原爆なかった論の戯言:林千勝の大嘘(24)〜「偽装工作」主張の不自然さ

原爆なかった論の戯言シリーズはこちら

この記事の三行要約

  • 林千勝の「萬代橋の影=米軍による偽装工作」という主張を、証言・セヴァスキーの日程・リーボウの日記などから検証する。
  • 特にセヴァスキーは「9月上旬」ではなく、旅行日記によれば10月24日に広島を訪問しており、林・パルマーの時系列の前提は崩れる。
  • 結論として、萬代橋の影を根拠にした「偽装工作」説は成立せず、林・パルマーは時系列や資料を利用して印象操作している。 

林千勝著、経営科学出版の書籍『広島・長崎 悲劇の正体』の、『第26章 米軍などによる現地偽装工作』についてです。

ここで林は、「『原爆』神話づくりのための偽装工作!?」として、いくつかの些末な話題を取り上げているのです。もし林の言うとおり、これらが「偽装工作」なのであれば、私としては、「工作した側」がなぜそんなことをしなくてはならなかったのか、まったく理解に苦しむところです。数十万人の目前で強力な爆弾が投下され、ほぼ一瞬で多くの人が死んだ以上の証拠はないはずなのに、あとからなぜこんな「偽装工作」を?まったく意味不明です。

つまりは、これもまた林による印象操作にすぎないのです。

※パルマーの言としているものは、『Michael Palmer / Hiroshima Revisited(偽装された原爆投下 広島・長崎原爆の物理学的・医学的エビデンスへの再検討)』原著からの引用です。

住友銀行の「人影の石」

まずは、P203です。広島平和記念資料館に写真もある「人影の石」です。林によればこうです。

  • 「爆心」直下から260メートルの住友銀行広島支店の入口の石段の表面に黒い影が焼き付いている。
  • そこに座っていた人の影とされている。
  • 8/9の中島さんの証言によれば、「遺体は柱にもたれかかっていた。男女の区別もつきませんでした」
  • 彼と兵隊は遺体を抱えて銀行の建物に運んだが、このとき「人影」を認めていない
  • 11/20、米兵が「人影」を見つけて写真撮影
  • 中国新聞社が「人影」を写真撮影したのは、翌年1946年末。佐々木雄一郎は194年に撮影
  • つまり、第一発見者は米軍である。林「偽装工作の臭いがぷんぷんする」

再度ですが、なんでこんな「偽装工作」をやる必要があるのか、さっぱりわかりません。ちなみに、林がこの本でよく引用していて「ほらみろ!こういう証言がある」としている『広島原爆戦災誌』にはこんな記述があります。

『広島原爆戦災誌 第5巻』PDF37〜179ページの証言。

一、八月十四日

気合充実せる日、朝点呼終りて、本日の作業が伝えられる。われわれは昨日に引続きパイプ修理だ。空は文字通りの日本晴、水道関係の仕事をしていたという四十位の臨時召集兵が派遣されて来た。真夏の太陽の直射を浴びたがら道沿いに、或いは焦土の中にはいりこみ、水洩れ箇所の目につき次第コルクを打込む。新聞の記事には今後七〇年間は、草木も生えず砂漠のような不毛の地になる。と、解説してあったが、どうやらこの予想は覆がえされたようだ。そこここの皮を焼かれた樹木の幹に、目にしみるような青い芽がのびていて、自然の遅しい生命力を感じさせる。やがてある建物(最初芸備と思いこんでいたが後日住友銀行と知った。)の入口附近の壁に、人の影が黒く鮮やかにうつっているのが目についた。何故だろう?石段をのぼり近づいて見る。トビラのあくのを待って、壁にもたれて坐っていた人が、原子爆弾の強烈な熱線をまともに浴びて出来たものだろう。死体の代りに影が残る。こんな不思議なことがあろうか。じっと見つめていると、今にも壁のうしろから本人が現れてきそうな気さえする。それにしても底知れぬ威力の下に、一瞬にして広島を死の街と化さしめ、しかも、これだけ鮮明な影が残る程の強烈な熱をもたらした原子爆弾は、一体どんな性質を持っているのだろうか?向うには、丸い形をした屋根が、無残にも焼け爛れて赤くなった鉄骨を白日の下に晒している。召集兵から産業奨励館だったと聞く。昼食後、今日から実施されることになった衛兵勤務の第一回目に勤務することになった。道路をはさんで両側に立哨する。支局の玄関に立つと、道路の向う側の立ち残った門柱に「広島文理科大学」の文字がくすんで見える。局の職員もボツボツ復職しはじめたようだ。勤務を終り、屋上にあがって見ると、焦上と化した市街が一望のうちに眺められる。広漠たる焦土に打ち重なる瓦礫の山が、果していつになったら取り除かれるであろうか。 

つまり、8/9に中島と兵隊が遺体を収容した5日後ということになります。ここでは石段ではなく、壁になっていますが、おそらく同じものでしょうね。

また、こういう話もあります

この石段は黒っぽい御影石で出来ていた。原爆の熱戦を浴びて白変したとき、人間がすわっていた部分だけ、黒く人の形に残った。戦後しばらくは、影の部分はコールタールみたいに真っ黒だったらしい。すわっていた人間由来の成分が石に染みついて黒い影のように残った可能性がある。

 奈良文化財研究所の調査によると、「人影の石」は、有機物がついたものであり、人間の皮膚などの生体成分の可能性があるという。貴重な掘り起こしの成果です。

核爆発の恐ろしさを再認識しました。日本は非核三原則を絶対に投げ捨ててはいけません。 

8月6日の「負の記憶」 を読んでみましょう。

他方、峠三吉も詩っていたように「焼き付けられた」という理解はあながち否定できないことが2000年の奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)の調査によって判明した。人影に有機物質が認められたのである。ただし、それが人の皮膚などの生体成分であるかどうかは確定できないというコメントも発表された。 

この「奈良文化財研究所の調査」なるものは2000年頃らしいのですが、発見できません。しかし、この調査の結論としては「生体成分ではない」と伝えているものもあります。

こちらのPDFですの37ページ(印刷ページ34)の注釈です。

2000 年に⾏われた奈良国⽴⽂化財研究所埋蔵⽂化財センターの調査で、「⼈影の⽯」の影の部分は、付着物で⿊くなっていることが判明し、この説も誤りであることがわかった。しかし現在も、焼き付けられた影と説明している場合がある。 

これらを総合すると、私の今のところの考えとしてはこうです。本当のところはわかりませんけどね。

  • この影は投下当日8/6にできたものである。
  • 8/9には、中島と兵隊が遺体を運び入れたが、この時は気づかなかった
  • 8/14には、壁と石段の違いがあるが、同じ住友銀行に「影」があったという証言
  • この影は必ずしも遺体の生体によるものではなく、着物その他によるものである、と思われる。
  • しかしその後、「遺体の影」だという話が独り歩きしてしまった。
  • 11/20に初めて米兵が「人影を見つけた」という話は誤りで、その時に初めて写真を撮っただけ
  • つまり、「偽装工作」説は成立しない(8/14までに米兵が来ることはできない)。
  • しかし、「人影の石」という話で長年やってきたので、今さら「違いました」にはできないというだけの話では?

何にしても、こんな些細な話を持ち出さないと「偽装原爆説」は支えられないようです。

萬代橋上の「影」

P305に掲載された写真(広島平和記念資料館より):

他の写真はこちら。P303にて林はこう言います。

  • 欄干が吹き抜けだったから橋自体は壊れなかったというのが不思議
  • 焼き付いた欄干の影などから、爆発した高度が算出されたとするが影が短すぎる
  • 8/6に萬代橋の上からの証言があるが、影については何も言っていない
  • 8/6の16時の萬代橋の絵があるが、影が書かれていない
  • 9月上旬にセヴァスキーは広島を見て回ったが、影のことを言っていない。
  • しかし、突如10/22に米兵が影をチェックしていた。この動画を見ると、爆心と反対側の欄干の影も橋上に描かれてしまっている。

つまり、林は「偽装工作」のために米軍が橋上に影を描いたと言いたいようです。再度ですが、なんでそんなことをする必要があるのか私にはさっぱり理解できません。

まず、爆心地と萬代橋の位置関係は次です。

証言に「影」がない

林の引用しているのは、『広島原爆戦災誌 第3巻』PDF66ページの証言の一部です。少々長く引用してみましょう。

当時、私は舟入川口町に居住していたから、出勤の途中、市長公舎へ寄ることを常としていたが、六日の朝、出勤の途上、自宅付近で被爆し、倒壊した家屋の下敷きとなって、一時気絶した。頭部その他を負傷し、大破した自宅で横にならざるをえなかった。

一方、市長公舎では、粟屋市長(五一歳)と、三男忍さん、孫女坂間絢子さんの三人が即死されたのであった。

翌七日正午過ぎ、市長の死を知らない私は安否を気づかいながら登庁して、はじめてそれを知り、愕然とした。

森下助役の命によって、大混乱の広島赤十字病院に駆けつけ、数知れぬ負傷者の中からようやく玄関隅のベットの上に、横たわっておられる幸代夫人を見いだした。夫人は歩行不能で身体のいたるところを負傷されており、唇は横に頬まで裂け、正視できない状態であった。声をおかけすると、無言のまま、しっかりと私の手を握って落涙された。一瞬私も涙が溢れ出て、夫人の手にとめどもなく落ちた。

私は助役から口止めされていたので、お知らせすまいと思っていたが、夫人から「主人はだめだったのでしょう。」とたずねられ、わずかにうなずいて、それに答えた。

それから、夫人に頼まれごともあって、公舎の焼跡へ行った。付近一帯焼野原の中で、見覚えのある大きな庭石によって、公舎跡を確認し、あたりを捜した。

ちょうど書斉のあった位置で、上身と下身は白骨となり、五〇センチぐらいの焼け残った胴体を見いだし、市長の遺体であることを確認した。

すぐそばに三男忍さん(一三歳)の屍体があり、また少し離れて小さな白骨があった。これはお孫さん(坂間絢子三歳)のものと思われた。

周囲の余燼はいまだ熱く、やけどをするほどであったが、私は、ただ茫然と立って涙にぬれ、合掌するばかりであった。そのとき、保健課の職員数人が来られたので、一緒にお骨を拾い、それぞれ三つの壷にお収めし、胴体は枢に入れて庁舎に持ち帰った。そして、庁舎裏の空地に運び、火葬にし、遺骨を庁内の仮安置所に安置した。

重傷の夫人は、その朝、家屋の一方のはずれにおられたが、家の下敷きとなり、無我夢中で這い出し、付近の神社の境内まで辛うじて避難された。再び家に引返そうとしたが、すでに家は猛火につつまれていた。万代橋(俗称県庁橋)の上から、茫然と、火災を眺めていたところを、知人の黒川夫人に助けられ、広島赤十字病院に収容されたのであったが、二日目に近親者によって、高須の親類の家に運ばれて看護を受けられた。しかし被爆一か月後の九月七日に他界された。

私にはこの状況で橋上の影の有無を気にする余裕があるとは思えませんが。。。

絵に「影」がない

P306に次の絵を掲載して林が主張しているのは、影が描かれていないというものです。これも広島平和記念資料館からのもので「水を求める土手の無数の人々 肉親を探す舟、倒れた朝鮮人他」という内容だそうです。

「この絵に影が描かれていないのは不自然だ!」と思う方は、そう思えばいいんじゃないでしょうか?

セヴァスキーが広島を訪問したのはいつか?

林はこう書いています。

P306:9月上旬、前出のアレクサンダー・セヴァスキーは広島市内を調査したが、萬代橋上の「影」を認めていない。

これもまた林お得意の印象操作です。これでは、次のうちのいずれかわかりません。

  • セヴァスキーは萬代橋に行ったが、影のことをまったく書いていない。
  • あるいは、「影など見なかった」と書いた。
  • あるいは、そもそも萬代橋には行っていない。

さて、正解はどれでしょうか?

しかし、それ以前の重大な問題として、日付がおかしいのです。たしかにセヴァスキーの著作では「私は2日間広島を見て回った」としているようですが、日付は書いていないようです。私はセヴァスキーの『Air power: key to survival』を確認していませんが、パルマーはこの本からの引用として以下を示しています。

パルマーP4:For two days I examined Hiroshima. I drove to T Bridge, which had been the aiming point for the atomic bomb. In its environs I looked for the bald spot where everything presumably had been vaporized or boiled to dust in the twinkling of an eye. It wasn’t there or anywhere else in the city. I searched for other traces of phenomena that could reasonably be tagged “unusual.” I couldn’t find them.

私は2日間、広島を調べた。原子爆弾の照準点となっていたT字橋(※相生橋)まで車を走らせた。その周辺で、すべてのものが一瞬のうちに蒸発するか、あるいは塵になるまで煮え立ったとされる、あの禿げたような空白地帯を探した。しかし、そんな場所はそこにも、広島のほかのどこにも存在しなかった。私はさらに、「異常」と呼んでよさそうな現象の痕跡を探した。だが、見つけることはできなかった。 

相生橋とはここです。T字なので「T Bridge」と呼ばれたようです。

さらにパルマーはP278にて、「セヴァスキーが9月上旬の訪問時に撮った写真」として、以下を掲載しています。

ところが、この「9月上旬」という時期の出所がわからないのです。セヴァスキーは自著に「いつ広島に行ったのか」を書いていないようなのです。

ところが。。。

セヴァスキーの旅行日記を直接確認した研究者は、10月24日広島、10月26日長崎という全く違う日程を提示しているのです。こちらの36ページを見てください

After his return from the European theater, where he worked as a special consultant for the Secretary of War from April 5 to August 28, 1945, de Seversky left the US on September 26, this time for Japan under occupation.⁹ He arrived in Tokyo on October 13, and stayed in the country for the next month,¹⁰ during which he stayed in Hiroshima and Nagasaki for two days, respectively, inspecting the damages and interviewing survivors.¹¹

In his report to Patterson, de Seversky wrote on Hiroshima as follows:

Most important, concrete buildings, even in the very heart of the bomb explosions remained erect, though most of them were gutted by the spreading fire. …Everywhere, including the immediate area of the explosion, there were… the typical debris of a fire.

In short, there were no visible effects different in nature from those caused by ordinary incendiary bombing and the physical picture presented by the two cities was precisely the same as in Japanese cities destroyed by ordinary bombs.¹²

1945年4月5日から8月28日まで陸軍長官の特別顧問を務めたヨーロッパ戦域から帰国した後、デ・セヴァスキーは9月26日、今度は占領下の日本へ向けてアメリカを出発した。⁹

彼は10月13日に東京に到着し、その後1か月間、日本に滞在した。¹⁰ その間、広島と長崎にはそれぞれ2日間滞在し、被害状況を調査するとともに、生存者への聞き取りを行った。¹¹

パターソンに提出した報告書の中で、デ・セヴァスキーは広島について次のように記している。

最も重要なことは、爆弾が爆発したまさに中心部にあったコンクリート建築物でさえ、直立したまま残っていたことである。ただし、その大部分は延焼した火災によって内部を焼き尽くされていた。……爆発の直近の地域を含め、いたるところに……火災に典型的な残骸が見られた。

要するに、通常の焼夷爆撃によって生じるものと性質の異なる、目に見える効果は存在しなかった。そして、両都市が示していた物理的な状況は、通常の爆弾によって破壊された日本の都市とまったく同じだった。¹²

そして、上の9,10,11の脚注はこうあります。

9 Report of Major Alexander P. de Seversky to the Secretary of War, Sept. 27, 1945, Folder: de Seversky, Maj. Alex P., Box 15, RPP. He was appointed at the request of Patterson. Letter from Patterson to Carl A. Spaatz, April 5, 1945, Box 228, Carl A. Spaatz Papers, LC.

9 アレクサンダー・P・デ・セヴァスキー少佐から陸軍長官への報告書、1945年9月27日。Folder: de Seversky, Maj. Alex P., Box 15, RPP.彼はパターソンの要請によって任命された。パターソンからカール・A・スパーツへの書簡、1945年4月5日、Box 228, Carl A. Spaatz Papers, LC. 

10 Major de Seversky’s Report on Pacific Air Power, Feb. 11, 1946 (Hereafter, “De Seversky’s Report on Pacific Air Power”), p. 1; Alexander P. de Seversky’s preliminary report on the Pacific War to the Secretary of War, Dec. 17, 1945 (Hereafter, “De Seversky’s preliminary report”), p. 1, both in Folder: de Seversky, A. P., Box 22, RPP; also in Reel 3490, War Department/Bureau of Public Relations, Air Force Historical Research Agency, Montgomery, AL (Hereafter, AFHRA)); “De Seversky in Tokyo,” NYT, Oct. 14, 1945, p. 35.

10 デ・セヴァスキー少佐『太平洋航空戦力に関する報告書』1946年2月11日(以下、「デ・セヴァスキーの太平洋航空戦力報告書」)、1ページ;および、アレクサンダー・P・デ・セヴァスキーから陸軍長官への太平洋戦争に関する予備報告書、1945年12月17日(以下、「デ・セヴァスキーの予備報告書」)、1ページ。いずれも Folder: de Seversky, A. P., Box 22, RPP に所蔵。さらに、War Department/Bureau of Public Relations, Air Force Historical Research Agency, Montgomery, AL(以下、AFHRA)の Reel 3490 にも収録されている。また、「De Seversky in Tokyo(東京のデ・セヴァスキー)」、New York Times、1945年10月14日、35ページ。 

11 According to the diary he kept during his trip, de Seversky arrived in Hiroshima on Oct. 24 and in Nagasaki on Oct. 26. Folder 7: Pacific Theater of Operations – Special Consult to the Secretary of War, Box 222, Alexander de Seversky Papers, Cradle of Aviation Museum, Garden City, Long Island, NY.

11 彼が旅行中につけていた日記によれば、デ・セヴァスキーは10月24日に広島に到着し、10月26日に長崎に到着した。Folder 7, Pacific Theater of Operations – Special Consult to the Secretary of War, Box 222, Alexander de Seversky Papers, Cradle of Aviation Museum, Garden City, Long Island, New York. 

これらの脚注にある一次資料は、残念ながらオンラインでは確認できませんでしたが、セヴァスキーの行動はこうなります。

  • 9/26:日本に向けて米国を出発(10/13までどこにいたのか不明)
  • 10/13:東京に到着、その後一ヶ月間日本に滞在したとされる
  • 10/24:広島到着
  • 10/26:長崎到着
  • 11/13頃?:日本を出発

この論文の著者ですが、こういう方なので、もし本当に知りたいのであれば聞くことができるかと思います。

  • 繁沢敦子(しげさわ あつこ)
  • 1967年(昭和42年)生まれ
  • 1992年、神戸市外国語大学卒業
  • 読売新聞記者を経て、1998年に広島市立大学広島平和研究所の情報資料室編集員読売新聞記者を経て、98年広島市立大学広島平和研究所に情報資料室編集員
  • 2000年からフリージャーナリストとして活動2000年から
  • 広島市立大学大学院国際学研究科国際学専攻で博士号(学術博士)取得最終学歴は広島市立大学国際学専攻、博士号(学術博士)
  • 現職:神戸市外国語大学外国語学部英米学科の教授(2024年4月〜)2024年4月から神戸市外国語大学外国語学部英米学科教授、それ以前の2016年4月から2024年3月までは准教授
  • 著作:原爆と検閲 アメリカ人記者たちが見た広島・長崎など

パルマー・林の前提は崩れる

さて、もし繁沢氏の言うことが本当であれば、彼らの主張の前提は完全に崩れてしまいます。先に示したようにこう時系列のはずです。

  • 9月上旬:セヴェスキーが広島を2日間訪問。セヴェスキーは萬代橋の影のことを「言っていない」
  • 10/22:米兵が萬代橋に「工作」

しかし実際には、

  • 10/22:米兵が萬代橋に「工作」
  • 10/24:セヴェスキーが広島に到着。セヴェスキーは萬代橋の影のことを「言っていない」

ということになるからです。おかしいですね、セヴァスキーは10/24,25のあいだ広島にいたわけですから、萬代橋に行ったのであれば見ているはずです。ですから、以下のパルマーの記述は無効です。

パルマーP286:

Alexander P. de Seversky, who examined Hiroshima for two days in early September, found no “traces of unusual phenomena” (see quote in Section 1.1). Another visitor to Hiroshima who arrived around the same time was Marcel Junod, a physician and official of the International Committee of the Red Cross. Junod’s report [153], like de Seversky’s, mentions no unusual signs.

9月初旬に広島を2日間にわたって調査したアレクサンダー・P・デ・セヴァスキー(Alexander P. de Seversky)は、「異常な現象の痕跡(traces of unusual phenomena)」を発見しなかった(1.1節の引用を参照)。ほぼ同じ時期に広島に到着した別の訪問者が、国際赤十字委員会(International Committee of the Red Cross)の医師・職員であったマルセル・ジュノー(Marcel Junod)である。ジュノーの報告書 [153] も、デ・セヴァスキーの報告と同様に、異常な痕跡について何も記していない。

In contrast, Averill Liebow, who arrived in mid-October as a member of the Joint Commission, describes in his diary a multitude of shadows and other special effects; he also includes a number of photographs [77]. Liebow makes a point of showing them to all of his visitors:

これとは対照的に、10月中旬に合同委員会(Joint Commission)の一員として到着したアベリル・リーボウ(Averill Liebow)は、日記の中で、数多くの影やその他の特殊効果について記述している。また、彼は多数の写真も掲載している [77]。リーボウは、訪問者全員にそれらを見せることに特に力を入れていた。

October 31: took Colonel Oughterson and Nagasaki guests on what we have now laid out as the “grand tour.” This includes all of the fascinating evidences of blast and heat damage in the shrine area at the Chugoku Army headquarters, the “Korean Building” with the shadowing on the concrete there, and the remarkable view of the Commercial Museum19 and the area of the hypocenter. All were fascinated by the outlines of men and vehicles on the Bantai Bridge.

10月31日:オウガーソン大佐と長崎からの客人を、私たちが現在「グランド・ツアー」として整えたコースへ案内した。そこには、中国軍管区司令部の神社周辺に見られる、爆風と熱による損傷の興味深い証拠がすべて含まれている。また、コンクリートに影が残っている「朝鮮人建物」、さらに商業博物館¹⁹と爆心地周辺を見渡す素晴らしい眺めも含まれている。皆、萬代橋に残された人間や車両の輪郭に興味を示していた。

When Liebow showed around another visitor (General Morgan) one month later, the shadows were already rapidly fading:

それから1か月後、リーボウが別の訪問者(モーガン将軍)を案内したときには、影はすでに急速に薄れつつあった。

>To our disappointment the shadows on the bridge were now only faintly visible, but they impressed the general.

>我々は失望した。橋の上の影は、もはやかすかに見えるだけになっていた。しかし、それでも将軍には強い印象を与えた。

Taken together, these reports of course suggest that the shadows were created sometime between de Seversky’s visit and Liebow’s arrival, and that they were meant for short-term effect but not to be preserved for posterity.20

これらの報告を総合すると、当然ながら、影はデ・セヴァスキーの訪問からリーボウの到着までの間のどこかの時点で作り出されたこと、そして、それらは後世に保存するためではなく、短期間の効果を狙ったものだったことが示唆される。²⁰ 

そして、林自身もこのような論じ方をしています。

  • 9月上旬、セヴァスキーは橋の「影」を「認めていない」
  • 突如、10/22に米兵が「影」をチェック。動画を見ると、反対側の「影」も描かれてしまっている
  • 10/31米調査団が「グランド・ツアー」。皆が萬代橋の「影」に魅了された。

米兵が影をチェックした理由

林はP307にこんな写真を載せています。

実際の動画はここです。36:42に頭出ししています。

https://youtu.be/jzDJb_JVhxk?t=2202 

どういうわけか、林はなぜ米兵が萬代橋の「影」を調べていたのか、その理由を書いていません。さらに、「爆心と反対側の欄干の『影』も橋上に描かれてしまっている」などと記述しています。おそらく彼はチョークのようなものを使っているものと思われますが、チョークでこんなものが描けると思う方は、そう思ってください。

これも林お得意の印象操作の一つですね。

なぜなら、この件に関してパルマーはきっちりと説明しているからです。当然、林は読んでいるはずなのに無視です。もちろん、パルマーはこの件についても文句をつけています。

パルマーP289:

It is said that the epicenter of the Hiroshima bomb was determined by triangulation from shadows created by the flash. According to Liebow [77], one of the reference points on the ground was in fact the Bantai Bridge, which he places at “approximately 1,000 m from the hypocenter.” On a high-resolution map appended to the official report of the Joint Commission [309], the distance is 920 meters. The still-current DS02 report puts the altitude of the epicenter at 600 m.

広島に投下された原爆の爆心地は、閃光によって生じた影を利用した三角測量によって決定されたと言われている。リーボウ(Liebow)[77]によれば、地上における基準点の一つは、実際には萬代橋(Bantai Bridge)であり、彼はこの橋を「爆心地から約1,000 m」の地点にあるとしている。合同委員会(Joint Commission)の公式報告書 [309] に添付された高解像度の地図では、その距離は920 mとなっている。一方、現在も使用されているDS02報告書では、爆心地の高度を600 mとしている。

Figure 13.3 shows a photograph of the shadows cast by the railing of the Bantai Bridge on its pavement. The height of the individual pillars is approximately equal to the length of their shadows. For comparison, the figure also shows the expected length of the shadows in a simulated scene.23 Here, the shadows appear longer by half than the height of the pillars—as of course they should, given that the ground distance of the epicenter is approximately 1.5 times greater than its altitude. Thus, the observed length of the shadows does not match the location of the epicenter allegedly inferred from them—the epicenter would have had to be at a steeper angle above the bridge in order to produce shadows such as these.

図13.3には、萬代橋の欄干が橋の舗装面に落とした影の写真が示されている。それぞれの柱の高さは、その影の長さとおおむね等しい。比較のため、この図にはシミュレーションによって再現した場合に予想される影の長さも示されている。²³ここでは、影の長さは柱の高さより半分ほど長く見える――これは当然のことである。というのも、爆心地までの地上距離は、その高度のおよそ1.5倍だからである。したがって、実際に観察された影の長さは、そこから推定されたとされる爆心地の位置とは一致しない。このような影を生じさせるためには、爆心地は橋に対してもっと急な角度、つまり橋のより高い位置に存在していなければならなかったはずである。

パルマーが言うことは、実際の欄干の影から計算すると、爆心高さはそんなに低くないはずだ。逆に、爆心が600mという低い位置であれば、シミュレーションのようにもっと影が長くなるはずだというわけです。

これはそのとおりかもしれません。爆心はもっと高かったかも。「だからどうした」という感じですが。。。

実際の計算資料

実際に『原子爆弾の炸裂点(日本語訳付き)』という資料があります。ここに萬代橋が使われています。が、米側がいつ橋の影の長さを測定したかまではわかりませんでした。以下はPDF32(印刷ページ25ページ)の表です。

※この記事の最後に、この計算をAIに吟味させた結果を追加します。

パルマー・林の印象操作手法

パルマー・林はこういう印象操作をしたいわけです。

  • 原爆はなかった
  • いかにも炸裂したかのように、後から欄干の影を書き込んだ

しかし、こんなことしか「原爆なかった」を裏付ける根拠がないとは、あまりに情けない限りです。B29が220機とか、日米の通謀を証明してほしいものです。

※本章の残りの部分は後で取り上げるかもしれません。

追加:爆心高度計算をAIに吟味させた結果

まずAIにこの計算をさせてみました。この程度なら手計算でも十分でしょうけれども。

広島原爆の爆発した高さを求めるために、科学者たちは萬代橋にできた欄干の影をもとに計算を行いました。爆心とされる場所から萬代橋までは891mで、爆心高さは600mとされています。萬代橋の欄干の高さを仮に1mとすれば、どの程度の影ができるのか、図で示し、答えを出してください

結果として影は欄干高さの1.5倍位になります。

考え方:相似三角形

爆心を点光源とみなすと、「爆心 → 欄干の上端 → 地面」を結ぶ一本の光(熱線)の直線が、地面に影の端をつくります。これは、爆心の足元から欄干までの距離を底辺とする大きな直角三角形と、欄干からその影の端までを底辺とする小さな直角三角形が相似になっている、という関係です。

計算

  • 爆心の高さ:H = 600 m
  • 爆心から萬代橋までの水平距離:D = 891 m
  • 欄干の高さ:h = 1 m

相似関係から、影の長さ s は次の式で求まります。
s = D × h ÷ (H − h)
これに数値を入れると、
s = 891 × 1 ÷ (600 − 1) = 891 ÷ 599 ≈ 1.49 m

つまり、高さ1mの欄干からは、爆心と反対側に約1.5mの影ができる計算になります。実際の広島原爆の解析でも、この方法(既知の物体の影の長さと爆心距離から爆発高度を逆算する)が使われました。 

つまり、先のパルマーのシミュレーションは正しいです。現実の影をもとにすれば、爆心はもっと高くなければいけないようです。

しかし、先の実際の計算表をAIに入れてみると。。。

この表はまさに、私が示した「相似三角形」の考え方を実際の調査でどう使ったかを示す一次資料ですね。数値を検証しながら評価します。

検証:2番目の萬代橋のデータで式を確認する

表の「2. Bridge No. 20(萬代橋)」の行を使うと、

地上距離(Groundrange):R = 867 m
影を投じた物体の縁の高さ:Y’ = 9.8 inch ≈ 0.25 m
水平残影の長さ:X’ = 12.5 inch ≈ 0.317 m

これを、私が前回使った式 s = D·h/(H−h) を「高度Hを求める形」に変形すると、

H ≈ R × (Y’/X’) = 867 × (9.8/12.5) ≈ 680 m

これは表の「Present Authors HOB(炸裂点高度)= 680 meter」と完全に一致します。つまり原理は前回説明した相似三角形とまったく同じで、向きが逆なだけです。

前回の説明 実際の調査:H・D・h を仮定 → s(影の長さ)を求める「順算」
実際の調査:X'(影の長さ)・Y'(物体の高さ)・D(距離)を実測 → H(炸裂点高度)を求める「逆算」

前回の仮定と実測値のズレ

  • 欄干の高さ:前回は説明のため仮に 1 m としましたが、実際に影を落とした部分(縁)の高さは Y’=9.8インチ≈0.25 m と、もっと低い部分(欄干の下部の桟や縁石など)でした。
  • 距離:前回使った891mに対し、USSBSの基線は2810フィート≈857m、著者らの再計算では867mでした。3〜4%ほどのズレです。
  • 炸裂点高度:前回仮定した600mは、この1点だけの推定値(680m)よりは低いですが、全観測点を平均し火球半径で補正した最終値 607±66m にはほぼ一致します。

手法としての評価:1点だけでは誤差が大きい

表には萬代橋だけでも複数の観測点(2, 8a〜8g)があり、そこから得られる高度はかなりばらついています。

見ての通り、521mから741mまで1点ごとに大きくばらついています。原因として考えられるのは、

  • 影の縁の判定(どこからどこまでが「影」か)の測定誤差
  • 物体の縁の高さ Y’ が数センチ〜十数センチしかないため、わずかな測り間違いが比率に大きく効いてしまうこと
  • 座標(距離)の測量誤差

したがって、この方法は1点だけの計算では大きな誤差を持ちうるが、萬代橋だけでも複数箇所、さらに他の建造物(神社、電力会社ビル、ガスタンクなど)も合わせて多数の点を測り、平均を取ることで統計的に信頼できる値(621±79m、補正後607±66m)に収束させている、というのがこの調査の本質です。

つまり前回の私の説明は「原理を理解するための単純化(1つの仮想例)」であり、この表は「同じ原理を、多数の実測データと誤差評価を伴って科学的に適用した実例」といえます。 

パルマーはその本の中で、萬代橋の欄干の影のみに基づき、「爆心高度がおかしい」としか言っていません。その他としては、廿日市の若木(Wakaki)の証言から410m以下だったはずとしています。

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