原爆なかった論の戯言:パルマー・林は「影」に泣く

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「影」の否定の必要性

パルマー・林による「原爆はなかった、大規模爆撃だ」論が成立するには、普通に考えてかなり大きなハードルがあります。なにせ「上から下まで原爆があると洗脳済み」ですからね。

しかし、彼らはこのハードルをまるで乗り越えられておらず、些末な点をとらえてごまかしているだけです。そんなんでも信じ込んでしまう人たちが大勢いるのは驚き以外の何物でもありませんが、ともあれ、それらの問題の中の一つが「影」です。

広島・長崎のそれぞれで、強烈な閃光によって、壁などに人や物の影が残りました。これは、通常の爆薬ではありえないほどの光を放つ特別な一発の存在を示しています。

ですから、彼らは、あの手この手でこの「影」を否定しなければなりませんが、その手法、あるいは言い訳としては、

後になって米軍が描いたんだ

という極めて情けないものしかないのです。この点を、原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(24)〜「偽装工作」主張の不自然さで論じましたが、その程度です。

そして、先の記事で私が新たに発見した事実としては、セヴァスキーの広島訪問が9月上旬ではなく、10月24〜25日だったことです。これでは彼らの論理の前提が崩れてしまいます。まぁ、もともとセヴァスキーは萬代橋のことを記述していないので、前提などになってはいないのですが、彼らはそんなものも無理やり前提にしているのです

林千勝は大墓穴を掘った

原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(26)〜意味不明な長崎原爆論で見たように、林が引用している新川信一の証言自体に、まさに炸裂直後、ほんの3,4時間後に影が形成されていることの目撃証言がありました。当然ですが、米軍がやってきて影を描くわけにはいきませんし、誰かがいたずらをするような状況でもありません。

新川の証言からわかることはこうです。推測ですが、間違っていないでしょう。

  • 橋の欄干や監視所があり、後者ではメガホンを持った人がいた
  • 最初の閃光でそれらの影が地面などに焼き付いた
  • 次の爆風で、欄干や監視所、もちろんメガホンを持った人も吹き飛ばされた
  • だから、残っていたのは地面の影だけだった

パルマー・林が否定すべき「影」はこれだけではない

極めて当然ですが、この「影」はやたらとあちこちにあったはずです。そして、米軍や科学者たちは、これらの影の向きや長さによって、爆発中心の位置を求めたのです。ただし、新川証言のように「影のもとになったもの」が消えてしまっていては無意味なので、「残っているもの」ですね。

「萬代橋の影は後から米軍が描いたんだ!」程度の主張では何の意味もありません。

広島の爆心地・高度計算

以前に原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(24)〜「偽装工作」主張の不自然さでも示しましたが、『原子爆弾の炸裂点(日本語訳付き)』という資料があります。

ややこしそうな資料なので、AIに「広島の爆心地計算に使われた影の場所を示せ」として描いたのが次です(オレンジ色)。

林もよく引用している『広島原爆戦災誌 第1巻』にもこれに関する記述があります。36ページからです。

爆源と爆央

原子爆弾は、その投下から炸裂までに四三秒間(アメリカ軍の記録)を要したが、原子爆弾が炸裂した空中の位置を「爆源」といい、爆源直下の地点を「爆央」という。爆源と爆央の決定は、理化学研究所木村一治・田島英三、及び東京帝国大学地震研究所金井清、東京帝国大学工学部真島正市、広島管区気象台菅原芳生・北勲・山根正演・中根清之・西川宗隆らの、被爆直後から九月下旬に亘る調査(第三図参照)によって行なわれた

即ち、現在の商工会議所(相生橋東詰)の北側辺り(当時・護国神社の所在地)前の電車通りの南方約一二五メートル、島外科病院(細工町十九番地)の玄関から東南方約二五メートルの地点が爆央(爆心地)とされている。

しかし、一説では、写真家佐々木雄一郎その他の撮影した被爆現場の写真により、爆央付近の電柱・鉄塔の倒れた方角、屋根瓦の落下堆積状態、電車の軌道からのはずれ方、あるいは熱線による石の焦げようなどから、爆央は島外科病院の裏庭付近から「東北方」の地点とすべきではないかという見解もある。この場合、前記の調査団の決定基準となった元安橋の左右に別れた欄干の倒れ方などについて、なお研究の余地があると思われる。

爆源の高さ

爆源の高さは、『原子爆弾災害調査報告集』第一分冊には、「ひさしの影がその後の壁にできている場合や、煙突の梯子の踏み棒が煙突の側面の影を作った資料が得られると、輻射線の仰角を知ることができるので、これと爆央距離とから爆源の高さが分る(木村一治・田島英三調査報告)」としている。

爆央に近い場所では良い資料が得られず、また仰角が九〇度近くなると角測定における誤差が大きく影響してくるので、遠距離から得た値を用いて、爆央の上空五七七メートル(±二〇メートル)の空中で炸裂したと、調査結果が報告されている(第三図参照)。

なお爆源の高さは、調査団の来広以前に、宇品の高射砲隊が、約五五〇メートルであると調査していた。 

この後に、「影」の場所を示しているのですが、省略します。ここで注目すべきは、「爆源と爆央の決定は、…らの、被爆直後から九月下旬に亘る調査(第三図参照)によって行なわれた。」と書いてあることです。

おかしいですね。以前に書きましたが、林によれば、「米兵が萬代橋に影を書き込んだ」のは、10/22頃のはずです。しかし、ここでは被爆直後から9月下旬には「既に複数個所に影が残っていた」と言っているのです。

以前に紹介しましたが、広島に残された影としては、広島;原爆による閃光熱傷と焼き付いた影にあります。

長崎の爆心地・高度計算

長崎の場合はこうです。

長崎に関してはこういう証言があります

司令部の立て掛けてあった梯子の桟の影が、そのまま倉庫の壁に残っており、影でないところは全面に焦げているところからみると、線状の熱線とのみも考えられませんでした。この影絵は後で三角法により爆心地を決める助けとなったようです。 

この影は、写真にも撮られていますね。場所としては、おそらく、以前に紹介した新川信一の着水地点よりも爆心地から遠く、4.4km-4.5km程度だそうです。

パルマー・林は一体どうすべきなのか?

両者は、「影」は後から米軍によって描かれたものという立場です。それを躍起になって読者に納得させようとしています。つまり彼らは、もし影があるならば、それは「特別な一発」によるものであることを認めているわけです。閃光弾ではできるはずもないものです。まして複数の閃光弾では不可能です。

しかし、彼らが説明を試みているのは萬代橋のみです。広島の多数の影、長崎の多数の影については何の説明もできていません。放置されたままです。

もし彼らの言うことが正しいのであれば、次の事実があるはず。次はこれらの事実を掘り出していただきたいと思います。今回は大変残念な結果に終わりました。

  • 米軍あるいは日本側協力者が「爆心」の位置と高さにちょうど合致するようにあちこちに影を描きまくった
  • 日本人の証言者に影を見たと証言するよう買収などをした

 

 

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