フラットアーサーの愚かさ(31):球体説で江戸幕府大成功の巻(1)

フラットアーサーのトンデモはこちら

この記事の三行要約

  • 伊能忠敬は暦の誤差に疑問を抱いて高橋至時に師事し、当時最先端の天文学を学んだ結果、地球の大きさを求めるための測量へと進んだ。
  • 至時の寛政暦は天体予報の精度向上に成功し、忠敬の伊能図は北極星高度と緯度の関係を利用して日本列島を高精度に描き出した。
  • つまり、至時の暦は「空から」、忠敬の地図は「地上から」、球体地球モデルの実用性と正しさを示した代表例と言える。 

伊能忠敬と言えば、日本地図を作成したことで有名ですよね。歴史の授業で習ったと思います。

実は、忠敬の日本地図は、その当時としては、球体説から最も恩恵を受けたものと言えるらしいです。つまり、彼の地図は球体地球を前提に作られたものなのです。

そして、球体説の中でも、最も伊能図に恩恵をもたらしたのは、北極星仰角≒緯度という事実です。巨大な日本を徒歩・方位・当時の機器だけで測量しようとしたのですから、あまりに誤差が大きくなるのは当然ですが、忠敬は地点ごとに北極星などを観測し、緯度を決定できたわけです。

伊能忠敬のストーリー

どのあたりの年代か私もよくわからないので、ざっと年代を。

  • 江戸時代:1603-1868年の265年間
  • 伊能忠敬(江戸後期)
    • 1795年(50歳)、天文学者高橋至時に師事
    • 1800年(55歳)から蝦夷地方面の測量を実施、以後全国測量
    • 1818年死去
    • 1821年に弟子が全国地図を完成

Wikipediaの伊能忠敬に非常に詳しい説明があります。重要な部分を抜き出してみましょう。強調は私。長いので、引用の後にまとめを示しています。これだけでもOK。

50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた[85]。

ちょうどその頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報を度々外していたため、評判が悪かった[86][87]。

民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした

同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている 

至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。

(忠敬は)そろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った[95]。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった

忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などである[101]。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている

至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦『寛政暦』を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった

忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば1度の距離を求められると思い、実際に測量を行った。そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案された

忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。

至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである

忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。 

蝦夷地測量で作成した地図に対する高い評価は若年寄堀田正敦の知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた[144]。

寛政12年(1800年)の暮れ、忠敬は桑原から第二次測量の計画を出すように勧められた。 

簡単にすると、次のようなストーリーですね。

  • 当時の江戸幕府が使っていた暦は、日食や月食の予報をはずしてしまうために評判が悪かった。
  • 忠敬はそもそも商人だったが、働きながら天体観測や暦に関心を持ち、自分でも観測していた。
  • 忠敬は当時の『授時暦』が合わないことに気づく。疑問を様々な学者にぶつけたが、納得のいく説明はなかった。唯一答えられたのが高橋至時だった。
  • 1795年、50歳の忠敬は(当時は隠居の年齢)、31歳の至時に弟子入りする。
  • それと前後して幕府は、至時と間重富に新たな暦の作成を命令した。
  • 2年後の1797年、至時と重富は新たな暦「寛政暦」を完成させる(翌年施行)。しかし、至時は満足せず、より正確にするには「地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だ」とした。
  • 至時は、忠敬に言った「緯度一度の距離を正確に計算するには、江戸から蝦夷位までの距離を測ればいいのでは?」と。
  • ちょうどその頃、幕府はロシアの脅威を感じていたため、至時は幕府側に蝦夷地測量の許可を願い出た。
  • 1800年、忠敬は蝦夷地測量を行う。地図を幕府に提出すると、その正確さが高い評価を受け、次々に日本全国を測量していくことになる。

当時の天文知識

では、その当時の彼らの天文知識はどのようなものだったでしょう?Wikipediaには、至時が忠敬や弟子たちに「授時暦」、「暦象考成 上下編」、「暦象考成後編」といった文献を学ばせたとあります。

ただし、そもそも忠敬が至時に弟子入りした理由は、現実と合わない「授時暦」に疑問を持ったからで、忠敬は既にその知識があり、飲み込みも早かったことが推察できますね。

これらについてAIに聞いてみます。

授時暦(1281)

  • 大規模観測に基づく高精度暦法
  • 球面天文学を使用
  • 中国伝統天文学の集大成

当時としては驚異的な精度でした。

暦象考成 上下編(1723)

  • 西洋天文学を本格導入
  • ティコ・ブラーエ系の理論
  • 惑星計算や観測理論を大幅強化

完全なケプラー体系ではありません。

暦象考成後編(1742)

  • ケプラー楕円軌道を採用
  • 太陽・月運動の精度が向上
  • 日月食計算も改善

これらを麻田派の麻田剛立、高橋至時、間重富が熱心に研究し、後に(至時と重富が作成した)寛政暦の基礎となりました。 

高橋至時が弟子たちにこれらを学ばせたというのは、1281年の中国最高峰の暦法から始めて、1723年の西洋化された天文学、さらに1742年のケプラー理論まで学ばせるということであり、現代で言えばニュートン力学から始めて、マクスウェル、アインシュタインまで順に学ぶくらいの体系的な教育だったと言えます。そして伊能忠敬が入門したのは1795年頃ですから、当時としてはほぼ最新の天文学を学んでいたことになります。 

簡単に言えば、次のようになるようです。

  • 授時暦:天球を球として扱う。球体説でも地動説でもない。そもそも、中国伝統天文学には、複数の宇宙観があった。 
  • 暦象考成 上下編:ティコ・ブラーエ系理論。完全な球体説だが、地動説ではない。
  • 暦象考成後編:ケプラー系理論。完全に球体説であり地動説。

さらに、至時が弟子たちに学ばせたか、忠敬が読んだかについては記録が残っていないものの、西川如見の「天文義論」(1712年)という本があり、これは忠敬弟子入りの80年前のもので、おそらく彼らも読んでいたことが推察されます。国会図書館に実物があります。とても読めはしないのですが。AIによれば、この本の内容は以下だと言います。

地球は丸いのか
天はどのような構造か
太陽や月の大きさはどれくらいか
星座とは何か
暦はどう作るのか

などを、問答形式で解説しています。中国天文学と西洋天文学を比較しながら論じているのが特徴です。特に興味深いのは、江戸時代初期の知識人がすでに地円説(地球球体説)を紹介していたことです。『天文義論』には地円説(球体説)についての議論が含まれており、伊能忠敬の時代より約90年前の段階で、日本の知識人層が球体地球を知っていたことがわかります。 

これらの年代を見てみると、忠敬誕生(1745年)の20年前には、既に日本の学者は、(信じたか信じないかは別として)少なくとも地球球体説の存在を知っていたわけです。つまり、明治維新より約150年前のことです。さらに忠敬誕生の頃には地動説まで入ってきていたわけですね。

どのように評価できるか?

そして、AIに聞いてみると次のように評価できるそうです。

当時の日本人にとって、球体地球説の最も実践的で説得力のある実証例の一つが、至時の暦と忠敬の測量だったと言うのが正確です。

高橋至時の場合

至時らが作った寛政暦は、日食予報、月食予報、太陽や月の位置を従来より高精度に予測できました。つまり、球面天文学→観測→計算→予報が当たるということです。一般の人は理論を理解していなくても、「あの学者が言った通りに日食が起きた」となれば説得力があります。

伊能忠敬の場合

忠敬の測量はさらに分かりやすい。彼は全国を測って、北極星高度、緯度、距離を結びつけました。そして完成した地図は、実際の日本列島と非常によく一致しました。つまり、球体地球を前提とした測量→全国で整合→正確な地図ができるということです。

なぜ説得力があるのか

当時の人にとって重要なのは、哲学ではなく実用性です。例えば、地球は球体だという議論だけなら、「本当か?」で終わります。しかし、暦が当たる、地図が正確になる、航海や測量に使えるとなると話が違います。

フラットアースとの比較で言うなら

現代のフラットアース論でも、「理論」だけならいくらでも作れます。しかし、日食予報、月食予報、北極星高度、全国測量を一貫して説明しなければなりません。

至時の暦と忠敬の測量は、まさにその部分で成功していました。だから歴史的に見ると、日本人が球体地球説を受け入れていった理由は、「西洋人がそう言っているから」ではなく、「その理論で暦を作ると当たるし、その理論で測量すると正確な地図ができる」という実績だったと考えるのが自然です。

その意味で、高橋至時の暦は「空の検証」、伊能忠敬の地図は「地上の検証」だったと言ってもよいでしょう。

私の感想ですが、現代では何も考えずに球体説及び地動説の恩恵を指先一本で受けられ、その背後にある事実と原理など全く見えなくなっています。

ですから、それを知ることもなく、知ろうと努力することもなく、無視し、安易に現実とは無関係な主張「地球は平面だ!」などと平気で言っていられるのです。

しかし、当時の人たちは、紙と筆を使い、算盤で計算し、必死で暦や地図を作成していたわけですね。そして、球体理論が現実と合致することが痛いほどわかったわけで、その努力の結果、球体説が実証され、当初目的も成功を収めたわけです。

次回は、具体的に忠敬の地図にどのように球体説が貢献したかを追求していきたいと思います。できれば、至時らの暦についても。

 

コメント