原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(26)〜意味不明な長崎原爆論

原爆なかった論の戯言シリーズはこちら

本記事の三行要約

  • 林千勝は新川信一の証言を引用して「大規模複合爆弾・毒ガス」と決めつけるが、その論理的根拠は示せない。
  • 新川は爆発20数分後に長崎へ到着し、巨大な煙、強烈な熱気、焼けただれた市街、そして「光の影」を実際に目撃している。
  • これらの証言はむしろ一発の原爆による被害を示しており、林は都合の悪い部分を徹底的に無視している。 

林千勝著、経営科学出版の書籍『広島・長崎 悲劇の正体』の『第14章 不都合な無数の真実 長崎』について見ていきます。

林の記述は意味不明

あらかじめですが、これは長崎原爆の話です。8/6広島投下の3日後の8/9の話ですね。林は次のように記述しています。いつも通り意味不明な文章です。

P160:佐世保海軍航空隊 新川信一中尉の証言

当時、佐世保海軍航空隊中尉であった新川信一の手記「私は原子雲突入した」(『文芸春秋』昭和40年8月号)は注目に値する。「昭和二十年八月」63~72頁でも手記を引用)

投下直後から3時間以内の状況として、

  • まるで火山の大爆発がいくつも重なり合ってキノコ雲ではない、ただ一面に広がる渦巻く煙の巨大なかたまりであった。
  • (爆発雲に)突入して2、3分、風防ガラスを引きあけた。機内にふきこんでくる異様な臭気と、眼も口もあけていられない様なものすごい熱気がどっと吹き込んできた。
  • 後で嘔吐し続けている
  • エノラ・ゲイらが退避した後)高度1万4千メートルに敵機はいた。
  • 重油を燃やしたような黒煙……。
  • うわべだけの治療でなく、根本の治療法を研究する国家機関もなくて……。

ピカドンではなく大規模複合爆弾であることがわかる。国は被爆者の方々に毒ガス治療を施すべきであった。 

たったこれだけの文章です。本当にこれだけなのです。この後は『「長崎地区憲兵隊報告」抜粋』に行ってしまいます。読者としては、この新川の手記のまとめからどうして「ピカドンではなく大規模複合爆弾」「毒ガスだ」ということになるのか、さっぱり理解できません。この地球上において、おそらく誰も理解できないでしょう。

ちなみに、大したことではないですが、長崎にFat Manを投下したのはボックスカーという機体です。エノラゲイは長崎上空にはきておらず、小倉の気象観測のみです。AIにまとめてもらうと次になります。

機体 役割 長崎上空まで来たか
Bockscar 原爆「ファットマン」投下
The Great Artiste 爆発測定機
Big Stink 写真・観測機 (合流には失敗したが後から長崎へ)
Enola Gay 小倉の気象偵察 ×
Laggin’ Dragon 長崎の気象偵察 ×(先行して気象観測後に離脱)
Full House 予備機 ×(硫黄島待機)

凡ミスですが、編集者は気づかなかったんでしょうかねえ。。。

それまでの状況

広島と同じく、長崎市街地もまた、「原爆の効果を計るため」に爆撃はされていなかったようです。もちろん、県内や周辺の軍事施設は攻撃されていましたが、長崎原爆の被害地域はほぼ爆撃されていなかったと言ってよさそうです。

そして、米側としては長崎市を頻繁に偵察に来て、そのたびに警報発令・解除が繰り返されたわけで、市民としては油断していたという状況でしょうね。広島とまったく同じ状況と言えます。

では、当日の日本側の敵機の検知についてはどうだったのでしょうか。AIに聞いてみます。

1945年8月9日の長崎では、日本側は米軍機を一つの方法だけで探知していたわけではなく、「広域での航空情報 → 通信による伝達 → 長崎周辺での目視」という段階的な検知が行われていました。

1. まず西部軍管区がB-29を把握

防衛研究所戦史室の『本土防空作戦』に基づく記録では、10時53分ごろ、国東半島から北九州方面へ向かうB-29 2機が発見され、西部軍管区司令部が空襲警報を発令しています。広島への原爆投下の直後だったため、この「少数機のB-29」は原爆搭載機の可能性があると判断されました。さらにB-29が八幡上空を旋回して南西方向へ向かったため、第16方面軍は攻撃目標を長崎と判断しました。つまり、長崎側が最初に「何か来た」と把握したのは、長崎上空に入ってからではありません。

2. 情報は通信・ラジオで長崎方面へ送られた

第16方面軍は、「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という情報を、ラジオその他の通信機関を利用して繰り返し伝達しました。ただし、ここで重要なのは、「原爆搭載機」とは市民には伝えられていなかったことです。広島で原爆が使われたことから軍は原爆の可能性を考えていましたが、長崎への伝達では「特殊爆弾投下の疑い」を付け加えていませんでした。

3. 長崎周辺では実際に目視確認している

長崎に近づくと、今度は地上の高射砲部隊が直接B-29を視認しています。長崎市の公式資料によれば、香焼島の高射砲隊、金比羅山の高射砲隊がB-29の機影を捉え、追跡・照準しています。そして90式測高機で高度を測定したところ、約9,500~10,000 mでした。高射砲の射程外だったため、迎撃できず「戦闘態勢乙」とされています。

これはかなり重要な点です。つまり、長崎上空の日本軍は、「B-29がいることを認識していなかった」のではありません。むしろ、発見 → 長崎方面への侵入を判断 → 通信で退避を指示 → 地上部隊が目視 → 高度測定 → 高射砲が照準まで行っています。

4. では、なぜ空襲警報が鳴らなかったのか?

ここが少し複雑です。「日本軍が米機を探知していなかった」ことと、「長崎市民に空襲警報が十分伝わった」ことは別問題です。実際、10時53分には西部軍管区が空襲警報を発令しています。しかし、その後の伝達・解除などの過程があり、原爆炸裂直前の長崎市街では、多くの市民が通常の生活に戻っていました。長崎市の公式資料も、朝の警報が解除され、工場従業員が職場に戻っていた状況を記録しています。

したがって、日本側はB-29を探知できなかったという説明は正確ではありません。むしろ、日本側はB-29少数機をかなり早い段階から把握しており、長崎が目標になることも推定していた。しかし、その情報が市民の十分な退避につながらないまま、11時02分の爆発に至ったというのが実態に近いです。

新川信一は何と書いていたか?

これを確認するために、文藝春秋昭和40年8月を見てみました。後でわかりますが、この新川信一や他の方の名前はすべて仮名です。

この話の前提として、新川は佐世保海軍航空隊におり、位置的には以下になります。長崎爆心地からは直線距離41kmです。

(略)

八日の大本営発表「広島市は新型爆弾により相当の被害をこうむりたり」だけでは何のことか分らなかったが、われわれは既に七日の朝のアメリカ放送がトルーマン大統領談話として、広島に投下したのは原子爆弾であると伝えているのは傍受していた。しかし、初めて耳にするアトミック・ボンブ(※ボム、Bomb)について知識を持ち合わせている者は一人もいない。広島の市民だけでなく、日本人にとっても寝耳に水の贈物だったのだ。

飛行機による新兵器、その正体は搭乗員であるわれわれには他人事でない。是非共解明しておかなければならない。それは搭乗員として当然の任務でもあった。敵の兵器を知らずして戦うことはできない。

「空中電雷だろう」「マグネシウムの粉末だ」「空中爆発でなく地上爆発に違いない」「いずれも空中からしか、落下、爆発弾だろう」皆の想像は堂々めぐりをしていた

ちょうど午前十一時を五分ぐらいすぎたころ、通信兵が入ってきて暗号機から「長崎市大爆撃中」との報を私に手渡した。大爆撃、すでに敵に焼きつくされたのは広島のみである。長崎市に軍事基地はない。これは間違いなく、今まで話していた新型爆弾に違いなかった。

上官の命を待つまでもなく、新型爆弾の性格を解明する機会だ。長崎から近距離にあるわが隊の責務は大きい。その場を見きわめれば、中尉である私より上の者はなかった。

「この隊にも私はより上は太尉が一人いるだけで、一番の戦闘経験者も私である。」

行けば、必ず敵機が待ちかまえていると考えねばならなかった。水上偵察機による偵察は特攻精神なくしては不可能である。重いプロペラを付けている上に、装備といえば七・七ミリ機銃一挺のみ、どんな優秀な技術をもってしても、十三ミリ機銃を備えたグラマンに遭遇すればひとたまりもない。

いま私は命令する立場にある。部下の誰かをさして「行け」といえばすむことであった。だが、自分からはどうしてもそれがいえなかった。こんな場合、上官の指名を待たず、自ら名乗りをあげ志願するのが軍人の本分ではあったが、皆一瞬ちゅうちょしているようだった。一様に新型爆弾に好奇心を抱いていることには変りなはかったが、危険も大きい。

こうしているうちにも、一刻一刻と時はすぎる。ぐずぐずはしていられなかった。沈黙の時間が非常に長く感じられた。部下にまかせず、自分が、この任務をはたすべきと咄嗟に判断を下すと、

「誰でもいいから後についてこい」

と言うなり、仕度をするのももどかしく、片手に飛行帽をつかんで機へ向って走った。

新川の乗った水上偵察機というのは、おそらく「零式水上偵察機11型」だろうとAIは言います。以下はもちろんプラモデルのパッケージですが、こんな感じで三人乗りです。水上発進・水上着陸を想定した機体ですね。

(略)

誰もついて来なかったらどうしようかと振り向くと、同僚の村上中尉が、何か冗談をいいながら後を追っている。

同じ釜の飯を食べた仲間の思いは同じだったのか、やはり戦友はいいものだと何かほっとする気持ちだった。しかし彼は後輩の岡田上等飛行兵曹を一人ひっぱってきていた。彼はあわててついて来たと見えて、軽装のままであった。

三人の乗員はそろった。心せくまま私の操縦する零式水上偵察機は佐世保基地を発進した。目指す長崎は、目と鼻の距離である。上空の雲の切れ目から、夏の太陽が容赦なく照りつけ、機内はむし風呂に入ったようだ。時計は十一時十分頃をさしていたと思う。

十分も飛ぶとすでに長崎。十一時二十五分ぐらい、十一時三十分以内であったことは確かである。われわれの前にたちはだかるように姿をあらわしたのは、上空一面にひろがるどす黒い雲の一群であった。

つまり、爆発から22分〜28分後ということです。

それは何と表現したらいいのだろう。まるで火山の大爆発がいくつも重なり合って、巨大な噴火口からふきあげて来た噴煙のようであった。そのどす黒い雲の輪が、怒り狂い、暴れまわるいきおいで、どんどん、どんどんともくもくうずまきながら上昇をつづけている。まるで生物のようだ。

六、七千メートルの高さまで広く渦をまき雲の輪となったその上に、入道雲の化物のような形の雲が首を出し、みるみるうちに大きくなり、背伸びをするようにたけり狂っている。そして斜めにたなびきながら一万メートルの上空にまで達しているようだ。

私は機が高度四千メートルにいるのを目で確かめた。計器は故障していない。これは本当だろうか。こんなことがありうるのか。今までに私は何度となく爆撃にも参加しているが、この高さまで硝煙や火災の煙が昇ってくるなど経験したことがない。

だが目の前の行手、長崎市の上空に覆いかぶさった灰色の怪物は、ただの雲とは考えられなかった。

後になって広島の原子爆弾投下の際のキノコ雲の写真を見たが、私の見た長崎のそれはただ一面に広がる渦巻く煙の巨大なかたまりであった。

われわれは太陽を背にしているので、それは眼の錯覚か、赤、青、黄と次々に瞬間的に変ったが、いよいよ接近してみれば、やはり不気味な灰色であった。この高度からは市の火災状況を見ることができない。雲の輪の周囲を旋回飛行してみたが、やはり何も目にはいらない。

「これでは何も見えん。この雲の中を突っきって見よう」

後に声をかけたが、部下は余りのすごさにのまれたか、黙っている。凡ては私の決断だ。

 

雲の中は悪臭と熱気

「行くぞ」

高度四千メートルなら障害物は何もないはずだ。掛け声もろとも突っ込んでいった。目のまえにせまるどす黒い雲。思わず操縦する手に力が入った。

急に機内が暗くなった。風防ガラスを通して目をこらしてみるが何も見えない。何時もの雲中飛行とは様子が違う。いくら雲の中でも普通は太陽の光がかすかにでも差し込んでも薄明るいものだ。夕立の時に、一瞬あたりが真暗になる、そんな感じだった。ガラスに灰色のちりが付着してくもってくる。また暗くなると同時に、機内の温度が上昇したのか、熱気でもんもんしてきた。飛行服にマフラー、それに飛行帽に眼鏡をつけているので、それはもう息がつまりそうな暑さだ。

突入して二、三分たっただろうか、遂にたえきれなくなってか、真中に乗っている同僚の村上中尉が、風防ガラスをひきあけた。その瞬間、彼は「わあっ」と大きな悲鳴をあげた。

機内にふきこんでくる異様な臭気と、眼も口もあけていられない様なものすごい熱気が、どっと吹き込んできた。爆煙の中とはいえ、この高度でこの暑さは尋常ではない。いままでの経験にもないものの凄さだった。

一番後に乗り、帽子も脱いだ岡田上飛曹は、暑さのためひろげていた飛行服の前をあわててかき合わせたほどだ。左手で操縦桿を握り、右の手を外に差しだした私も、余りの暑さにあわてて腕をひっこめた。

風防ガラスをしめてほっとし、右のてのひらをみると、この暗さの中でも、黒い手袋に何か色のついたちりのようなものが付着しているのがはっきり見えるではないか。風防ガラスをあけたためか、ちりにまじって大粒の水滴がついてしまい、まるで何も見えない。

この高度まで爆発の時にまき上ったちりがあるとはどういうことだ。それよりもこの熱風は街の火災のためだろうか、とすると何というすごいエネルギーだろうか。もしかすると長崎市は全滅したのではないか。そう考えただけで、恐怖に全身が鳥肌立って、背筋に冷汗の流れるのがはっきりと感じられた。

 

村上中尉が、「息がつまる」と大声で叫んでいる。後をふりかえると、岡田上飛曹も、自分の飛行靴を脱いでさかんに嘔吐している最中であった。高度を見る。四千五百メートルに上昇している。恐怖のためか思わず手に力が入ったに違いない。爆煙の中をジグザグ飛行したらしい。

突然、目の前がぱっと明るくなる。目がくらんでしばらくの間は何も見えない。どうやら爆煙を突っきったらしい。何と大きいものだろう。ずいぶんと長く感じたし、時間も十分ぐらいはかかっているようだ。 

明るい光の中で、自分の体や手などが血色、茶色、黒色と様々な色をした煤が一面にまつわりついている。まるで土ほこりを巻きあげて走る車の後についていたような感じだった。悪臭のためか、機内の温度も上昇のためかズキズキと頭が痛く、気持ちが悪い。村上中尉に現在飛行地点をただしたが、返事がない。後でどうやら嘔吐しつづけているらしい。

「これは想像以上だ。何百倍の爆弾だか分からん」

「全くひどいもんだ。長崎は全滅だろう」

爆煙のまわりを再び旋回しながら、二人は話を交したが、どうしたものか思案がうかんで来ない。雲の輪のまわりで再び風防ガラスをあけてみたが、ここではさきほどのような熱気はない。突き出した右指に水滴がついてきた。

 

猛火の市街に入る

敵機の姿は、幸いなことに見えない。後の話では高度一万四千メートルに敵機はいた。高度を下げてみる。三千、二千、一千メートルとぐんぐん機首を下げて旋回しつづけた。煙のためにまだ市街はみえない。偵察の目的をはたすために、被害をこの目で確かめなくてはならない。好奇心もいくらかあったと告白してもいいだろう。同僚と相談して、市街の上空すれすれに飛行してみることに意を決した。

高度を四、五百メートルまでおとした時、はじめて街が視界に入った。紅蓮の焔につつまれた長崎の市街が眼の前にせまった。重油を熱やしたような黒煙をふきあげて、街全体が狂ったように燃えさかっている。上空を飛んで写真をとろうと近付いたが、着えたつ街全体から熱風が一つになって空に向って吹きあげている。この高度の飛行では恐ろしいほどの飛び柱が時々あがっている。とても上空は飛べたものではなかった。

そのまま急上昇しながら旋回し、再び入江のようになった長崎港をすすんだ。入江のはずれの浜辺は、嘘のように静まりかえっている。

「あそこに着水してみよう」

同僚に基地へ強行着水する旨の打電を頼むと、体勢をととのえ、水面すれすれに港内を飛行した。障害物は何もない。その上視界は遠く岸辺まで見通せる。同僚が左岸を指さしている。着水に絶好の場所だ。エンジンの回転を弱め、徐々に近付いていった。

エンジンを止めるなり、同僚は飛行服を脱いで海の中へ飛びこんだ。岸に上がって飛行機を誘導するつもりだった。ところが意外に海は遠浅で、へその当たりまでの深さしかない。ぬれた顔をあげて、彼は私の方を見てニヤリとした。この時はまだ、われわれには笑うだけの余裕はあった。

無事に杭と杭との間にフロートを突っ込むことに成功した。幸いに用意してあった麻のロープでフロートを杭にしばりつけ、作業は完了。心臓の強いことをいっても、命より大切な飛行機に傷でもつけたらと思っただけに、三人は顔を合わせてほっとした。

着水したのはおそらくこのあたりでしょう。爆心地から約3kmです。

水を求める被爆者たち

われわれは燃えさかる火に向って歩く結果となった。むんむんする熱気と臭気が私たちをおそう。見渡すかぎり街は猛火につつまれていた。爆風で吹き飛ばされ、つぶされて既に形を失った建物に容赦なく火がおそいかかる。おそいかかるとはこんなことをいうのだろうと思うほど火の足は早い。重油がボイラーで燃えさかる時のような勢いだ。熱風でまき上る煙は、街を覆って一瞬夜ではないかと思えるくらい暗くなった。

われわれはカメラを手にしたまま、何をとったらいいか迷った。無理もない。われわれのいるのはまさに地獄にちがいない。移動しつつある火の行手の、ただき潰された家々の数居に、足を取られ、助けを叫んでいる婦人の姿が見えた。ぱっくりあいた額の傷口から流れる血潮に真赤になった両手で、頭の毛をかきむしっている。

猛火は間近にせまっている。われわれ三人が奮戦して助け出した時には、同僚のズボンの尻はすでに燃えだしていた。やっとの思いで避難すると、その婦人は恐怖に声もなく、ぼろぼろと涙を流し、折れた足の痛さをこらえて両手を合わせている。

目の前で燃えている家の中には、我が子と祖母がいるという。救い出すすべはない。われわれも先に進まなければならない。「頑張って」の声を残して炎の街へ飛びこんでいった。

火を避けながら進むにつれ、あたりの光景も一層無惨になった。頭髪はちりぢり、身につけていた着物も焼け、一糸まとわない全身は、やけただれて、肌は灰色と化し、とても火傷とは思われない。ぺろっとはげた皮膚の下からのぞいているのは、すでに赤い皮膚ではなく、どす黒い肉だった。毛の穴からは黄色い水がふきだしている。苦しさに顔をゆがめて、地面をのたうちまわる人は、みわたすだけでも数十人、すでに男女の区別がつかない。

それでもわれわれの足音がきこえるのか、近付くところがっている黒い塊りは、弱々しく手をさしのべるのだ。口はすでに声をださない。皆が求めているのは水であった。

かれはてたとぶ川に頭を突っこんだままこときれている老人。虚空をつかみ、眼を見開いたままの婦人。これが数刻前までは少なくとも平和な生活を送っていた人たちの姿だ。ほんとうに夢であってほしかった。

手を合わせながら被害写真をとるわれわれに、どこからでてきたのか、五歳ぐらいの幼い子供がヨタヨタと寄ってきた。頭髪はすでに一本もなく、裸になった全身は火ぶくれではれあがっている。被爆した顔半面はすでに灰色になっていた。そして蚊のなくような声で、

「おじちゃん、ミズ」

という。あまりのいじらしさ、みじめさに、私は思わずその子の手をつかんで引き寄せようとして、はっとした。火ぶくれになった手の皮膚はもろくも破れて、押し出されるように熱い黄色い水がにじみでた。余りのことに言葉もでず、口はわなないて涙だけがひとりでにあふれてきた。

その子を抱きあげて呆然としていると、同僚がどこで探したのか、焼けた空鑵に水をくんできた。水とは名前だけ、まるで濁ったドロ水のようなものだった。子供の口にそそぎこんでやると、ゴクンと飲みこんで、そのまま私の腕の中で頭をがくっとたれた。

同僚はそれを見るなり、子供のようにべったりと座りこむと、しゃくりあげるようにして泣き出した。

「ああ、これが戦争かい。おらあもうやめた。二度と飛行機なんか乗ってやるけい。こんなこたあ畜生のやることだち。ぼうや、すまんな。次の世に生れる時はいい国に生れてくるんだぞ。おじちゃんたちが悪いんだ。かんべんしてくれえ」

彼は動こうともしないで泣ききわめいていた。だが何時までもこうしてはいられない。

「ぐずぐず泣くな」

叱りつけるようにして同僚を引き立て、先に進む。こみあげてくる涙が、水であったならと、水を求めてはいまわる人たちに誰一人満足なことのできぬ自分たちが情けなかった。 

 

(略)

爆心地にたどり着くまでは余りのすさまじさに夢中で気付かなかったが、帰りによくみると、らんかんをふきとばされた橋にくっきりと残っている影がある。注意してみると、ここにもあすこにも、焼けただれた地面や石の上に、無気味な影がうつっているではないか。爆発の時の光の影だ。

監視所でもあったのか、あたりにはその跡もないが、メガホンを持った人の影だけがはっきりと地面の上にあった。そのあざやかな姿に思わずあたりを見まわしたが、人影などあるはずもない。

(略)

既に二時間は経過していた。もう充分だ。報告に帰ろうとかけるようにして海辺へ走った。近辺から様子を見にかけつけてくる人も、この時にはぽつぽつ行き合うようになった。だが海岸線の光景は、すでに来たときとは変っていた。何百という死体が波に洗われている。 苦しさのため、死を求め、水を求めた人たちの力つきた姿であった。

私たちの見ている前でも、ヨタヨタと海へ向って歩いて来た人が、続けざまに三人も、止ることなく岸壁から落ちこんでいった。まるで全身で水を欲しているような姿だ。中には水にうつる自分の姿に耐え切れず、命を絶った人もいるにちがいない。両手を合せ、冥福を祈らずには通りぬけられない。

街の中で助けてあげた人は数知れないが、海の中に浮ぶ死体をかき分けるようにして離水する、われわれの気持ちは、絶望感でいっぱいだった。

あの巨大な雲は、投下後約三時間を経過したその時も消えることなく、くずれ広がって、のたうちまわる人間たちをせせら笑っているようだった。

 

隊に帰ると、皆が寄って来て様子を聞くのだが、疲れはてて口をきく元気もない。真黒な顔とボロボロの飛行服を着た三人の報告は、「戦争はもう負けた。飯が喰えなくなるから言わんわい」の一言だけだった。

あんなすごい爆弾を防ぐ方法はない。迎え撃つ飛行機だってない。これ以上罪もない人たちを、あんな無惨な死に方をさせるわけにはいかない。海軍軍人として、私たち三人は、自分たちの無力に絶望した。もう相手に勝つすべがないではないか。戦争は負けたんだ。

私はもう隊長に報告する気にはなれなかった。今は現場写真をつけて、大本営へ進言するしかないと同僚と話し合った。軽装だった岡田上飛曹はその日から寝たっきりで再び起き上れなかった。彼はその日から三年目に白血病にもなり、副賢性腺内分泌腺障害と貧血に苦しみながら死んだ。

そして私自身も……

あれから二十年たった。私は自身に恐ろしい症状の前兆が現われたのは、戦争に負け、故郷の長野へ復員して間もなくであった。風呂へ入って、少し長湯をすると貧血がおきた。これが一度や二度のことではなく、風呂へ行くたびに貧血で倒れて意識がない。医者に診察してもらうと、血圧が低く、白血球が不足しているという。

造血剤を飲んだり、注射をしてもらったが、月に二、三回は外で引っくり返って家にかつぎこまれた。 

(略)

「編集部註――戦後20年にしてはじめて発表された生きた証人の記録である。長崎の街を歩きながら写した写真も50葉近くある。それは身の毛もよだつほどであった。だが、残念なことに、本書にあるように、原爆症は遺伝するのではないか、というおそれがあり、筆者の住む小さな町では、そのことが噂になると種々困ることが起こると、筆者の両親たちが本名で発表することを固くこばんだ。従って、筆者名も文中の指名も仮名にしたことを附記する」 

林千勝の大嘘ポイント

この証言を利用した林のウソをまとめてみましょう。むしろ、この証言によって林は墓穴を掘ってさえいます。

大規模爆撃を実行するための機体が一切ない

パルマーの「Hirosima Revisited』にはこうあります。

P276:1946年の米国戦略爆撃調査団(U.S. Strategic Bombing Survey)は、広島と長崎で実際に生じた被害を再現するには、それぞれ220機および125機のB-29爆撃機を焼夷弾と爆弾の搭載機として使用する必要があったと推定している[302, p.102]。同様の機数は、それ以前にも専門家証人デ・セヴェルスキーによって示唆されていた[5]。攻撃が段階的に行われたと仮定したとしても、すでに見てきたように、パンプキン爆弾またはそれに相当する高性能爆薬、ナパーム、そしてマスタードガスという複数種類の兵器が、攻撃の開始時点ですでに投入されていた。したがって、最初の段階だけでも、空襲警報を発令させるのに十分な、いや、それをはるかに上回る数の航空機が関与していたはずである。

しかし、日本側の監視でも3機、この新川の証言では、爆発より20数分後ではありますが、ただの一機も発見していないのです。林はこの事実をどうするつもりなのでしょうか?パルマーは、日本側の協力を示唆していますが、林はそれよりもはるかに後退しており、多数機の可能性も、日本側協力にも一切言及していません。

林は都合のよいところだけ引用し、都合よく論じているがために、まるで辻褄が合わないのです。

キノコ雲がいつまでもその形を保っているわけではない

こんなことは当たり前です。実際に「長崎のキノコ雲」がどの程度続いたのかわかりませんが、時間経過によって形状が変わるのは当然です。ですから、新川が「後になって広島の原子爆弾投下の際のキノコ雲の写真を見たが、私の見た長崎のそれはただ一面に広がる渦巻く煙の巨大なかたまりであった。」と書いたのは不思議でも何でもありません。

また、林はP72で、長崎のキノコ雲の写真をあげているのです。つまり、「最初はこんな形だった」ことは林自身も認めているのです。

「なぜこんな高度まで?」の答えがない

新川はこう書いていますね。

私は機が高度四千メートルにいるのを目で確かめた。計器は故障していない。これは本当だろうか。こんなことがありうるのか。今までに私は何度となく爆撃にも参加しているが、この高さまで硝煙や火災の煙が昇ってくるなど経験したことがない。

この高度まで爆発の時にまき上ったちりがあるとはどういうことだ。それよりもこの熱風は街の火災のためだろうか、とすると何というすごいエネルギーだろうか。もしかすると長崎市は全滅したのではないか。そう考えただけで、恐怖に全身が鳥肌立って、背筋に冷汗の流れるのがはっきりと感じられた。

これほどのエネルギーがあるということは、やはりB29が3機では明らかに運べません。しかし、先にも書いたように、この矛盾に林はほっかむりを続けたままです。

さらに、新川は4000m上空だと言い、「今までに私は何度となく爆撃にも参加しているが、この高さまで硝煙や火災の煙が昇ってくるなど経験したことがない。」と言っています。十分に現場の経験があるわけで、その人が半ば「ありえない」と言っているわけです。これを林はどう説明するのでしょうか?

「影」をどう説明するのか?

林は都合よく無視していますが、新川もまた「影」を証言しています。大規模複合爆撃であれば、できるはずもないものです。

爆心地にたどり着くまでは余りのすさまじさに夢中で気付かなかったが、帰りによくみると、らんかんをふきとばされた橋にくっきりと残っている影がある。注意してみると、ここにもあすこにも、焼けただれた地面や石の上に、無気味な影がうつっているではないか。爆発の時の光の影だ。

監視所でもあったのか、あたりにはその跡もないが、メガホンを持った人の影だけがはっきりと地面の上にあった。そのあざやかな姿に思わずあたりを見まわしたが、人影などあるはずもない。

AIに聞いてみましょう。

長崎の爆心高度の計算のために、やはり「影」が使われましたか?

はい。長崎でも「影」が実際に爆心位置・爆発高度の推定に使われました。 しかも、これは後世の推測ではなく、1945年の調査で実際に行われています。ただし、長崎の場合は少し整理が必要です。

1. 日本側が「影」から爆心高度を測定している

長崎市の公式資料によると、1945年10月、理化学研究所の木村一治・田島英三が、井樋ノ口交番所の庇の影、浦上天主堂の石碑の影、長崎医科大学附属病院の焼け跡に残った影の3方向の影を使って爆心を測定しました。その結果、当時の推定は爆心高度 490 ± 25 mでした。

さらに、1976年のKerr & Solomonによる再解析でも、木村・田島の測定は明確に「thermal-shadow measurements(熱線による影の測定)」として扱われています。彼らの推定値は490 mです。 

パルマーや林は「影は後から描いたもの」などとしていますが、林がこの新川証言を採用するのであれば、この「影」なるものがウソであるとしなければなりませんね。しかし、それはせずに、単純に無視しているだけなのです。

新川の証言は一発の原爆で長崎が破壊されたことをまさに示している

この証言を読んでみれば、これ以外の解釈はできません。林があくまで「毒ガスの症状だ」と主張するのであれば、「一発の巨大爆弾で毒ガスもまかれたのだ」と主張を変更するほかはないでしょう。

林の主張にはあまりにも無理がありすぎますね。お話にならないとはこのことです。

 

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