「Can You Catch A Cold?」サンプル6

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第3章

細菌以前の時代

インフルエンザや風邪が「うつる」という考え方は、ほとんどの人が疑問や異論なく受け入れている。しかし、この考えは比較的新しいと気づいている人は少ない。何百年、何千年もの間、人類は呼吸器系の病気は毒素や毒物、気象条件(寒冷乾燥気候にさらされるなど)、天体活動(流星や彗星など)、太陽放射、その他さまざまな大気現象(オーロラなど)で起こると信じていた。最近になってようやく、病気を起こす細菌(germ)という考えが支配的になったのである[1]。

このような考え方を証明するものがある。1794年のこと、エラスマス・ダーウィン博士(チャールズ・ダーウィンの祖父)はインフルエンザのまん延についてこう述べた、「この病気は同時に多くの人を襲い、国土の広い範囲に徐々に広がっていく。この病気が大気(atomosphere。、環境)によって広まることは疑う余地がない。」と[2]。ダーウィンの「環境(environmental)」という視点は、当時、ジェームズ・ウッドフォード博士をはじめとする他の人々も同意していた。彼は、「私は、それ(インフルエンザ)は伝染性ではなく、少なくとも一義的には伝染性ではなく、その原因は大気の状態にあると考える」と述べている[3]。偉大な疫学者であるアウグスト・ヒルシュ教授もまた、伝染性について疑念を表明した。1883年、彼は、インフルエンザが伝染病であることを支持する証拠は乏しく、インフルエンザを伝染病または感染症に分類する理由を発見するのは困難だと述べている[4]。

1837年、インフルエンザが英国を襲った後、ある有力な医師会は、病気の原因とまん延経路をよりよく理解するために、流行に関する情報を可能な限り集めようと考えた。協会は、開業医や外科医が多い会員に18の質問を出した。質問のひとつは、インフルエンザが人から人へ伝染した証拠があるかというものだった。回答はすべて否定的で、どの医師にも人から人への感染の決定的な証拠はなかった。また、インフルエンザ患者の看護にあたった医師は、流行期間中、インフルエンザに感染することなく働き通したことも珍しくないという回答もあった[5]。

著名な社会改革者であり、近代看護創始者のフローレンス・ナイチンゲールは、英国の外科医ジェームズ・パティソン・ウォーカーに宛てた手紙の中で、伝染病概念への疑念を表明していた。彼女はこう書いたのだ、「事実がすべてであり、教義は何でもありません。ドイツの病理学者が私たちにどんな害を与えたか見てください。特定の病気はありません。特定の病態があるのです。それこそが医学界を悲嘆に陥れ、やがては偉大な改革をもたらすでしょう。伝染病の教義は、弱い精神にとっては壮大なことなのです」[6]。近代疫学の創始者であるチャールズ・クレイトン博士でさえ、インフルエンザの流行が人から人への感染粒子の伝播により起こるという説を非常に批判していた[7]。1891年、彼は「英国における伝染病の歴史」という論文を発表したが、その内容は医学界の非難を浴びることになる。クレイトンは文献を徹底的に体系的に分析した結果、細菌がインフルエンザのような感染症を起こすという考えに納得できなかった。その代わりに彼は、気象学的影響や有毒物質や毒物への暴露が、はるかに正確な説明であると主張した[8]。

名前の意味

歴史的に、人々は風邪やインフルエンザは非伝染性であるという信念に自信を持っていた。そのため、これらの季節性の病気に、その原因とされる名前を文字通り名付けていた。16世紀には、風邪(common cold)は寒冷(cold)な気候にさらされた後に人々が経験する同様の症状にちなんで名付けられた[9,10]。 中国では、風邪の定義をさらに明確にし、風邪を「ガン・マオ」と呼んでいた。これを直訳すると、冷たい湿った風にさらされるなど、季節の異常な変化によって引き起こされる風邪である[11-14]。

インフルエンザ(influenza)も同様である。この言葉は、1743年にジョン・ハクサムがイタリア語の 「un influenza di freddo」(風邪の影響)というフレーズに基づいて最初に作ったものだ。しかし、1580年頃には使われていたが、数世紀後に流行したとの説もある。この言葉は、1775年の流行を表現するのに広く使われ[15,16]、1782年までには一般的になっていた[8]。インフルエンザは、イタリア語で「星の影響」を意味する「influenza coeli」という言葉に由来している可能性もある[17,18]。これは、インフルエンザが流行する直前に、古代文明が彗星、小惑星、隕石などの天体現象を観測していたためと思われる[19]。

気象学や天体の活動の(健康に対する)影響は、1900年代初頭までは医師や科学者に広く受け入れられ、時の試練に耐えてきた。実際のところ、細菌論が適用される以前は、医学の正統派は風邪やインフルエンザの原因として寒さへの暴露を認めていた[1,20,21]。このことは、1910年の時点で、英語の辞書がまだ風邪を「寒さ、冷たい空気のすき間風、または湿気への曝露により起こる体調不良」と定義していたことからも明らかである。同様の定義が医学辞典にも掲載され、風邪は「寒さや湿気への曝露による、カタル性またはその他の疾患」と定義されていた[22]。寒さの役割に疑問が付されるようになったのは、1800年代後半になって、医師たちが気象や天体の現象ではなく、バクテリアが原因であると主張し始めたときである。医師たちは、科学者たちがウイルスとして知られる微小な病気誘引粒子が原因だと考え始めるまで、30年近くも風邪やインフルエンザのバクテリア原因説を誤って支持していた[23,24]。

この新理論を証明しようと、科学者たちは健康な人を病人の粘膜分泌液にさらす実験を何度も行った。しかし、こうした試みは何度も失敗し、伝染病の基本的な考え方に疑問を投げかけた[25-27]。これらの実験結果から、多くの学識経験者が考え直すようになったのである。気象や毒素曝露の影響について先人たちがずっと正しかったのか、あるいは風邪やインフルエンザが、過小評価、あるいは未発見の他のメカニズムで起こるのではないかと[1]。昔の医師たちと同様に、風邪やインフルエンザを研究する現代の科学者たちも、感染経路はウイルス感染より、気温や湿度の変化、天体活動、太陽放射の変動とはるかに一致していると主張している[28-30]。

風邪やインフルエンザの「ウイルス」に感染するのは、人間同士の相互作用というよりも、人々がいる場所やさらされる環境条件に関係していると主張する者もいる[31,32]。また、ウイルスがデノボ(体内から新たに)産生される、あるいは、様々な外的悪化要因による組織損傷から生じる細胞の残骸と間違われただけだという説もある[33-35]。風邪はうつるものではなく、免疫系と呼吸器内に存在する「ウイルス」を含む正常な体内細菌叢との間の継続的な戦いから発生すると仮定する科学者さえいる。その戦いが「ウイルス」側に有利に傾いたときにのみ、人は症状を発症するのである[36]。これらの代替モデルのうち、どれが(もしあったとしても)正しいのかはまだ明らかではないが、問題に悩まされている現在のモデルについても同じことが言える。

A型インフルエンザウイルスの発見者として知られるクリストパー・ハワード・アンドリューズ卿もまた、疫学的な特異性に困惑していた。彼は1942年に、「流行の合間のウイルスはどこにあるのか?」と問う論文を発表した。アンドリュースが注目した点としてはは、英国ではインフルエンザが、1年おきの1月、2月、3月にしか流行しないことである。インフルエンザウイルスが24ヶ月のうち21ヶ月も姿を消すことがあり得るのだろうかと彼は考えた。この点について彼は、インフルエンザウイルスが感染によってある場所から別の場所へ広がり続け、最後には発生源に戻るとは考えにくいと述べた。南半球をこの方程式に含めても、この理論を成り立たせることはできなかった[37]。アンドリュースは30年のあいだ、誰かがこの疑問に答えてくれるのを待っていた。最終的に、彼は1973年に再びこの疑問に答えようとし、この異常に対処するためのいくつかのアイデアを提案した[38]。それでも、彼の努力は未解決の問題をさらに増やしたに過ぎない。このような不確実性は科学文献の典型的な例であり、他にもインフルエンザに関する難問が12個近くも未解決のまま残っている[39]。

気象医

数千年のあいだ、身体を突き刺す低温が呼吸器感染症の中心的役割を果たすと信じられてきた[40]。紀元前5世紀、ヒポクラテスは気象条件と伝染病との関係を確立した。彼は言う、「医学を正しく研究しようとする者は、次のように進めるべきである。まず第一に、一年の季節を考え、各季節がどのような効果をもたらすかを考える。次に、風、暑さ、寒さについて考える」、そして、「これらのことがむしろ気象学に属すると考えるならば、天文学が医学に少なからず、いや、非常に大きな貢献をすることを思い出すだろう」[41]。ヒポクラテスは「気象学的因果関係」の理論を正式に提唱したが、これは非常に広く支持され、「医学気象学」として知られる医学の専門分野全体を発展させるきっかけとなった。この学問を研究し、実践する人々は「医学気象学者」あるいは「気象医」と呼ばれた[42,43]。

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