この記事の三行要約
- 林千勝は1945年8月13日の矢崎為一の発言を「偽装原爆」の証拠として利用するが、矢崎がその後も「原爆ではない」と主張し続けた証拠は見つからず、8月13日の発言自体も当時得られた情報に基づく専門家の疑問にとどまる。
- また、8月10日には日本側調査団が原爆と判断し、8月13日の新聞にも「原子爆弾」が掲載され、8月14日の詔書にも「残虐なる爆弾」が記されているため、林の論理では日本政府・軍部・天皇まで「原爆説」に加担したことになるが、その点は説明されていない。
- さらに林が主張する「日米が原爆偽装で通謀し、日本側が全面協力する密約がポツダム宣言受諾の条件だった」という核心部分には、具体的な一次資料による証明がなく、これを立証できなければ林説全体の論理的基盤は極めて弱い。
林千勝著、経営科学出版の書籍『広島・長崎 悲劇の正体』の『第18章 日本政府の抗議文と大東亜戦争集結の詔書』です。
詔書(しょうしょ)とは、天皇のお言葉です。
林にとって極めて都合のよい1945/8/13読売報知
この章で最も重大なものは、1945年8月13日付けの読売報知に掲載された矢崎為一教授の論説記事です(1942年読売と報知が統合して読売報知に、1946年に読売に戻す。もちろん当時は「讀賣」という文字)。
林はそれを掲載しているのですが、
字が潰れていてまったく読めません。本文の文字の大きさと比較すれば明らかでしょう。これは確実に出版社側とやりとりがあったはずです。「このサイズでは読めませんが大丈夫なのですか?」「いいんだいいんだ、雰囲気だけなんだから」といった具合です(あくまで想像です)。つまり、「引用元」ではなく、ただの「絵」です。
もちろん、この記事シリーズをこれまで読んできた方であれば、なぜ林がこんなことしたのかは容易に想像がつくでしょう。もちろん私の勝手な推測ですが、林はこの記事すべてを読まれては困るからです。あくまで一部だけを切り取って印象操作するのが林の手口です。
※この記事を何とか入手できないかと調べています。読売のサービス「ヨミダス」の個人向けサービスは安いですが、過去20年しか読めないのです。それ以前のものになると非常に高価です。
さて、林によればこの矢崎教授はこういう人だそうです。
P203:都築正男教授と並ぶ勇気の人、理研の矢崎為一教授は、「偽装原爆であり、複合爆弾だ」との特集記事を掲げた。
もちろん、「都築正男教授が、原爆ではなく毒ガスと主張した勇気の人」というのは林の真っ赤なウソです。これはもはや証明済みです。
都築の姿勢として、「毒ガスだった」という主張ではありません。当初はその疑問をもったものの、最初から「放射線障害である」としていたことは、あまりに明らかで、これまで散々見てきたことです(詳細はこちらをどうぞ)。
とにかく林の言うことはウソだらけなのです。矢崎についても調べてみると、特に「原爆ではない」と主張し続けた形跡はありません(後述)が、ともあれここで林が言うには、この新聞にはこうあるとのこと。
P203:「果たして原子爆弾か 矢崎理博に聞く 覇望深む米の研究」
広島の投下弾には若干の疑問(抜粋)「原子爆弾の早急の完成国こそ世界の支配者たる」ことが考えられたのである、各国ともこのことを銘記して研究を続けたのだった。
広島へ落としたものが果たしてこれであろうか、私にはしっかりした根拠や材料がないのが遺憾だが、我々が考えていた所謂原子爆弾とは違うと思っている。
ただ、爆薬自身が短時間の中に分散し非常な熱効果を現した点を見ると容易ならぬ機構のものだとはうなづける。その威力はひどいものだが、やはり爆薬には違いなく、夢に描いたものを多くの化学者、工学者などが寄り集まって作り出したもののような気がする。
その効果だけみると原子爆弾が実現したごとくだが厳密な意味ではいいえない疑似爆弾とよべばよべるか知れぬ。新しい威力ある爆弾が出るたびに原子爆弾の語が今までも使われてきたが、こんどもその伝のような気がしてならない、というのは広島の場合爆発力より爆破効果の方が強かったように思われる。
燃焼力が強い点は原子爆弾によく似ている、しかし結局原子爆弾でないにせよ効果が非常によく似ていれば目的は達せられる訳だからもちろん軽視はできない。
矢崎理博は、記者に「もう完成されたというのは何だか早過ぎるような感じです」と話したという。
原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(17)〜『あの日のB29の目撃証言』のつっこみどころ(1)に書いたことですが、もう一度タイムテーブルをおさらいすると、
| 時刻(日本時間) | 出来事 |
|---|---|
| 8月6日 08:15頃 | 広島に原爆投下 |
| 8月6日の日中~夜 | 日本側で被害情報を収集 |
| 8月7日 01:00頃 | トルーマン声明がワシントンで公表 |
| 8月7日 朝 | 日本の新聞朝刊 |
| 8月7日 15:30 | 大本営が「新型爆弾」について発表(新型爆弾のようだが詳細は調査中) |
| 8月8日 朝 | 日本の新聞が大本営発表を報道 |
そして、この読売報知は8/13ですから、敗戦前です。つまり、大本営からの情報、あるいは許可することしか報道できません。そうですよね?しかし、原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(15)〜廣島爆撃調査報告のウソに書いたように、8/10の時点で大本営調査団は、「原爆である」と判断していました。つまり、こうです。
- 軍・政府側では「原子爆弾」と判断する情報が存在する
- 新聞社にも「原子爆弾」という情報が入った
- しかし矢崎は「我々が考えていた原子爆弾とは違う」と異論を述べる
ただし、矢崎がこの8/13までにどのような情報を得ていたかはわかりません。矢崎が8月6日以降、広島現地の詳細な一次情報を一切得ていなかったのであれば、8月13日の発言は「被害状況を直接検証した結果の否定」ではなく、当時入手できた情報に基づく専門家としての推測だった可能性が高いですね。
ともあれ、これは広島投下一週間後の新聞ですよ。そこんとこを加味した方が良いでしょう。
矢崎為一とはどんな人物か?
ここはAIにまとめてもらいました。
① 1930年代末~1940年:原子核・核分裂の研究
矢崎は仁科芳雄の研究室に所属し、原子核物理を研究していました。特に重要なのがウランの核分裂です。1939年にハーンらが核分裂を発見すると、仁科研究室でも研究が進み、仁科・矢崎らは高速中性子によるウランの対称核分裂を研究しました。仁科記念財団も、矢崎が渡米してこの研究成果を米国で発表したことを記録しています。② 1940年:米国で原子爆弾研究の可能性を認識
矢崎は1940年9~11月に米国へ派遣されています。帰国後、原子物理学の状況について報告し、米国では核分裂発見後にウラン輸出を制限していることから、米国がウランを利用した軍事研究を進めている可能性を日本側に伝えています。これが日本側で原爆の可能性を検討する一つの契機になりました。つまり、矢崎は単に「原爆というものを戦後になって知った人」ではなく、1940年の段階で核分裂の軍事利用についてかなり早く認識していた人物です。③ 1941~43年:陸軍の原爆研究に関与
1941年、陸軍航空技術研究所が理研にウラン爆弾の可能性について研究を委託します。そして仁科研究室で研究が進められ、1943年3月31日には、「核分裂によるエネルギーの利用」という報告書を仁科芳雄と矢崎為一の連名で陸軍航空技術研究所に提出しています。これは非常に重要な一次資料です。みすず書房の『仁科芳雄往復書簡集 補巻』にも、この文書が1943年3月31日付として収録されています。この研究では、ウラン235の濃縮、連鎖反応、エネルギー利用、爆弾としての利用可能性などが検討されています。研究史上、これが日本陸軍のいわゆる「ニ号研究」につながる重要な文書とされています。さらに1943年には、仁科・矢崎らが陸軍航空技術研究所に対して、原爆開発に関する理論計算とウラン分離について報告したことも記録されています。
要するに、矢崎は当時の日本の原子物理学・原爆開発のトップだったと考えられますね。ですから、自分の感覚から「もう完成されたというのは何だか早過ぎるような感じです」と漏らしたのはうなづけるところです。まったくの素人であれば、こんな感想は持ちませんから。
矢崎はその後も「原子爆弾ではない」と考えていたのか?
では、矢崎はその後も「原子爆弾ではない」などと主張していたのでしょうか?林の言う「勇気の人都築正男」と同じく、矢崎もまたその信念を曲げなかったのでしょうか?(もちろん皮肉です)
しかし、残念ながら、私の調査の結果では、矢崎はその死去まで同じ主張「原爆ではない」を公に継続した記録がどうしても見つからないのです。別の学者との書簡のようなものしかありませんし、それらはオンラインでは閲覧できませんでした。図書館で調べるしかないでしょうが、そこにはおそらく何もないでしょう。
しかし仮に、仮にですよ、矢崎がその後も「原爆ではない」と確信していたとしましょう。であれば、それを公に表明していたはずで、確実に検索に引っかかってくるでしょう。しかし何も見つからないのです。であれば、林の言う「勇気の人矢崎為一」は成立しません。彼は、8/13に疑問を表明したものの、その後は周りに忖度して引っ込めたということになるのです。「勇気の人」じゃないですよねえ。
この章の他の部分
この章の他の部分は、大して読む価値はありません。
1945/8/10日本政府抗議文
米機の新型爆弾攻撃に対する日本政府の抗議文(1945年8月10日)
をだらだらと2ページ強にわたり転載し、「P202:これにより原爆はそれだけで単独カテゴリーとみなされるようになった。多くの人々が原爆こそ特別な平気と見做すようになった」と言ってるだけです。
ということは、林の論理では、日本政府が米側の「偽装原爆」に協力しているということになるのですが、林はそこをなぜか深堀りしません。どういうわけか及び腰であることがまるわかりです。
1945/8/13読売報知の一面
矢崎の論説は二面でしたが、一面は「プロパガンダ」としています。
「全人類の敵、原子爆弾」「原子爆弾、天文学的な爆発力 人類の滅亡招く暴君」
原子破壊のエネルギーを利用
という見出しだそうです。
1945/8/14発布「大東亜戦争集結の詔書」
あとはこれです。原文はここに。
P207:「大東亜戦争終結の詔書」は、1945年8月14日発布、15日に玉音放送によって国民に内容が伝えられた。
「敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。遂に我が民族の滅亡を招来するのみならずひいて人類の文明をも破却すべし。かくの如くは朕何をもってか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや」
原爆の神格化が図られた。
現代語訳:敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。
ということは、林によれば「天皇も原爆あり説」に加担したということなんですかね?しかし、これについてはも何も論じていないようですが。。。
通謀の方がよっぽど重大だろ
わずかに『第19章 近衛文麿の野望と戦後体制を引き継いた敗戦利得者達』で、「近衛は、当然のことながら、終戦交渉で日本川が請け負った原爆偽装をも統括する立場であったろう」程度しか記述がありません。あとは『第29章 偽装を守り抜く偽医学・偽科学』ですが、これは戦後のことです。
いやいや、私としては、終戦前に日本政府・軍部・天皇がいかに米側に協力したかを知りたいのですが、それについては一切記述がないのです。
この記事シリーズでさんざん指摘してきましたが、一発の原爆投下ではなく、(パルマーも認めるような)220機のB29による大規模爆撃であれば、確実に日本側の協力が必要です。しかも、上から下まで、民間人の目撃者もです。これが論理的帰結というものです。
であれば、それには日本側の全面協力が必要だったのです。
林は本書ではなく、YouTube動画中で「ポツダム宣言(1945/7/26)の受諾条件として協力させられたのだ」といったことを匂わせていますが、それについても一切の説明・証明はありません。
https://www.youtube.com/watch?v=gilWtAn7JXEの53:00のQ&Aです。
Q:日米の通謀であったということでよろしいのでしょうか?
A:それはおそらく、ポツダム宣言受諾交渉の条件になってたと思います。それで受けてたと。受けざるをえなかったと。
Q:密約して?
A:そうそうそう。それで全面協力を条件に。。昭和天皇の地位保全だと思いますが(以下略)
そもそも、これを説明・証明できない限りは林説は無価値では?


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