたような「ざっくり北極星観」では測量には使えないそうです。AIによれば、
- 北極星は天の天極から0.7°ずれているため、一日の中で仰角はわずかに変化する
- そのため、伊能隊は観測時刻を記録し、ずれを補正した
- 季節による変化はないが、観測可能時刻、大気差、恒星との位置関係は変化する
- そのため、観測時刻や条件が厳密に管理された
ここでうっかり見過ごしそうな重要な点なのですが、「大気差」という言葉が出てきました。これはつまり、北極星の仰角測定でも、光の屈折によるずれが認識されていたということです。この点をさらにAIに聞いてみました。
中国天文学でも知られていた
実は大気差の認識自体はかなり古いです。中国の暦学では、日の出・日の入り、太陽高度、恒星高度を扱うため、観測値と理論値が一致しないことが古くから知られていました。授時暦やその後の暦学でも、観測補正の概念は存在します。
西洋天文学ではさらに体系化
高橋至時が学んだ『暦象考成』『暦象考成後編』には西洋天文学の成果が取り込まれています。18世紀の西洋天文学では、大気差(atmospheric refraction)は既に重要な補正項目でした。つまり至時は、視差、大気差、歳差、章動(までは微妙ですが)などの補正概念を知ることができる立場にいました。
さらに
伊能忠敬はどうだったか
伊能の観測精度を考えると、大気差を無視していたとは考えにくいです。例えば、
高度 45°付近→ 大気差はごく小さい
高度 10°付近→ 大気差はかなり大きい
地平線近く→ 30分角以上になることもあるです。30分角は緯度換算で約55kmに相当します。これを無視したら測量になりません。
ただし北極星観測では有利
ここが重要です。伊能が緯度決定に使った北極星は、日本では
北海道 約45°
東京 約36°
九州 約31°程度の高度にあります。つまり地平線近くではありません。そのため大気差は比較的小さく、補正も行いやすい。これも北極星が緯度決定に非常に便利だった理由の一つです 。
つまり、伊能忠敬・橋本至時は、球体説前提の北極星の仰角≒緯度という観測事実は疑いないどころか、さらにそれを細かく補正する方法も用いていたわけです。
須弥山儀(しゅみせんぎ)とは?
さて、ここでいきなり話が飛びますが、須弥山儀(しゅみせんぎ)というものがあります。
天台宗僧侶・普門円通(1754–1834)が考案し、1813年頃に作られました。須弥山説(要するに天動説+地球平面説)を表すもの、つまり、平面地球の上を太陽と月が回転するといったものです。年代としては忠敬が全国測量をしている頃ですね。
九州国立博物館の解説としてはこうです。強調は私。
須弥山(しゅみせん)は、仏教的世界の中心にそびえ立つ山の名である。四天王や帝釈天が住むというこの山を囲んで世界が平面に広がり、大地の周りを太陽や星が巡る、古代インドの仏教的な世界観・宇宙観を須弥山説と呼ぶ。
日本では、こうした伝統的な世界観が江戸時代を通じて存続する一方、江戸時代後期にはヨーロッパ製の世界図が広まった。西洋科学を学んだ儒者による仏教思想への批判が高まると、人びとの信仰が離れることを恐れた円通は、地球儀に対抗した須弥山儀や、本品のような木版多色刷の絵図を作らせて、須弥山説の普及に尽力した。
要するに、少なくとも知識人の間で球体説・地動説が広まりつつある中で、円通はそれに対抗し、伝統的な仏教観を守るためにこのようなものを作ったわけです。Wikipediaの円通を読んでみましょう。ここにはなんと、忠敬との議論も記されています。
15歳(注:1769年)で、游子六によるティコ・ブラーエの天文学(注:球体説)の入門書『天経或問』[2]を読んで[3]仏暦との矛盾に疑問を抱くようになる。当時は儒学者・国学者の間から仏教批判が起こり、円通は仏教の衰退は天文地理の研究から始まると考え、インドの暦学を修学し、また土御門家にも入門した[4]。その結果、1810年(文化7年)に須弥山宇宙論による『仏国暦象編』5巻を著している。これに対し伊能忠敬は『仏国暦象編斥妄(注:1815年以降と推定)』で反論し、同じく大坂の武田真元も大坂訪問中の円通に論戦を挑んでこれを論破している。
つまり、こういうことです。ティコ・ブラーエ(球体説)の理論を、少なくとも1769年には既に円通のような知識人は「天経或問(1730)」という本で知っていました。前回で述べた、至時が弟子に勉強させたのは、「暦象考成 上下編(1723)」で、これもティコ・ブラーエ系の理論でした。
つまり、このストーリーはこんな感じです。。。かもしれない。
円通15歳、知識人の中で流行中の球体説を読む
↓
んなわけないだろ!仏教の宇宙観が正しいんだいっ!
↓
至時、新暦を作成。忠敬、蝦夷地の測量に成功。その後、全国測量の旅に出る
↓
円通、仏教観に即した「地球は平ら」模型を作成
↓
忠敬、忙しい測量の合間をぬって、円通への反論「仏国暦象編斥妄」を執筆
円通が須弥山儀を作成した当時は、忠敬の師匠の至時は幕府側の天文方として新暦を作成した後であり、忠敬の蝦夷地測量が成功した後です。球体理論が成功を収めていたわけです。幕府からの信頼も厚かったでしょう。
そして、円通は科学をもとにしたのではなく、信仰・伝承の類を形にしただけです。つまりは、現代のフラットアーサーと全く同じことをしているだけの話ですね。
科学とは
これはフラットアーサーの方に是非とも考えていただきたいことなのですが、科学とは、科学的とは何でしょうか?当然ですが、信仰・伝承の類とは違うものですし、見た目で判断できるものでもないのです。
至時と忠敬が行ったことは何でしょう?
- 科学理論によって、日食・月食の日時を予測できる、毎日の日の出・日の入りやその他の一年の出来事を予言できる。
- 科学理論によって、一度に見渡すことができなくても、我々が住む大地の形がどうなっているのかを正確に把握できる。
- そして、その予測や測定の結果が現実と一致するかどうかを、実際の観測や測量によって検証できる。
ということなのです。至時は空を相手に理論を検証し、忠敬は大地を相手に理論を検証しました。二人が信じたのは権威や伝承ではなく、「理論から導き出され、計算した結果が現実と一致するか」という一点だったのです。
球体説の正しさは、偉い学者が言ったからではなく、暦と地図という実用的成果によって現実世界で検証されたことです。平面説にはこれが一切できません。逆立ちしてもできないのです。
まだ続く予定です。





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