科学のウソの例

ウソつき放題の医療のほか、純粋な科学というものにも、あちこちにウソがあるわけですが、その例の一つが進化論です。もちろん何が真実かは、私ごときにはわかりません。

ずいぶん以前に学校で習った通りに、猿が人間に進化したと思いこんでいた私は、ときたま米国で「進化論を教えるなら、(神による)創造論も教えろ」という運動があるのを聞いて、「何と米国人は勝手なものだ、非科学的だ」などと思いこんでいたものです。そのうちに、なにやら「インテリジェント・デザイン」などという装いを新たにした創造論が出てくるにいたっては、「妙ちくりんなものをひねくりだすものだ」とさえ思っていました。

しかし、現在の私の考えはまるで逆になってきています。一つには科学者なるものがウソばかりついてるからですね。そして、その証拠というのも曖昧らしいです。

例えば、進化論について良く言われることは、ミッシング・リンクを100年もの間探してるけど見つからないということです。つまり、類人猿から現生人類に至るまでの途中経過が見当たらないというんですね。

マイケル・クレモについては、3年位前に面白い人がいるもんだと思っていたんですが、今回初めて訳してみました。彼の主張としては、要するに、進化論に反する例がたくさん見つかっているのに、考古学者はそれが進化論に合致しないからと言って捨ててしまっているというのです。

進化論によれば、現生人類は20万年前以降ということになっていますが、数百万年前、数億年前という時期の工芸品やら足跡やらが見つかっているというんですね。

この人はとてもウソつきの詐欺師には見えないし、彼自身が何度も繰り返すように、これらは世界考古学学会などで長年発表してきたものだというわけです。つまり、いわゆる主流派科学からのあらゆるツッコミに耐えているというわけですね。

ともあれ、ここで言いたいこととしては、科学者はウソつきだということです。ある事柄が業界内で真実だとされると、それに沿わない特異点はすべて捨ててしまう。いわば少数意見を排除し、多数決で物事を決めてしまう世界だってことですね。人類の歴史上、これまで起こってきたことと何ら変わりはないんです。

良く引き合いにだされることとしては、教会が幅を効かせていた頃は、地動説なんてのは死に値する罪だったわけで、それを主張する者というのはほんのわずかだったわけです。あるいは、アインシュタインの理論にしても最初は笑い物にされました。

そういうことです。科学的だとか非科学的だとか言うのはその程度のものでしか無いわけです。そうして、自分達のストーリーにそぐわないものは、大衆から隠してしまうんですね。「人々はどうせわからないのだから、俺たちが正しいことを教えてやる」というわけです。

昨今の主流派偽メディアやその他による検閲にも非常に似ていますね。彼らはその特定のストーリーを流布することで利益があるわけです、お金もでしょうけど、立場等も利益とみなせます。さらには、傲慢にも「お前たち大衆は何もわからないだろうから、俺たちが正しいことを教えてやる」などと思いこんでるわけですね。連中がいかに物を知らないか、無視しているかが、最近やっと私にもわかってきましたが。

そして、ひどいことには、これを信奉するあまりに、明らかなでっちあげも行います。以前にも書きましたが、ルパート・シェルドレイクのTED検閲トークで言ってたことです、「光速度は固定のはずだから、その定義に従って固定した」と英国計測学会か何かの人に言われたという話です。完全なインチキですね。

同じですね、主流派偽メディアの場合、常にロシアや北朝鮮が悪いということになっているので、そのストーリーに合わないものはすべてカットされてしまいます。それでいて「メディアの責務は実直、正確かつ公正に事実を伝えること」などと言っているのですから、お笑い草もいいところです。

まぁ、そんなふうに弱い人間のすることというのは、ジャーナリズムであろうが、科学であろうが、医療であろうが、あるいは昔であろうが現代であろうが常に同じです。そこで語られる主流ということになっているストーリーからはみ出すものがあれば、それを排除する、圧力をかけることを平気で行うわけです。

教会が幅を効かせていた頃と現代とで、人間の質というものが全く変わっていないからです。おそらく当時は、その権威の元であらゆる腐敗が横行していたもでしょうけど、現代も全く同じですね。人間性の向上というものは全く見られません。

さて、マイケル・クレモの話が本当だとすれば、現生人類は数億年前からいることになるんですが、現在の人間の脳を持っていたとすれば、たかだか数千年位で現在の技術を持つまでには発展するはずです。少なくとも世界地図が書けるようなところにはなるはずですね。

こういった話というのは、例のグラハム・ハンコックの本に出てくるようなことなんですが、それに辻褄があってきます。例えば、なぜ16世紀に正確な南極大陸の地図があったのか?氷に覆われた南極の正確な地図を描くには、ソナーが出現する20世紀まで待たねばならなかったのに。しかも、その地図には川まで書かれていた。ということは、南極は以前には温暖な地域にあったのだ。

と言った話がありますけど、大陸が移動する以前あるいは、何らかの地球の異変が起こる以前に、地図の書ける人類が存在したとしか考えられないですね。他にもあちこちからこういった地図というのは出ているそうです。

こういう傍証を知る知らないでは大違いというものです。マイケル・クレモの話だけを聞けば、戯言としか思えないかもしれませんがね。

未知のことってのは、まだたくさんあるわけです。ルパート・シェルドレイクはこうも言っていました。


「我々は既に、大体においては現実の本質を理解している。その詳細はまだ埋められてはいないが」という妄想が科学にはあります。
これは我々の社会において広範囲に広がっている信念です。
これは、「私は神を信じない、科学を信ずる」と言うような人々の信念体系といえるでしょう。
この信念体系は、今や世界中に広がっています。
しかし、科学の中心部分において、対立があるのです。一方は、
探求の手法としての科学、つまり理由・証拠・仮説・集合的調査研究に基づくものですね。
もう一つは信念体系あるいは世界観としての科学。これらのあいだの対立です。
不運なことに世界観としての科学は、自由な探求を妨害・抑圧するようになってしまいました。
それが科学的試みの活力源であるにも関わらず。
19世紀終わり頃から科学は、信念体系という面あるいは世界観によって指揮されてきたのです。
世界観とは本質的に物質主義、哲学的物質主義です。
現在では科学まるごとが物質主義者の世界観に従属しています。
私は、それを打ち破れば科学は生まれ変わるとみています。


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