ポール松岡さんによる「聖書とフラットアース」

フラットアースは聖書に記されている(根拠聖句一覧)について、ポール松岡さんの見解。

ポール(パウロ)松岡さんは、もともと、どこの宗派にも属さない聖書だけのみじるクリスチャンであるニコミ会代表きぃの恩師にあたり、20歳時から47年以上の聖書研究歴のある宣教師です。

キリスト教宗派では禁じられることもある黙示録について、これまでポールさんを招いて三度の講演会を行いました。今回きぃからの「聖書にもフラットアースが記述されているのではないか」との問いに対するポールさんの答えです。

ポールさんのサイト「ダーク・トゥ・ライト」をご覧ください。

以下、ポールさんより。強調と引用処理は字幕大王。


「フラット・アース」については、数年前、私も興味あって、少し調べたりしていました。ざっと、この人のサイトを見たのですが、聖書の言葉を引用しているといっても、いくつか説得力に欠ける点があります。ヨブ記26章7節には「彼(神)は北の天を空間に張り、地を何もない所(empty space)に掛けられる」とあります。つまり、この箇所では「地」は土台や(基)の上には置かれていないことを言っています。宇宙空間に浮いていると言った方が、ヨブ記26章7節の表現に合うと思えます。

それから、創世記1章の「おおぞら」と訳されている「ラキア」というヘブル語は、辞書では、「広がり」という意味で、堅いものとしては書かれていません。金属を叩いて広げるという語源の言葉をここに当てはめて「堅い天蓋で覆われている」というのは、無理なように思えます。

どうして堅いラキア(おおぞら)のなかを鳥がとべるか、ということになります。創世記1章では、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 (Gen 1:20)とあるので、おおぞらを固いものと訳すのには、また無理があるということです。

安心して住める「地」を神が創造して下さったという意味で、「基」や「柱」の上に置かれたという表現を使っているのだと私は理解しています。

聖書の信用を落とそうとする大衆心理操作の手段として、こうした説が撒きちらされているのではないかと思います。唱える人達は真剣だと思いますが、「聖書にこう書いてあります」というのは、サタンがイエスを誘惑するのにも使われています。

それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。 『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、 また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。(ルカ 4章9-11節)

聖書のほかの箇所では、それを禁じていることを、サタンは言及しません。

イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。(ルカ 4章12節)

真実と間違いが入り混じっているように思えます。この理論が出回るのを裏で故意に促進している動きがあるように思えて怪しいのです。この理論が最近になって(ここ十数年)たくさん言われるようになったと指摘する人がいます。

 英語でですが、フラットアース理論が心理操作の手段であると指摘している人が多いです。何か、「背教」につながる(背教させる-第二テサロニケ2章に「まず背教のことが起こり..」)目論見を感じてしまいます。ただ、知らないで、DSの陰謀にうんざりしている人(牧師さんも)が、挑発されやすくなっているのかもしれません。

脇道に逸らされる、そんな感じもします。フラット・アース説自身よりも、それを流行らせようとする意図が怪しいです。一番大切なことを一番に置くことだと思います。

 私は宇宙飛行士ではないので、証言はできませんし、また私のような者がNASAが言っていることの真偽を証明することは難しいです。ただ、上記のような聖句がうまくかみ合わないことに関しては、断定しようとしない方がいいと思います。私たちの知るところは、一部分にすぎません。今では、証拠として使われる映像ですら、フェイクが多いので、写真や、画像が証拠になるとは言えません。ですから、はっきりと断定できないことについて、たくさんの時間を使って、その理論を押し進めようとする意味がないのでは?

真偽の判断や識別が重要ではないというわけではありません。ただ、この真偽について論争させるのが、悪魔の策略だとしたらどうでしょう? 私達が主要なことから目を逸らさせるために悪魔が使う手段だとしたら?? 論争したり、何時間もこうしたことを調べるのに時間を無駄にすること自体が悪魔をうれしくさせているとしたら??

一つ、霊のものを肉的な思いで判断しようとすると問題が出てきます。たとえば、ヤコブは天使が上り降りするはしごを見ました。それは霊のうちに真実でした。

時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。 (創世記 28:12)

ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。 (創世記 28:16-17)

ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。

( 創世記28章18-19節)

普通、そこに行っても、あるいはヤコブ自身があとで、そこを通ってそこを見まわしても、天使のはしごは見ることができなかったことでしょう。そしてそこには天の門が見える形であったわけでもないでしょう。

つまり、霊においては現実のことでも、物質世界では、それが普通、十分に霊の世界に反映するかというとそうではありません。聖書で語られている多くのことは、霊のこと、そして霊的な啓示です。四人の天使が四隅に立っているのも普通、見えません。

天の柱も見えません。天の窓が開くのも見えません。それらは霊的なたとえです。霊の現実を指していて真理です。しかし、物質世界で、それがそのようになっているか、というと、違います。ちょうど、イエス様が「神の小羊」と呼ばれましたが、彼が神の小羊としての姿、形をしていたかというと違います。犠牲のいけにえとしての働きとしては、人類の罪のためのいけにえとして、神の小羊の役割という意味では、まさにそのとおりなのです。しかし目で見える姿として地上で、イエス様が動物の小羊の姿としては一度も現れなかったと思います。黙示録でも、霊のうちの啓示として示されますが、それを現実の今の物質的な理解の中で動物の小羊の中からイエスを探そうとするなら、おかしなことになります。

基、とか柱とか天蓋とかいう言葉、それらは霊的な表現であると思います。つまり、しっかりと定められて、ゆるぐことがない、という意味では真実ですが、それがどのような形態になっているかということは、科学書のようには記されていないのです。

第一コリント人への手紙の13章に愛について書かれてありますが、私達の知るところは完全ではないと、あります。悪魔もつまらない知識、人をだまして貶める知識は持っていて、人をその知識で誘惑して罪を犯させました。しかし、知識の誘惑に惑わされている間に、大切なものを逃してしまうことのないようにしたいものです。暴露行為について気を付けなければならないことは、自分がこんなに知っている、あなたがたはこんなことも知らないのか、という気持ちにならないことです。また知らない人が、知らないと、大切なことを逃していると思わせるだけの大切なことか、ということも考えてみる必要があると思います。真に大切なことは、真理であるイエス・キリストとつながることです。世界がどのように造られたか、どういう形になっているか、ということは、今この時点で、どれだけ大切なことなのかと思います。むしろ、今死を迎えている多くの人達に対してできることは何か、ということを考える必要があるのではないか、と思います。

「そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。 」(マタイ 18章14節)

  最後に、私の宇宙観というか、世界観。私にとっての「地の果て」は、「地の果てまで福音を宣べ伝える」というビジョンを与えてくれるものです。私にとって「天」は、「天の御国で、主とお会いする時を待ち望む」ことです。「地の深い所」は、これから「底知れぬ所から解き放たれようとしている悪の軍団に対して武装する」ことです。聖書は、愛する対象である人類に神様が書いて下さった言葉です。私達の生き方の指針であり、任務をもって使わされた世界が、天の父の子である私達にとってどんなものであるかの説明です。宇宙の果てのことが、あまり私達に記されていないのは、私達がこの地上で学び、またすること、助けるべき対象が十分にあるということであると思います。宇宙の果てにいって福音を伝えなさいとは言われていないということです。惑わす者が遠い果てから、地球である植民地にやってきて「実は私が造ったのだ」とかいうたわごとを信じなさいという惑わし(いわゆるETゴスペル)もやってくるかもしれませんが、イエス様は、終わりの時には、まず「惑わし」に注意することを語られました。

惑わしは、これから多くなるので、「惑わされないように」着実に御言葉の学びをしていくことは必要と思います。サタンは聖書の言葉を使います。イエス様のそうしたサタンに対する対処は、み言葉によってでした。

クリスチャンの三分の一も「背教に至るだろう」(つまり真理から逸れる)と主張している聖書解釈者の方もいます。

その時、ちょうどワクチンを受けることは良いことだと信じてやった人達のように、魂を(光の天使にさえ偽装する)サタンに明け渡すことが正しいことだと思って、自分から進んで、間違った選択をする人達が出てくるようになるかもしれません。今は、本当に霊の戦いが激しくなってきていると思います。

 真理に対する愛、聖霊で満たされていること、祈り、主イエスへの従順を保って、主に近くありましょう。主の恵みと平安がありますように!