フラットアーサーの愚かさ(90):平面説は宗教的信念に基づく。宗教的信念なきところに平面説なし

フラットアーサーのトンデモはこちら

もともと平面説というのは、「地球が球体というのは間違いで、実際は平面である」という事実関係の話ではなかったのです。これは宗教的信念から発生しており、それが現代でも続いているだけの話です。もちろん、現代では明らかに別の形の宗教になってしまっていますが。

過去の西洋ではキリスト教的世界観、日本の円通などは仏教的世界観に基づきます。つまり、平面説というのはもともと信仰を支えるためのものであって、客観的事実の話ではありません。信仰にとって都合が良いように組み立てられたものです。

結局のところ、ロウボサムもグリーソンも、ただただ聖書を真実のものとし、「球体説はそれと矛盾するから誤り」としているだけの話です。以前に見たように、明らかにロウボサムは、自説に不都合な事実を排除しようとしています。

私は聖書には詳しくないので、AIの見解を最後に掲載しておきます。

ロウボサムの世界観

元祖フラットアーサーのサミュエル・ロウボサム(1816-1884)の著作を見てみましょう。こちらです。

P360:That everything which the Scriptures teach respecting the material world is literally true will readily be seen. It is a very popular notion among modern astronomers that the stellar universe is an endless congeries of systems, of suns and attendant worlds, peopled with sentient beings analogous in the purpose and destiny of their existence to the inhabitants of this earth. This doctrine of a plurality .of worlds, although it may be admitted to convey most magnificent ideas of the universe, is purely fanciful, and may be compared to some of the “dreams of the alchemists,”

聖書が物質世界について教えていることは、文字どおり真実であるということは、容易に理解できるであろう。現代の天文学者たちの間では、恒星宇宙とは、無限に連なる諸体系、すなわち太陽と、それに伴う世界(惑星)から成り、それらの世界には、この地球の住民と同じような目的と運命をもって存在する知覚ある生物が住んでいる、という考えが非常に広く受け入れられている。この「複数の世界」という学説は、宇宙について非常に壮大な観念をもたらすものではあるかもしれないが、純粋に空想的なものであり、いわば「錬金術師たちの夢」の一つと比較することができる。 

(略)

P363:In the Newtonian astronomy, continents, oceans, seas, and islands, are considered as together forming one vast globe of 25,000 English statute miles in circumference. This assertion has been shown to be entirely fallacious, and that it is contrary to the plain literal teaching of Scripture will be clearly seen from the following quotations. “And God said, Let the waters under the heaven be gathered together unto one place, and let the dry land appear. And God called the dry land earth; and the gathering together of the waters called He seas.”–Genesis i., 9-10. 

ニュートン天文学においては、大陸、海洋、海、そして島々は、合わせて一つの巨大な球体を形成しており、その円周は25,000英国法定マイルであると考えられている。この主張が完全に誤っていること、そしてそれが聖書の明白な文字どおりの教えに反していることは、以下の引用から明らかになるであろう。「神は言われた。『天の下の水は一つの所に集まり、乾いた地が現れよ。』そして神は乾いた地を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。」――『創世記』第1章9~10節 

(略)

P364:”The earth is the Lord’s and the fulness thereof; the world and they that dwell therein; for He hath founded it upon the seas, and established it upon the floods.”–Psalm xxiv., 1-2.
“O give thanks to the Lord of lords, that by wisdom made the heavens, and that stretched out the earth above the waters.”–Psalm cxxxvi., 6.
“By the word of God the heavens were of old, and the earth standing out of the water and in the water.”–2nd Peter iii., 5.
“Who with the word of His strength fixed the heavens; and founded the earth upon the waters.”–Hermes, N. T. Apocrypha.
That the surface of water is horizontal is a matter of absolute truth, and as the earth is founded upon the seas, and stretched out above the waters, it is of necessity a plane; 

「地と、それに満ちるもの、世界と、その中に住む者とは、主のものである。主は地を海の上に据え、洪水の上に堅く立てられた。」――『詩篇』第24篇1~2節
「主の中の主に感謝せよ。主は知恵をもって天を造り、地を水の上に広げられた。」――『詩篇』第136篇6節
「神の御言葉によって、昔から天が存在し、そして地は水から出て、水の中に立っている。」――『ペテロの第二の手紙』第3章5節
「その力ある御言葉によって天を定め、地を水の上に据えられた。」――『ヘルメス、新約聖書外典』

水の表面が水平であるということは、絶対的な真理である。そして、地は海の上に据えられ、水の上に広げられているのであるから、それは必然的に平面(plane)である。

(略)

 P367:When God’s power can be limited, heaven above will be no longer infinite; and the “mighty waters,” the “great deep,” the “foundations of the earth,” may be fathomed. But the Scriptures plainly teach us that the power and wisdom of God, the heights of heaven, and the depth of the “waters under the earth,” are alike boundless and unfathomable.

神の力に限界を設けることができるようになったとき、上なる天ももはや無限ではなくなる。そして「巨大な水」、「大いなる深淵」、「地の基」は、測り尽くすことができるようになるだろう。しかし聖書は明白に教えている。神の力と知恵、天の高さ、そして「地の下の水」の深さは、いずれも限界がなく、測り知ることのできないものである。

That the earth is stationary, except the fluctuating motion referred to in the chapter on the cause of tides, has been more than sufficiently demonstrated; and the Scriptures in no instance affirm the contrary. The progressive and concentric motion of the sun over the earth is in every sense practically demonstrable;

潮汐の原因についての章で述べた変動する運動を除けば、地球が静止していることは、すでに十分すぎるほど証明されている。そして聖書は、いかなる箇所においても、それと反対のことを主張していない。一方、地球の上を太陽が進み、同心円状に運動することは、あらゆる意味において実際に実証可能である。

yet the Newtonian astronomers insist upon it that the sun only appears to move, and that this appearance arises from the motion of the earth; 

それにもかかわらず、ニュートン天文学者たちは、太陽は動いているように見えるだけだと主張する。そして、この見かけの運動は、実際には地球の運動によって生じているというのである。

(略)

P401:To truthfully instruct the ingenuous Christian mind, to protect it from the meshes of false philosophy, and the snares of specious but hollow illogical reasoning; to save it from falling into the frigid arms of atheistic science; to convince it that all unscriptural teaching is false and deadly, and to induce great numbers of earnest deep-thinking human beings to desert the rebellious cause of atheism; to return to a full recognition of the beauty and truthfulness of the Scriptures, and to a participation in the joy and satisfaction which the Christian religion alone can supply, is a grand and cheering result, and one which furnishes the noblest possible answer to the ever ready Cui bono.

純真なキリスト教徒の心に真理を正しく教え、偽りの哲学の網や、もっともらしく見えても中身のない非論理的な推論の罠から守り、無神論的科学の冷たい腕に陥ることから救い、聖書に反するあらゆる教えは偽りであり、破滅をもたらすものであると確信させ、さらに、多くの真摯で深く思索する人々を、無神論という反逆の道から離れさせること。そして、彼らを再び聖書の美しさと真実性を全面的に認める境地へと導き、キリスト教だけが与えることのできる喜びと満足を分かち合うようにすること。

これは実に壮大で喜ばしい成果であり、常に投げかけられる 「Cui bono(誰の利益になるのか?/それによって何の益があるのか?)」という問いに対する、これ以上ないほど崇高な答えを与えるものである。

グリーソンの世界観

では、次にグリーソン地図(1892)の作者、アレックサンダー・グリーソン(1827-1909)の著作を見てみましょう。こちらです

P49(オンライン版ではP72):Thus we may see the object of Satan to overthrow the Mosaic record of creation and the Sabbath—the memorial of the Creator’s works. But the effort is a failure. God says, “I change not.”

“Geology and Astronomy. Its Popularity vs. Bible.”
We think we have said sufficient in favor of the infallibility of the Bible to be free in using it as a reference for evidence on any subject on which the Word may treat. But should the skeptic yet require more, we know of no better way to test the infallibility of the Word than for him to take the prophecy of Daniel, chapters two, seven, eight and nine, concerning the four Universal kingdoms, with many details concerning them; also the prophecy concerning the first and second advent of Jesus Christ.

このようにして、創造についてのモーセの記録と、創造主の業を記念する安息日を覆そうとするサタンの企てが分かる。しかし、その企ては失敗に終わる。神は「私は変わらない」と言っている。

地質学と天文学――その一般的な説と聖書
聖書の無謬性については、これまでに十分論じてきたと思う。したがって、聖書が扱っている事柄については、聖書を証拠として参照してよい。しかし、それでもなお懐疑論者がさらに多くを要求するのであれば、聖書(御言葉)の無謬性を検証するために、これ以上よい方法を私たちは知らない。彼にダニエル書第2章、第7章、第8章、第9章の預言を取り上げてもらえばよい。そこでは四つの普遍的王国について、それらに関する多くの詳細とともに述べられている。また、イエス・キリストの第一の来臨と第二の来臨についての預言もある。

P60(オンライン版ではP83):That the Scriptures were not given to teach astronomy, geology or other sciences we do not believe. They were given to teach the true and only way of salvation. To claim that the Bible was not intended to teach science truthfully would be to declare that God Himself has stated and authorized His prophets to teach that which is utterly false! In giving the following we shall quote largely from an English writer, Parallax, of whom we shall say more ere we close.

聖書が天文学、地質学、その他の科学を教えるために与えられたものではないという考えを、私たちは信じない。聖書は、真実であり唯一の救いの道を教えるために与えられたのである。聖書が科学について真実を教えることを意図していなかったと主張することは、神ご自身が預言者たちにまったくの虚偽を教えるよう命じ、それを認可したと宣言することになる! 以下では、英国の著述家Parallax(訳注:ロウボサムのペンネーム)から大幅に引用する。彼については、本書の終わりまでにさらに詳しく述べることにする。 

P63-64(オンライン版では86-87):the “foundation of the earth,” may be fathomed. But the Scriptures plainly teach us that the power and wisdom of God, the heights of heaven and the depths of the waters upon the earth, are alike boundless and unfathomable.

「地球の基礎」がどのようなものであるかを探究することはできる。しかし聖書は、神の力と知恵、天の高さ、そして地上の水の深さは、いずれも限りなく、人間には測り知ることのできないものであると明白に教えている。 

Does the Earth Move or Rotate?
The earth is stationary, and nowhere in the Scriptures is the earth spoken of as movable, except by a miracle or in a relative sense. And, on the other hand, the sun is not spoken of in the Scriptures as standing still, as fixed or having foundations, except it be by a miracle of God. The concentric and progressive motion of the sun over the earth is in every sense practically demonstrable; yet, the Newtonian astronomers insist upon it that the sun only appears to move, and that this appearance arises from the motion of the earth; that when, as the Scriptures affirm, “the sun stood still in the midst of the heavens,” it was the earth that stood still and not the sun; that the Scriptures, therefore, speak falsely, and the experiments of science and the observations and applications of our senses are never to be relied upon! Whence comes this bold and arrogant denial of the value of our senses and judgment and authority of Scripture? A theory which is absolutely false in its ground-work, and ridiculously illogical in its details demands that the earth is round and moves upon axis, and in several other directions (as we shall show further on), and that these motions are sufficient to account for certain phenomena without requiring the sun to move; therefore, the sun does not move, but is a fixed body—his motion is only apparent! Such reasoning is a disgrace to philosophy, and fearfully dangerous at the best, to the religious interests of humanity. A few passages of Scripture here will suffice to confirm the above statements:

地球は動いているのか、回転しているのか?
地球は静止しており、聖書のどこにも、地球が動くものとして語られてはいない。ただし、奇跡による場合、あるいは相対的な意味で語られる場合を除く。一方、太陽については、神の奇跡による場合を除けば、聖書の中で静止しているもの、固定されているもの、あるいは基礎を持つものとして語られてはいない。地球上を太陽が同心的かつ進行的に移動することは、あらゆる意味で実際に証明できる。それにもかかわらず、ニュートン派の天文学者たちは、太陽はただ動いているように見えるだけであり、その見かけの運動は地球の運動によって生じているのだと主張する。そして、聖書が述べているように「太陽が天の中央にとどまった」とき、実際に静止したのは太陽ではなく地球だったのだ、とする。そうだとすれば、聖書は偽りを語っていることになり、科学の実験や、私たちの感覚による観察とその応用は、決して信頼してはならないということになる! いったい、私たちの感覚や判断の価値、そして聖書の権威を、これほど大胆かつ傲慢に否定するものはどこから来るのか。土台そのものが完全に誤っており、細部においても馬鹿げたほど非論理的な理論が、地球は丸く、その軸を中心に、さらにその他いくつかの方向にも動いている(このことについては後ほどさらに示す)と要求し、しかも、それらの運動だけである種の現象を説明でき、太陽が動く必要はないとする。そのため、太陽は動かず、固定された天体であり、その運動は見かけにすぎない、というのである。このような推論は哲学にとって恥ずべきものであり、少なくとも人類の宗教的利益にとっては恐ろしく危険なものである。ここで聖書のいくつかの箇所を挙げれば、以上の主張を裏付けるには十分であろう。 

(略)

To the religious world this matter is most important—it becomes a sacred question of vital importance; it is complete in the confirmation of the entire Scriptures wherever referred to.

宗教界にとって、この問題は極めて重要である――それは生命に関わる重大な神聖な問題となる。それは、聖書の中でこの問題が言及されているあらゆる箇所において、聖書全体の真実性を裏付けるものなのである。 

Does the Sun Move?

Says Parallax, p. 366: “In the religious and mythological poems of all ages and nations the fact of the sun’s motion is recognized and declared.” Christians especially, of every denomination, are familiar with and often read and sing with delight, such poetry as the following:

太陽は動いているのか?

Parallaxは366ページで次のように述べている。「あらゆる時代、あらゆる民族の宗教的・神話的な詩において、太陽が運動するという事実は認められ、明言されている。」特にキリスト教徒は、あらゆる教派の人々が、次のような詩をよく知っており、しばしば喜びをもって読み、また歌っている。 

P260(オンライン版では285):We have endeavored to give the opinions of wise and scientific men honor due in regard to all scientific questions; but when such questions make a tangent direct from the manifest teachings and plain Word of God, it is then that the Word should have a voice; that it may speak for itself, and readers be not deceived.

私たちは、科学上のあらゆる問題について、賢明で科学的な知識を持つ人々の見解に、それ相応の敬意を払うよう努めてきた。しかし、そのような問題が、神の明白な教えと明白な御言葉から直接逸脱するものであるなら、そのときこそ御言葉に発言させるべきである。御言葉自身に語らせ、読者が欺かれることのないようにするためである。

AIの見解

聖書の記述自体が曖昧なものでは?

「聖書には平面地球が書いてある」という言い方は、かなり強い解釈を加えています。聖書の実際の表現は、地球の形状を幾何学的・科学的に明示するほど具体的ではありません。

例えば創世記1章の「大空(רָקִיעַ, raqia)」についても、これを「地球を覆う固いドーム」と読むことはできますが、ヘブライ語そのものが「ドーム型の固体天蓋」と明確に定義しているわけではありません。

同様に、「地の四隅」「地の果て」「地の基」「天の柱」「天が広げられた」「太陽が昇る・沈む」なども、文字通りの物理構造を説明しているのか、詩的・比喩的・日常的な表現なのかが一義的ではありません。

イザヤ11:12の「地の四隅」を文字通り読めば、四角形の地面を想像できます。しかし、現代でも、「世界の四隅から人々が集まった」と言ったからといって、その人が「世界は四角形だ」と主張しているとは普通考えません。

聖書には詩歌・預言・比喩・物語・知恵文学など様々なジャンルがありますから、それぞれの表現を全部「科学的記述」として読むことには問題があります。

旧約聖書のヘブライ語 אֶרֶץ(eretz) は、文脈によって、地、大地、土地、国、地域、世界などを意味します。

したがって、「聖書が earth と言っているから、現代的意味での『地球』について述べている」とも単純には言えません。同じことは「天(shamayim)」にも言えます。

ですから、ロウボサム/グリーソンの論証には一段階の飛躍があります。彼らの議論を整理すると、

聖書に「大空」「地の基」「地の四隅」などの表現がある

これらは文字通りの物理的記述である

しかも神が人間に伝えた自然科学的情報である

したがって、それと矛盾する近代天文学は間違っている

という構造です。問題は、第2段階と第3段階が自明ではないことです。特にグリーソンは、先ほどのp.60で、

“To claim that the Bible was not intended to teach science truthfully…”(聖書が科学について真実を教えることを意図していなかったと主張することは、神ご自身が預言者たちにまったくの虚偽を教えるよう命じ、それを認可したと宣言することになる! )

と主張していました。つまり彼は、最初に「聖書は科学についても真実を教える」という前提を置いています。その前提を採用すれば、聖書の宇宙描写 → 科学的事実と読めます。しかし、その前提自体が証明されているわけではありません。そして、これはかなり面白い問題です。

ロウボサムの場合、「観測したら平面だった」という経験的主張だけでなく、「聖書の記述も平面地球を支持している」という補強を行っています。

グリーソンはさらに明確で、「聖書が科学について真実を教えないなら、神が預言者に嘘を教えさせたことになる」とします。つまり、聖書の曖昧な表現を文字通りの科学的記述として確定するために、「聖書は無謬である」という神学的前提を先に置いているわけです。

この意味では、「聖書に平面地球が書かれている」というより、「聖書の曖昧な宇宙描写を、平面地球を意味するものとして文字通り解釈した」という表現のほうが、はるかに正確です。

そして、ここを掘ると、「古代イスラエル人自身は本当に地球を平面だと考えていたのか?」という問題と、「後世のキリスト教徒が聖書をどう解釈したか」という問題を分離する必要が出てきます。 これはロウボサムやグリーソンの思想史を調べる上で、かなり重要な区別です。 

しかし、私としては、神がいるのであれば、全能の神が地球のみという小さなものしか創造できなかったという方が奇異に感じます。現代の天文学で言われている途方もない大きさの宇宙を作り出せたのではないでしょうか?

はい、その感覚は神学・哲学として十分に成り立つ考え方だと思います。むしろ「全能の神」を仮定するなら、なぜ神が、宇宙の中でも極めて小さな地球だけを創造し、その周囲にはほとんど何もないような世界を作ったのか?という疑問は自然に出てきます。

現代天文学では、地球は太陽系の中の一惑星にすぎず、太陽も銀河系にある数千億個規模の恒星の一つ、さらに銀河系自体も無数の銀河の一つです。宇宙のスケールは、人間の直感をはるかに超えています。

ただし、ここで「全能なら巨大な宇宙を作れるはず」から「実際に神がそうした」までは論理的には一足飛びです。

面白いのは、これは聖書そのものからは必ずしも出てこないこと。聖書は、「神は地球しか創造しなかった」とは書いていません。

むしろ創世記1:16には、「神は二つの大きな光を造り、また星々を造られた」とあります。

そして詩篇19:1には、「天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを示す」とあります。

したがって、「神が広大な天体世界を創造した」という考え自体は、聖書と必ずしも矛盾しません。

問題になるのは、19世紀のロウボサムやグリーソンが想定した、「地球を中心とする非常に小さな宇宙」を、聖書から必然的に導けるのか、ということです。ここでロウボサム/グリーソンの論理がかなり特殊になります

彼らの場合、

聖書の古代的な宇宙描写

それを文字通りの物理的構造と解釈

それが神の啓示した自然科学的事実だとする

近代天文学を否定

という流れです。

しかし、あなたが言っている、「全能の神なら、むしろ人間が想像もできないほど巨大な宇宙を創造していても不思議ではない」という考え方は、「聖書の表現を現代物理学の教科書として読まなければならない」という前提を必要としません。これはかなり重要な違いです。

さらに哲学的に考えると、宇宙が巨大だからといって、地球や人間の価値が小さくなるとも限りません。例えば、「神が全宇宙を創造した」「その中で地球上の生命を特別に扱った」という組み合わせも、論理的には可能です。

逆に、「神は人間を特別に扱う」→ 「だから宇宙は人間の住む地球を中心とした小さな構造でなければならない」という推論には、追加の前提が必要です。

そして実際、これは古代の宇宙観と近代のキリスト教神学をどう関係づけるかという非常に大きな問題につながります。

要するに、「神がいるなら巨大な宇宙を作れるはず」は全くおかしな発想ではありません。むしろ「全能」という概念と、現代天文学が示す途方もない宇宙のスケールを両立させる神学は十分可能です。

そしてその観点から見ると、グリーソンの「聖書の宇宙描写を文字通り科学的事実としなければ、神が嘘を教えたことになる」というp.60の論法は、実は「聖書の目的は何か」という、もっと根本的な神学的前提を置いていることが分かります。 

私にはむしろ、ロウボサムやグリーソンの議論は神の力を矮小化しているように思えます。近代物理学・天文学ごときで否定されるようなものはないはずで、むしろ彼らは、人々の信仰心をつなぎとめることが目的だったのでは? 

はい、その見方はかなり興味深いと思います。ただし、「彼らが意図的に信仰をつなぎ止めるために平面地球を主張した」とまでは、現時点の資料からは断定できません。一方で、少なくとも彼らの議論がキリスト教信仰の防衛という目的と強く結びついていたことは、かなりはっきりしています。

特にロウボサムについては、あなたの仮説を支持する材料があります。彼の『Zetetic Astronomy』には、かなり露骨な記述があります。“To the religious mind this matter is most important—it is indeed no less than a sacred question”。つまり、「宗教的な心を持つ者にとって、この問題は極めて重要であり、まさに神聖な問題にほかならない」としています。さらに、“it renders complete the evidence that the Jewish and Christian Scriptures are absolutely true”。つまり、「それによってユダヤ教・キリスト教の聖書が絶対的に真実であることの証拠が完全なものになる」とまで言っています。

ここは非常に重要です。つまりロウボサムにとって、「地球が平面である」こと自体が最終目的なのではなく、

地球が平面である
→ 近代天文学は誤っている
→ 聖書の記述は正しかった
→ 聖書は超自然的な神から与えられた
→ キリスト教の信仰は正しい

という構造になっています。これは、まさにあなたが感じているところです。

グリーソンはさらに露骨です。今回実際に確認したグリーソンp.60では、「聖書が科学について真実を教えることを意図していなかったと主張することは、神ご自身が預言者たちにまったくの虚偽を教えるよう命じたと宣言することになる」という論法を使っています。

そしてp.63–64では、地球の静止・太陽の運動を聖書から論証し、p.64では、“To the religious world this matter is most important—it becomes a sacred question of vital importance”、つまり、「宗教界にとって、この問題は極めて重要であり、生命に関わる神聖な問題となる」としています。

これはロウボサムの表現と驚くほど近い。したがって、少なくともグリーソンの場合、「平面地球」は宗教的信仰を防衛するための道具になっていると見ることができます。

そして、あなたの「神を矮小化している」という指摘。これは哲学的には非常に面白い批判です。ロウボサム/グリーソンの考え方を単純化すると、

「神が聖書を書いた」

「聖書の宇宙描写は物理的に文字通り正しい」

「だから宇宙はこの程度の構造でなければならない」

となります。しかし逆に、「神が全能なら、神が創造した宇宙が人間の古代的宇宙観をはるかに超えていても何の不思議もない」とも言えます。

むしろ、「人間が理解できる宇宙像に神の創造を押し込める必要があるのか?」という疑問が出てきます。これはかなり本質的です。

さらに面白いのは「近代科学=神の敵」という構図。19世紀には、地質学・進化論・天文学などによって、従来のキリスト教的世界観が大きく揺さぶられていました。

そこで、聖書 vs. 科学という対立構造を作ってしまうと、信仰者には非常に厳しい選択を迫ることになります。ところがロウボサムの方法は、「いや、科学のほうが間違っている。聖書のほうが正しい」とする。これは信仰者にとって非常に魅力的な構造です。「科学によって聖書が否定された」のではなく、「科学者が間違った世界観を信じ込んでいるだけで、聖書は最初から正しかった」と説明できるからです。

実際、ロウボサムは「聖書と感覚的経験を支持し、科学的理論を退ける」という形で自説を組み立てています。彼の著作には、地球の平面・静止と聖書の教えを結びつける議論が明確にあります。

ただし「信仰心をつなぎ止めるためにやった」とはまだ言えない。ここは証拠のレベルを分けたほうがいいでしょう。

資料からかなり確実に言えること:

ロウボサム

  • キリスト教・聖書を強く意識している
  • 地球の形を「宗教上の神聖な問題」と位置づけている
  • 平面地球が聖書の真実性を証明すると考えている

グリーソン

  • 聖書を「無謬」とする
  • 聖書は科学についても真実を教えるとする
  • 科学と聖書が衝突した場合は聖書を優先する
  • 地球の形を宗教的問題として扱う

まだ証明できないこと:

「彼らは本当は地球が球体だと知っていたが、キリスト教信仰を守るために意図的に平面説を広めた」

これらは全く別の主張です。現在確認できている資料だけでは、彼らが内心では球体地球を信じていたという証拠はありません。むしろ少なくとも公的な著作上は、かなり本気で「近代天文学こそ誤り」と主張しています。ただ、私はあなたの仮説をもう一歩進めて、「彼らが何を証明したかったのか」を見るのが面白いと思います。

ロウボサムの最終的な結論は実は、「地球は平らだ」ではありません。彼自身の言葉では、「これによってユダヤ教・キリスト教の聖書が絶対的に真実であり、超自然的存在から人類に伝えられたことの証拠が完全になる」なのです。

つまり平面地球は「結論」であると同時に、彼らにとっては「聖書が神から来たことを証明するための証拠」でもある。

ここまで来ると、あなたの「平面地球そのものが目的なのではなく、人々の信仰を科学から守ることが目的だったのでは?」という見方は、少なくとも彼らの著作の構造を説明する仮説としてはかなり筋が通っています。

そして、これはグリーソンの『Is the Bible from Heaven? Is the Earth a Globe?』というタイトルそのものにも表れています。最初から「聖書は天から来たのか?」と「地球は球体なのか?」を一つの問いとして結びつけているからです 

 

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