「Can You Catch A Cold?」サンプル4

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第2章

混乱する伝染病

集団が同時に発病することは日常茶飯事である。有名な例は1977年、アラスカのジェット旅客機内で起こった。離陸途中にエンジンが故障し、飛行機は滑走路で5時間近く待機を余儀なくされた。乗客の一人がインフルエンザに罹患していたという。72時間以内に、54人の乗客のうち38人(約70%)が、咳、発熱、頭痛、咽頭痛、筋肉痛のうち1つ以上の症状を特徴とするインフルエンザ様疾患を発症した[1]。このような疫学的証拠は、病人から病人への感染が起こったことを示唆しているように思われる[2,3]。しかし、単に同じ症状で発病する集団を観察しただけでは、病原微生物が彼らの間をやり取りされた証拠にはならない。専門家も一般人も、インフルエンザが人から人に感染することの証拠として、この種の出来事を頻繁に指摘する。しかし、これらのデータは相関的なものであり、因果関係を示すものではないのだ[4]。

ある人が病気になり、その直後に近くの他者も病気になったからといって、その病気が伝染性であると主張するのは正しくない。これは、XがYに先行したため、XがYを引き起こしたに違いないと仮定するものである[4]。確かに、これは一つの可能性のある説明だが、代わりとなる説明を排除できないため、間違いの可能性がある。重要な問題として、こうした論理は人から人への感染の実証ではなく、むしろ仮定である。現実には、我々が推論できるのは、乗客が何らかの共通原因や要因にさらされていたことだけである。立ち往生の機内で乗客がインフルエンザのような症状を発症した理由を説明しうる環境条件は多数考えられる。例えば、機内は換気システムが作動せず、ドアは少なくとも2時間は閉じられたままだった[1]。 つまり、乗客は、再循環する空気中に浮遊するあらゆる種類の不純物を吸い込んだ可能性がある。とはいえ、この種の疫学的データに基づいて症状の原因について確固たる結論を出すことは、本質的に問題がある。原因や要因は観察だけでは特定できない。むしろ、一連の管理された(controlled)科学実験によってのみ確認できるのである。

本書で今後繰り返し述べるように、厳密に管理された条件下で呼吸器疾患のヒト感染を実証する説得力のある証拠は、科学文献のどこにもない。実際のところ、研究者がこのような実験を行なった場合のほとんどで完全な失敗に終わっている。にもかかわらず、疫学的観察では、ある集団の間で病気がまん延していることを説明できる唯一の可能性として、病原性微生物を扱い続けている。こういった欠陥のある研究デザインに頼って、伝染病と他のプロセス(原因)を混同することはありうるだろうか?確かに、壊血病、ペラグラ、水銀中毒など、歴史上このような現象が起こった例は数多い。いずれの場合も、実際には栄養不足や中毒に苦しんだのに、あたかも集団が互いに病気を作っているように見えたのだ。これは必ずしも、風邪やインフルエンザが栄養不足や毒で起こると言うわけではない。これらの例はむしろ、非伝染性の病気がいかに簡単に誤って分類され、伝染性かのように扱われやすいかを浮き彫りにしているだけである。この章で学ぶように、伝染病というレンズを通して一面的に世界を見ることは、混乱を引き起こすだけでなく、害をもたらすこともある。

壊血病の混乱

ほんの数百年前まで、壊血病は伝染病だと信じられていた。公海を数ヶ月航行すると、船員たちがしばしば同じ症状で次々と倒れた。歯茎から出血し、歯が抜け落ち、皮膚には赤や青の病変が現れる。最初の症例から数週間もしないうちに、乗組員全員がこの病に倒れた。海軍の医師たちは、このまん延パターンを伝染性の証拠と考えた[5]。この誤った考え方は、非常に大きな代償を払うことになった。1500年から1800年の間に200万人以上の水兵が壊血病で死亡したのである[6]。こういった間違いを長く続けることがなければ、真の原因にもっと早く気づけたかもしれない。

1500年代の典型的な英国人船乗りの食事は、バターとチーズ少量、パンまたはビスケット1ポンド、乾燥牛肉、豚肉、魚、ビール1ガロンだった。新鮮な食品も入手できたが、船乗りの自腹だったため、不可欠でない贅沢品と思われるものに費用を追加できる者はほぼいなかった[7]。歴史のこの時点では新鮮なホールフードの重要性を人々は十分に理解していなかった。この見落としが、少なくとも3世紀にわたり世界中の海軍のアキレス腱となっていた。

1700年代までに、壊血病は世界中の海軍にとっての最大の敵となったが、誰もその撃退法を知らなかった。英国海軍のスコットランド人外科医ジェームズ・リンドは、1700年代半ばの壊血病に関する論文の中で、この問題の深刻さを例証している。リンドは言う、「軍隊は剣よりも病気で多くの兵士を失うと考えられてきた。しかし、この観察が、わが艦隊や戦隊でも証明されている。先の戦争では、壊血病だけが、フランス軍とスペイン軍の総力を挙げた努力よりも破壊的な敵であることが証明され、より多くの貴重な命が奪われた」[8]。この脅威の大きさを知っていたリンドは、多くの先人が失敗した原因究明に自らを奮い立たせた。

この問題の調査のため、リンドは論理的かつ体系的なアプローチを採用したが、これが臨床医学における最初の対照試験となった[9]。1747年の航海中、リンドの船の80人が壊血病にかかった。うち12人は隔離され、短期間同じ食事を与えられた。その後すぐに、リンドは船員を2人ずつの6つのグループに分け、それぞれのグループに異なる食事を与えた。彼の観察としては、新鮮なオレンジやレモンを与えられた船員は1週間足らずで回復したのに対し、これらの食べ物のない船員の健康状態が悪化の一途をたどったことだった[8]。壊血病は伝染病ではないとリンドは結論づけたが、この発見の真の重要性を認識してはいなかった。壊血病は新鮮な果物や野菜の欠乏との結論をせず、彼が真の原因と考える湿っぽさ(dampness)からこれらの食品が身を守るに過ぎないと考えたのである[10]。

この発見により、仲間の船員から恐ろしい病気が移るという不安は払拭できたが、船員たちに新鮮な果物や野菜の摂取をリンドは勧めなかった。腐りやすく、法外に高価だったからだ。そうではなく、リンドは「ロブ」と呼ばれる濃縮ジュースを勧めた。彼は知らなかったが、ロブの複雑な調製法によって、その「抗壊血病」特性が失われ、役に立たないものにしていたのだ[11]。船員たちは毎日ロブを飲んだが、それでも壊血病を発症した。悲劇的なことに、新鮮なレモンとライムの果汁が英国海軍の艦船に常備されるまで、さらに40年かかった[6,9,12]。世紀が変わる直前の1795年、海軍は全英国水兵の日配給品の一部として、4分の3液量オンス(22mL)の新鮮なライム果汁を含めることを義務づけたのである[13]。シトロンを絞るだけで、壊血病の300年にわたる呪いが解けたのである。

リンドの研究成果にもかかわらず、壊血病は伝染病との考えは1900年代初頭まで続いた。ヒューゴ・ボフィンガーのように、壊血病はウイルスかバクテリアによって人の間で感染すると主張する医師もいた。ボフィンガーは、ナミビア沖のシャーク島にある先住民の病人収容所と第7野戦研究病院の責任者だった。この島は、1904年から1908年にかけて起こったヘレロ族とナマクア族の大虐殺の際、ドイツ帝国に反旗を翻したアフリカ先住民の捕虜収容所として使われていた。ボフィンガーは、収容所の不衛生さが壊血病などの病気を起こす病原菌の温床になっていると主張した。ボフィンガーは自説を証明しようと、囚人にヒ素やアヘン、その他様々な有害物質を注射する人体実験を行った。当然だが、彼の試みは完全な失敗に終わる[14-16]。壊血病伝染説の息の根が止められたのは、1928年のこと、ハンガリーの生化学者アルバート・セント=ギョルジが、壊血病に欠乏しているとされるビタミンCを単離したと言われる時である[6]。

ペラグラの混乱

ペラグラは現在、ナイアシン(ビタミンB3)欠乏症と考えられている。しかし、100年近く前には伝染病と考えられていた。同じ町、刑務所、病院、孤児院などに住む人々が、同じ時期に同じ症状で倒れるからだ[17-19]。ペラグラの病態は、皮膚炎(Dermatitis)、下痢(Diarrhea)、痴呆(Dementia)、死(Death)の4つのDで定義された[20]。ペラグラの症状は周期的であり、典型的には春に発症した。こういったことから、病気が人から人へと広がっていく錯覚に陥ったのである[21-23]。その一方、刑務所の看守、医師、看護婦にはペラグラが見られないことから、ペラグラ病原体への免疫を獲得済ではないかと思う者もいれば、ペラグラの伝染性を否定する証拠だと考える者もいた[18,19]。こうした相反する見解が、医師の間に大きな混乱を起こし、医師たちはこの病気を「医学界最大の謎」と呼ぶようになった[24]。

人々はペラグラの感染を恐れ、1900年代初頭には「ペラグラ恐怖症」の波がアメリカ全土に押し寄せた[25,26]。多くの病院が患者の入院を拒否し、看護スタッフがペラグラ治療を拒否するのも珍しくはなかった。患者の治療を指示された看護師には、感染を恐れてストライキを行う者さえいた[27]。感染減少のために、病院スタッフが検疫措置をとったが、効果などなかった。家族が罹患した場合、児童を小学校の校庭に立ち入らせないようにした。ホテルにおいては、症状が軽い者であっても速やかに排除せねば、一斉に立ち去ると客たちは脅した[28-30]。

この病気の原因は不明だったので、医師たちは様々な有毒物質で患者を治療し始めたが、そこにはヒ素や水銀も含んでいた。ロイ・ロビンソン博士は、原因は寄生虫であると考え、患者の皮膚に二塩化水銀を塗った。治療開始から3週間で、13人の患者の皮膚炎は「ほぼ消えた」。同様に、L.P.テニー医師は、ヒ素を主成分とする薬剤で患者を治療したところ、大きな効果が得られたと報告している。テニーはこの有毒重金属を患者に処方したが、彼自身の言葉によれば、 「無期限、あるいは症状が治まるまで。その後、週に1回、2、3ヵ月ほど使い続けた。患者をヒ素の飽和状態に保つことで、驚くほど耐えられるようになる」とのことだ。テニーはまた、患者に卵と牛乳をたくさん摂取するよう勧めたが、ヒ素を優先するあまり、その治療効果は見過ごされていた[32]。奇妙なことに、1930年代までのペラグラ治療においてヒ素は「主役」の座を占めていた[33]。存在もしない細菌(germ)を殺すと決めつけたこれらの過激な治療法は、いずれも間違いなく患者を苦しめたのである[34]。

20世紀初頭、ペラグラは、栄養欠乏症、中毒症、感染症のいずれかと考えられていた。1911年、イリノイ州ペラグラ委員会が結論したことは、これが未知の微生物により起こることだ[35]。翌年には、トンプソン-マクファデン委員会がさらに原因究明を行うことになった。その開始から2年後、ペラグラは栄養病ではなく、感染性、伝染性、胃腸性の病気であると委員会が結論づけた[36]。この結論に満足しなかった外科医は、感染症の「専門家」であるジョセフ・ゴールドバーガー博士にセカンドオピニオンを求めた[17]。

ゴールドバーガーは、トンプソン-マクファデン委員会が放り出した、その続きを行った。ペラグラの伝染性調査のため、ゴールドバーガーは「不潔パーティー」を開き、ペラグラから採取した皮膚、糞便、鼻汁、血液、唾液、尿から作った錠剤をボランティアに食べさせた[17]。これらの実験が失敗すると、彼は16人の健康なボランティアに患者から採取した血液と鼻咽頭分泌液を注射した。しかし、どのボランティアもペラグラを発症することなく、またどのような病気にもかかることはなかった[37]。ゴールドバーガーがそこで止めることはなかった。患者の体液を自身と妻に注射したが、二人ともまったく健康であった。これらの発見により、ペラグラが伝染性ではなく、他要因で起こったに違いないことが証明されたのだ[17]。風邪やインフルエンザの伝染に失敗した何十もの同様の実験結果は、憶測の域を出ないとして否定される一方で、この一握りの実験結果がペラグラの伝染性を否定する証拠とみなされるのは皮肉なことである。また、細菌にまみれた望ましくない人間の副産物の数々が体内に入ってくることを考えると、被験者が元気でいられたのはむしろ不思議なことである。

この研究に基づき、ゴールドバーガーはペラグラを栄養欠乏症か中毒症と推論した。この仮説の検証のため、彼は刑務所、孤児院、精神病院でいくつかの実験を行い、参加者に様々な種類の食事を与えた。最も注目された実験のひとつとして、ミシシッピ州知事がゴールドバーガーを助けるために、刑務所の農場から受刑者のグループを募集したものがある。州知事は、囚人を参加させるため、実験が成功したあかつきには完全な恩赦を与えるとした。受刑者たちは「ペラグラ部隊」と呼ばれ、コーングリッツ、豚脂、糖蜜、コラード・グリーン、サツマイモからなる粗末な食事を6ヶ月間与えられた。実験終了時には、11人の受刑者のうち6人(54.5%)がペラグラを発症した[17,38]。

ゴールドバーガーは、3つのM、すなわち、コーンミール(Corn Meal)、肉(Meat)、糖蜜(Molasses)の「貧困食」がペラグラの原因であることを実験結果が証明していると考えた。彼はまた、これで病気の季節性が説明できると考えた。冬の間、最も貧しい人々はお金がなくなると、最も安い食べ物、つまりコーンミール、肉、糖蜜を食べるようになる。こうした食生活は春になっても続き、その結果、ゴールドバーガーが「ペラグラ予防因子」[35]と呼ぶ、後にナイアシン(ビタミンB3)として知られるようになったものが慢性的に欠乏するようになったのである[17,38]。同じ世帯の人が同時に病気になるのは、何かが伝染するからではなく、ナイアシンの貯蔵量が同時に枯渇するからである。これにより、医療スタッフや刑務官が患者に密接に接触するにもかかわらず、元気でいる理由も説明できる。彼らは存在しないペラグラ菌への免疫があったのではなく、食生活が優れていただけなのだ。

ペラグラが栄養欠乏症であることを最終的に証明したのは、1927年のミシシッピ川の洪水だった。ゴールドバーガーは、5万人の生存者にビール酵母を与えるよう当局に指示した。ペラグラに苦しむかなりの数の生存者が、酵母の摂取により数週間で治癒した。これらの結果から、ゴールドバーガーはペラグラがナイアシン欠乏により起こる病気と結論づけたのである[17,39]。

さて、重要なこととしては、ペラグラ(と壊血病)だけが伝染病と考えられたわけではないことだ。ここでは取り上げないが、チアミン(ビタミンB1)欠乏症とされる脚気や、ビタミンD欠乏症とされるくる病も、伝染性または感染性であると考えられていた[40]。事実、細菌説の先駆者の一人であるロベルト・コッホは、1900年代初頭に脚気を調査していた日本の科学者たちに、脚気は伝染性の微生物で起こると説得していた。これがために、研究者たちは何年も無駄骨を折っていた[41,42]。今にして思えば、壊血病、ペラグラ、くる病、脚気が病原体で起こると考えた人がいるとは、理解に苦しむ。しかしこれは、細菌論というレンズで世界を見ることにより起こったヒステリーだった。ある時期、このような見方が支配的になり、すべての病気が病原微生物により起こると主張されるようになったのである[43,44]。

サンプル5に続く

 

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