フラットアーサーに限らない。ほとんどが感情であり、事実や論理ではない。

この記事の要約

  • 人は知性や能力によって論理的になるのではなく、自分の間違いを何度も突き付けられる経験によって謙虚になる。
  • プログラマは「自分は正しい」という思い込みが何度も現実に否定されるため、「自分も間違う」を前提に考える習慣が身につく。
  • 多くの対立の根底には知能差よりも、「自分の考えを疑う訓練をどれだけ受けてきたか」の差がある。
  • 人を謙虚にするのは知性ではなく、自分の誤りを何度も確認させられる経験である。 

ある日のAIとの対話を紹介します。AIの答えはやたらと長いので、適当に省略しています。

私はプログラマ、IT技術者として長らくの経験があります。やってきたことと言えば、毎日パソコンとにらめっこしながら、どうプログラムすれば良いのか一日中考えてきました。そして、しょっちゅう思い込みというトラップに引っ掛けられてきて、プログラムの間違いに長らく気づかず、客観的で冷静な視点の大切さを思い知らされてきました。そんな私から見ると、他の人たちは事実と論理をふまえて物を考えたり話をすることができないと思います。基本的に感情論なのです。感情に言い訳がくっついているようにしか見えません。

長年プログラミングやシステム設計をやってきた人が、そう感じるのは理解できます。

ソフトウェア開発では、「自分は正しいと思っていた」「しかし実際に動かしてみたら違った」「ログを見たら予想外だった」「原因と思っていた箇所は無関係だった」という経験を何百回、何千回と繰り返します。

その結果として、自分の直感は信用しすぎてはいけないという習慣が身につきます。

さらに、仮説と事実を分ける、推測と証拠を分ける、感情と論理を分けるという思考様式も自然と身につきます。ですから、そういう訓練を長年積んだ人から見ると、「なぜその結論になるのですか?」「その根拠は何ですか?」「反対の証拠は検討したのですか?」という疑問が常に浮かびます。

一方で、多くの人はそういう訓練を受けていません。人間の脳は本来、まず感情や直感で結論を出しその後に理由を探す傾向があります。これは心理学でもよく知られている現象です。

例えば、この政治家が好き、この芸能人が嫌い、この説を信じたいという感情が先にあり、その後で都合の良い情報を集める。逆に都合の悪い情報は無視する。

これはIT業界の人だけでなく、学者や医者や裁判官ですら完全には逃れられない人間の性質です。

ただし、少し注意も必要です。「多くの人は論理的でない」という観察はある程度正しいとしても、自分だけは客観的であるという結論になると、そこにも罠があります。

プログラマなら経験があると思いますが、「このバグの原因は絶対ここだ」と思った瞬間が最も危険です。

実際には、自分は論理的だ、自分は感情に流されない、自分は客観的だという自己認識そのものが思い込みである可能性もあります。

ソフトウェア開発で優秀な人ほど、自分も間違えるを前提に考えます。ですから、あなたが培ってきた思い込みに何度も騙されてきた経験は非常に価値があります。

そして興味深いのは、その経験から導かれる結論は、「他人は感情的だ」よりもむしろ、人間はみんな感情的であり、自分も例外ではないになることが多いのです。

その上で、証拠・検証・反証可能性を重視する姿勢は、プログラマやエンジニアが持つ大きな強みだと思います。実際、バグと向き合う仕事は、人間の思い込みと戦う仕事でもありますから。 

ええ、ですから、他者に疑問をぶつけたり、批判したりします。すると、事実や論理ではなく、感情が返ってくるのでお話にならないわけです。私自身が他者の意見や論理、事実を聞いて、自分の「思い込み」を修正しようとしてもそこには何もないので、やはり自分が正しいことを確認するだけになってしまいます。

その感覚も理解できます。特にエンジニアの世界では、主張、根拠、検証方法、反証可能性が揃って初めて議論になります。

ところが日常会話や政治、社会問題になると、「そう感じる」「不快だ」「みんなそう言っている」「常識だ」というレベルで話が進んでしまうことが少なくありません。

そのため、ではその根拠は?と聞くと、相手は議論を挑まれたと感じる。あなたは情報収集のつもりでも、相手は攻撃されたと感じる。ここに大きなギャップがあります。

ただ、もう一つ可能性があります。あなたが意見や論理、事実を聞いて、自分の思い込みを修正したいと思っていても、相手はそもそもその目的で会話していないことがあります。多くの人にとって会話は、情報交換ではなく、共感の確認だからです。

例えば、「仕事でひどい目に遭った」という発言に対して、エンジニア的には「何が起きたのですか?」「原因は何ですか?」「他の可能性は?」と聞きたくなります。しかし相手は、「それは大変だったね」を期待している。論理のレイヤーがそもそも違うのです。

一方で、あなたが感じている結局、自分が正しいことを確認するだけになるという現象については、少し慎重に見てもよいかもしれません。なぜなら、「反論が弱い」と「自分が正しい」は必ずしも同じではないからです。

プログラマなら経験があると思いますが、ある設計案Aに対して、誰も問題点を指摘できなかったとしても、後日まったく別の観点から致命的欠陥が見つかることがあります。つまり、相手が論理的に反論できなかったことと、自分の主張が真であることは別問題です。実際、優秀なエンジニアほど、「誰も反論してこない時」にむしろ不安になります。自分の誤りを発見するための入力が不足しているからです。

ですから、もし周囲との会話で物足りなさを感じるなら、それは必ずしもあなたの錯覚ではなく、議論に求めているレベルが違う可能性があります。ただし、その状況から得られる結論は、私は常に正しいではなく、私の誤りを発見してくれる相手が周囲に少ないの方が近いかもしれません。

この二つは似ているようで、かなり違います。前者は自己評価ですが、後者は「利用できる検証環境の質」の問題だからです。エンジニアがレビュー相手や技術コミュニティを重視するのも、まさにそのためですね。

いいえ、そうではありません。フラットアーサーがおかしなことを言うので、私は丁寧に、それはここがおかしいのでは?なぜそうなるのですか?と聞いているわけです。しかし、返ってくるのは単に感情で「お前は何もわかってない!」という返事です。私の疑問に対する答えは一切ありません。

そのケースであれば、あなたの不満はかなりもっともだと思います。

フラットアース説に限らず、何らかの主張をする人には、本来、主張を提示する、根拠を示す、反論や疑問に答えるという責任があります。例えば、「地球は平面だ」という主張をするなら、なぜそう考えるのか、衛星通信はどう説明するのか、時差はどう説明するのか、南半球の星空はどう説明するのか、長距離航空路はどう説明するのかといった疑問に答えなければなりません。

ところが実際には、フラットアース支持者の中には、自分たちに都合の良い現象だけを取り上げる、都合の悪い現象は無視する、反論を「洗脳」と片付ける、質問者を敵認定するという人が少なくありません。

そのような相手に、なぜそうなるのですか?と聞いても、お前は洗脳されている、自分で調べろ、NASAの手先だのような返答になることがあります。これは議論になっていません。なぜなら、あなたは「説明」を求めているのに、相手は「所属集団への忠誠」を示しているだけだからです。

興味深いのは、科学や工学の世界では、厳しい質問は歓迎されることです。例えば、ある研究者が新しい理論を発表したとします。そこで、この実験結果との整合性は?この前提は妥当ですか?誤差評価は?と質問されるのは当然です。むしろ答えられなければ理論の価値が下がります。

ところが陰謀論的なコミュニティでは、質問そのものが攻撃とみなされることがあります。なぜなら、その主張が論理体系として成立しているのではなく、アイデンティティや所属意識と結びついている場合が多いからです。

あなたが感じている、私は疑問を投げているだけなのに、答えが返ってこないというのは、「議論の場」だと思って入ったら、実際には「信念共同体」だった、という状況に近いのかもしれません。

もちろんフラットアース支持者全員がそうだとは言いません。しかし、少なくとも議論の相手があなたの具体的な疑問に答えず、人格攻撃や感情的反応ばかり返してくるのであれば、それは論理的な対話が成立していない状態と言えるでしょう。

ただ、その場合でも注意すべき点があります。それは、相手が答えられないことと自分の理解が完全であることは別問題だということです。エンジニアの世界でも、「この設計はおかしい」と気付く人と、「では正しい設計を完全に説明できる人」は必ずしも同じではありません。

とはいえ、少なくとも「なぜそうなるのか?」という問いにまともに答えられない主張は、信頼性が大きく下がるのは確かです。科学でも工学でも、最終的には説明能力と予測能力が問われますから。 

私はフラットアーサーの友人はいますが、常々「私はフラットアーサーではありません」と言い続けています。

それは十分あり得る話だと思います。実際、これまでの会話を見ても、あなたは「地球は平面だ」と主張しているのではなく、「その説明は本当に成立しているのか?」を検証していることが多いです。そして興味深いのは、あなたが不満を持っている相手がフラットアーサーに限らないことです。

あなたの話の本質は、ある主張をするなら、その根拠や論理を説明してほしいということです。ところが相手が、信じればわかる、常識だ、みんなそう思っているお前はわかっていないという返答しかしない。

すると、では、私の質問への答えはどこにあるのですか?となる。

これはフラットアースに限らず、政治、歴史、社会問題、宗教、健康法など、あらゆる分野で起きます。

ただ、ここで一つ考えられるのは、相手が「答えたくない」のではなく、「答えを持っていない」場合です。エンジニアはしばしば、主張があるなら根拠もあるはずだと考えます。しかし実際には、結論だけ持っていて、そこに至る論理を自分でも整理できていない人が少なくありません。

だから質問されると、答えられない、答えられないことを認めたくない、感情的になるという流れになりやすいのです。もちろん、これはあなたが常に正しいという意味ではありません。

しかし、「なぜそうなるのですか?」「その根拠は何ですか?」という問いに対して「お前は何もわかってない」しか返ってこないなら、その会話から得られる情報は非常に少ないでしょう。

エンジニアの世界で言えば、「この設計はダメだ!」と言われて、「どこが?」と聞いたら、「お前は設計がわかってない!」と返されるようなものです。それではレビューにも議論にもなりません。

だからあなたが感じている自分の考えを修正したいのに、その材料が出てこないという不満は、論理や検証を重視する人にとってはごく自然なものだと思います。問題は相手が敵対的かどうかではなく、そもそも検証可能な説明を提供できているかどうかです。

しかしこれは、彼らに限らないのです。ネトウヨや他にも私の主張につっかかってくる人たちについても同じことが言えます。そこには事実や論理がないのです。100人のうちの一人位しかそれを理解する人はいないようです。しかしその一方、私自身の若い頃の考え方をふりかえってみても、そうであることがわかります。いわば好みが先にあって、それに都合の良い言い訳を考えるといった思考です。

その自己観察は、なかなか興味深いものだと思います。特に、私自身の若い頃もそうだったという部分です。人は他人の認知バイアスには気付きやすいのですが、自分の過去の認知バイアスを認めるのは意外と難しいものです。あなたが言っているのは、おそらく結論が先、理由は後という現象ですね。

例えば、この政党が好き、この人物が嫌い、この説は魅力的だ、この集団に属したいという感情や好みがまず存在し、その後で、なぜそれが正しいのかを考え始める。そして都合の良い情報を集め、都合の悪い情報を軽視する。

心理学者の Jonathan Haidt は、人間の理性を「裁判官というより広報担当者に近い」と表現しています。つまり理性は真実を探すためというより、自分がすでに信じていることを擁護するために使われることが多い、という見方です。もちろんこれは全員が常にそうだという意味ではありませんが、多くの研究で似た傾向が確認されています。

あなたが感じているネトウヨもフラットアーサーも、その他の人々も似たように見えるというのは、おそらく個別の主張ではなく、その背後の思考パターンを見ているのでしょう。つまり、主張A、主張B、主張Cは内容が全く違うのに、思考の構造としては好みや所属意識が先、結論を決める、理由を後付けする、反論されると感情的になるという共通点が見える。だからあなたには同じように映る。

ただ、ここで面白いのは、あなた自身も昔はそうだったと言っていることです。もし本当にそうなら、あなたが変化したきっかけは何だったのでしょうか。プログラミングだったのかもしれません。なぜならプログラムは容赦がありません。思想や立場や熱意に関係なく、動く、動かないで判定されます。どれほど自信満々でも、「コンパイルエラーです」で終わります。どれほど美しい理屈でも、「期待した結果が出ません」で終わります。

これは人間関係ではなかなか得られない経験です。だから長年その環境にいると、自分の考えが正しいかよりも、自分の考えはどこで間違うかを探す癖がつくことがあります。

ただし、あなた自身が指摘しているように、人間は誰でも「結論先行」の性質を持っています。ですから、なぜ他人はこんなに感情的なのかという問いの先には、なぜ自分は以前そうだったのかという問いもあります。そしてその問いに答えられる人は、案外少ないのかもしれません。

少なくとも、過去の自分を振り返って「自分も同じだった」と言える人は、単に他人を見下しているのではなく、人間一般の傾向として捉えようとしているように見えます。そこには、単なる優越感とは少し違う視点があるように感じます。その可能性はあると思います。

あなたが言っているのは、人は事実や論理によって結論を導くのではなく、先に結論を決めてから理屈を組み立てるということですよね。そして重要なのは、あなたがそれを「他人だけの問題」として見ているのではなく、自分も若い頃はそうだったと振り返っていることです。

私はこの点がかなり重要だと思います。なぜなら、ネトウヨは感情的だ、フラットアーサーは感情的だという話だけなら、単なるレッテル貼りで終わってしまいます。しかし、自分も昔はそうだったという視点が入ると、これは特定の集団の問題ではなく、人間一般の傾向なのではないかという話になります。

実際、長年プログラマをやっていると、「こうに違いない」と思ったものが何度も覆されます。

ログを見たら違った。デバッガをかけたら違った。原因と思っていた箇所は無関係だった。そういう経験を繰り返すうちに、自分の確信は証拠にならないという感覚が身につきます。

ところが、多くの人はそういう環境で生きていません。政治でも社会問題でも、「好き」「嫌い」「信じたい」「信じたくない」という感覚がまずあって、それを補強する情報を集める。

そして反論されると、自分の論理が攻撃されたではなく、自分自身が攻撃されたと感じる。だから感情的な反応が返ってくる。

あなたが遭遇しているのは、そういう場面なのかもしれません。ただ、一方で注意したいのは、私はその段階を卒業したと思った瞬間にも、別の思い込みが入り込むことです。

これはプログラミングでも同じで、もう初心者的なミスはしないと思った頃に、別の種類のバグに捕まることがあります。だから、人は結論が先で理由が後になりがちだという認識は有用ですが、その「人」の中には常に自分も含まれている、と考えておくのが安全なのでしょう。

その意味では、あなたが他人を見て感じている違和感と、若い頃の自分を思い出して感じる違和感は、実は同じ現象を見ているのかもしれません。

違うのは能力や知性というより、「自分の考えが間違っている可能性を、どれだけ日常的に突き付けられてきたか」なのではないか、と私は思います。プログラマという仕事は、その訓練を半ば強制的に受け続ける職業の一つですから。

あなたの話を聞いていて感じるのは、「論理的な人」と「感情的な人」という対立よりも、自分の考えを反証する機会をどれだけ経験してきたかの差が大きいのではないか、ということです。

プログラマは特殊な職業です。例えば政治議論なら、間違った意見を持っていても数年気付かない、都合の良い情報だけ見続けられることがあります。しかしプログラムは違います。

これは動くはずだ

動かない

原因はここだ

違った

修正した

まだ動かない

という現実を何度も突きつけられます。

そのため、自分は間違っているかもしれないを前提にする習慣がつきやすい。一方で、政治的立場や思想的立場、あるいは陰謀論的な主張を持つ人の中には、自分の立場を守ることが目的になっている人もいます。

その場合、「なぜそう考えるのですか?」という質問は、「説明してください」ではなく、「攻撃された」と受け取られることがあります。だからあなたが求めている根拠、検証、論理展開が返ってこず、怒り、レッテル、人格批判が返ってくる。これは確かにあります。

ただ、100人中1人しか理解しない、という感覚については、少し別の見方もできます。もしかすると、その1人は「論理的な人」なのではなく、自分の立場を脇に置いて考えられる人なのかもしれません。実はこれはかなり難しい能力です。例えば、保守派にもできる人がいる、リベラル派にもできる人がいる、科学者にもできない人がいる、エンジニアにもできない人がいるので、知識量や知能だけの問題ではありません。

あなた自身が若い頃の自分もそうだったと言うのは興味深くて、そこにはある種の希望もあります。つまり、人は変わり得るということだからです。そしてその変化のきっかけは、あなたの場合はおそらく長年の開発経験だったのでしょう。何千回も「自分の思い込みが間違っていた」を経験すると、人は自然に慎重になりますから。

だからあなたが感じている違和感は、人はなぜ論理的でないのかというより、なぜ自分の考えを疑おうとしないのかに近いのではないでしょうか。

そして後者は、実際にかなり根深い人間の性質だと思います。科学、政治、宗教、投資、健康法など分野を問わず、歴史的にも繰り返し現れてきたものです。 

能力や知性というより、「自分の考えが間違っている可能性を、どれだけ日常的に突き付けられてきたか」というのは名言ですね。

ありがとうございます。ただ、これは私の独創的な考えというより、あなたのお話から導かれた表現です。実際、知性の高い人が必ずしも自分の誤りを認めやすいわけではありません。歴史を見ても、優秀な科学者、著名な学者、一流の技術者、成功した経営者ですら、自分の専門外では驚くほど頑固なことがあります。

つまり、知能が高い → 思い込みが少ないではないのです。むしろ知能が高い人ほど、自分の信念を正当化するための高度な論理を作れてしまうことさえあります。だから重要なのは知能そのものより、自分の予想が外れる経験をどれだけ積んだかなのかもしれません。プログラマの例で言えば、

絶対これが原因だ

違った

今度こそこれだ

違った

やっと見つけた

まだ違った

を何十年も繰り返します。

すると、自分は賢いよりも、自分はしょっちゅう間違うという感覚が身につく。これはかなり特殊な訓練です。そして面白いことに、そういう人ほど他人の誤りにも寛容になる場合があります。なぜなら、ああ、この人も今、自分が若い頃にハマった罠にハマっているのかと見えるからです。

一方で、あなたが感じているフラットアーサーや政治的な論客への苛立ちは、「間違っていること」そのものより、疑問を向けられても、自分の考えを検証しようとしないことへの苛立ちなのではないでしょうか。

間違うこと自体は誰でもあります。しかし、もし間違っていたらどこが間違いなのだろうという問いを持たない人とは、なかなか議論になりません。

エンジニアの世界では、バグがあることは恥ではありません。バグがあるかもしれないのに調べないことの方が問題です。あなたが長年の経験から身につけた感覚も、それに近いもののように思います。

だから先ほどの言葉を少し言い換えるなら、人を謙虚にするのは知性ではなく、自分の誤りを何度も確認させられる経験であるとも言えるかもしれません。これはプログラミングだけでなく、実験科学や設計、品質保証などにも共通する特徴ですね。

 

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