トム・キャンベル:現実の本質、意識、進化 1/3

これが私が最初に字幕付けした動画です。まさに最初なんですね、なつかしい。

エビータ・オシェルによるトム・キャンベルのインタビューです。この回は三つのシリーズですが、この後もエビータ・オシェルによるトム・キャンベルのインタビューシリーズは何本もあります。

トム・キャンベルについての全投稿は/tag/トム・キャンベルにあります。

紹介

皆さんこんにちは、EBTVへようこそ私はエビータ・オシェルです。今日のスペシャルゲストはトーマス・キャンベルさんです。トーマスは科学者です。核物理学の分野で働くプロの物理学者です。巨大システムシミュレーション、複雑系の脆弱性分析、リスク分析といった先端技術に携わっておられます。

そしてまた、講演者でもあり、書籍「MY BIG TOE」の著者でもあります。TOEとはTheory Of Everything(万物の理論)のことです。

過去30年間、トーマスは意識の性質、境界、能力の科学的な探求に専念してきました現代の意識研究において、最も影響力のある専門家といえるでしょう。彼の仕事や書籍についてはmy-big-toe.comを参照してください。こんにちは、トム。ようこそ。

こんにちは、エビータ。ありがとう。うれしいです。

ありがとうございます。あなたを迎えることができ、嬉しく光栄に思います。もちろん、専門知識や知恵をくださる、多くのゲストに感謝していることと同様ですが、しかし今回は、来てくださったことに非常な興奮と特別な感謝の気持があります。

なぜかといいますと、最初にあなたの仕事を知ったのは、素晴らしくシンクロニスティックな2009年の夏のイベントでしたが、私はトロントでのあなたの一連のレクチャーに参加しました。それ以来、あなたの話は、私の人生のみではなく、私のすることすべてにとって、とても有益で、多大な影響を受けました。

なぜなら、私は「意識」に情熱を持っているからです。「意識」は、この現実の本質の拡張です。私の学んだすべてのこと、あなたがシェアしてくれたすべてのことは、私の「存在」に深く共鳴したんです。ですから、ここで、あなたの発見したすべてのこと、人々の現実や意識を拡張する方法を、ここでシェアできることは、光栄ですし、非常に嬉しく思います。あらかじめ、感謝いたします。

ありがとう。とても素敵な紹介です。

さて、今日の番組は現実の本質、意識、そして進化についてです。あなたの成し遂げたこと、つまり現実の本質の理解、についてきている多くの人はその巨大な詳細や実際的な応用について知っていることでしょう。また、あなたがどのように、この分野での研究を開始したかを。

意識研究のきっかけ

なぜなら、あなたは科学者として出発しました。繰り返しになってしまいます。というのは、既に多くのインタビューや講義で紹介されていることですが、1970年代最初から、ボブ(ロバート)・モンローと共にモンロー研究所にて、変性意識状態の研究をはじめられました。それから、誰もがあなたの仕事に気づくようになったのだと思います。そして、物理学つまり科学的方法と形而上学をミックスするというアプローチをとられている。手始めに、科学、私たちの知る伝統的な科学ですね、それよりも現実が大きいことに、いつ気づいたのでしょうか?

それは段階的に起こったのです。一つの大きな「あっ、そうか!」という経験ではありません。大学院にいたときに、TM(Transcendental Meditation~超越瞑想)というものが学内にやってきたのです。料金は20ドルとバナナでした。それだけで、瞑想の仕方、TMの仕方を学ぶことができたのです。

ある日、物理学ビルで働いていたとき~そこで大学院生として講義をしていたわけなのですが、教室に来ると、ドアに貼られたポスターがありました。こう書かれてました。「瞑想を学ぼう!リラクゼーション、睡眠が不要になる、などなど」

それが一番必要だったんです、「睡眠不要」が。大学院生、特に研究を行ってる者は、0時を回ることもあります。機械を動かしたり、データをとったりで。

「睡眠不要」が心に響いたんです。「OK。やってみようじゃないか」それで瞑想を学びました。約3ヶ月後のことでしたが、瞑想状態では、問題解決能力が高まることに気が付いたのです。物理学の問題ですが、主にはコーディングです。物理学者はプログラム作りも行います。プログラム作成時のコーディング上の問題を、瞑想状態ならずっと効率的に解決することができたんです、覚醒状態でコードを眺めているよりもね。

問題を見出し、エラーを特定することが、数秒、数分でできました。以前は同じことをするのに数日かかっていたのですが。ですから、ここには何らかの「本物」があると感じました。ただのリラクゼーションではないと。何か別の根本的に違う要素がある。もう一つの現実フレームと言えるかもしれません。

単なる物理的な何かではなく。何も無かったからです。私はソフトウェアを眺めていたわけではありません。私の前には何もありませんでした。もちろん、5万行のコードなど覚えられませんから、私の想像で問題を解決したわけでは無いのです。不可能です。

単純にリラクゼーション状態で、その状態になり、「どこに問題があるんだ?」と言うと、「ビンゴ!」それがわかるのです。明らかに通常の経験ではありません。それが私の初体験でした。「現実」はこれまで思っていたよりずっと大きいことに気づくという。ともあれ、私は瞑想を続け、「視点」、「現実の感覚」を拡張することができたと思います。それは単に睡眠不要でリラックスだけではなく、より良く物事を知覚するということです。それが初期のことですね。

モンロー研究所

もちろん、その後、ボブ・モンローと知りあい、彼の研究所で意識の研究を行うことになるわけです。それが次の大きな出来事です。私の思いとしてはこうでした。もしこれが「現実」だったら、面白いだろうと。とてもやりたかったわけです。「でも違ってたら?」。

それでも面白いと。どちらであれ、ともかく面白いと。私は、それほど確信してはいませんでした。むしろ懐疑的でした、共に働くデニスと同じく。私たち二人はボブと共に働きましたが、私達は非常に懐疑的でした。ここで起こってることは、現実と呼んで良いのか?あるいは、単に個人の心の中のこと、想像に過ぎないのか?もう一つの現実というよりも、心理学的な問題に過ぎないのでは無いか?

しかし、数年も経つと多くのデータが集まりました。多くの経験と多くの超常現象があり、それが普通のことになってきたのです。やりたいことは何でもその場でできるようになっていました。もはや奇妙な経験でも何でもなくなっていたのです。結局、これらの経験を否定するのか、それとも現実は我々が思っていたよりも「大きい」ことを認めるのか、というところまで来たのです。そういった話しです。

数年にかけて大きな進歩がありましたが最終的には、もはや疑問の余地なしまで来ていました。もはやそれは問題ではないと。私にとっての大きなブレイクとしては、私とデニスが、一緒にトリップしたことです。私達は研究所の「上」で、体外離脱状態で会いました。もちろん、我々は隔離されたブースにおり、別々のマイクを使っていました。

私達は体外離脱状態で、経験していることをボブに報告しました。いわば同時並行的なプロセスです。その現実で何を経験しているかを話すという。それが、当時のカセットテープに録音されました。ともあれ、我々はそのような経験をしました。我々は完全に隔離されていたのです。何のコネクションもありません。相手方を聞くことは全くできませんでした。

その後、二つのテープを同時に再生してみると、デニスと私が会話をかわしていること、お互いの問いに答えていること、同じものを見、同じ人たちに会っていることがわかったのです。明らかに同じ場所にいました。

その時点で、私はもはや。。。もはやそれが「現実では無い」とは思わなくなりました。もちろんそれ以前に「それが現実である」ことを示す多大なデータがありましたが、我々の経験が偶然に起こることは万に一つも無いわけです。

しかし、知的な人なら、「いやいや、そんなこと感情的には受け入れられない」と思うでしょう。知性的には、それが現実であることがわかります。しかし、感情的には違います。感情の深く、「存在」のレベルでは。それは、経験として否定することのできない形、説明できない形で現れたのです。

その時点から、「現実かどうか」という問題ではなく、「どうなっているのか」という問題になったのです。私は科学者ですから、「どうなっているのか」は私の担当です。そこには科学が必要です。論理が必要です。「ランダムに起こったこと」では意味がありません。では、その論理は何か?ルールはあるのか?その限界は?何ができて、何ができないのか?どうして機能するのか、なぜ機能するのか?どこから来たのか?我々はどうしたら「出会える」のか?

科学者として、これらが私のゴールになりました。つまり、論理的、科学的な理解です。つまり、この「大きな現実」は一体何なのか?それを、この40年近く追求しているわけです。

そこが、私があなたの仕事について素晴らしいと思うところです。あなたは単に科学者というのみではなく、特に物理学者です。伝統的な物理学の「価値」としては、現実の解釈方法が固定されていて、それを変更することは難しいのではないでしょうか。まして形而上学に変換するなどということは。しかし、あなたはトップ物理学者です。核物理学者です。と、同時に驚くべき経験をされています。おっしゃるように、単に知的なものではなく、経験的なものになったということですね。

典型的な科学者であれば「体外離脱?ウソだろう?」と言うところでしょうが、あなたは経験しています。現実なのです。どうして現実になったのか?おっしゃるように、「飛び込んだ」という。そこが知りたいところです。なぜなら、多くの人はそのような経験がありません。私にとっても、未だに「知識」の状態です。私も他の方もそのような経験ができれば、非常な力になるでしょう。

他人への説明は難しい

さて、トム、多くの人が持つ最初の疑問だと、確信しますが、あなたの個人的なすべての経験や、すべての実験結果から、「現実とは何か?」を、どう説明することができるでしょうか?それは、とても時間がかかりましたね、論理的な文脈にあてはめるということは。本能的に、どうなっているのかを知っているということはあります。

他人に説明するということ論理的に説明するということは、全く違うことなのです。非常な時間がかかりました。どうやってこれを説明しようか?それができれば、他人も理解することができる。

経験に照らして、多くの人が経験でき、どうなっているのかを知ることができる。それらの経験で、瞑想の方法、遠隔透視の方法を知ることができる。心でのヒーリング方法を知ることができる。しかし、何が起こっているのかを知ることはできないし、どうなっているかもわからない。どうしてそうなるのかも。ですから、「何が起こっているのか」を明確にするには、かなりの時間がかかりました。

私がしたことは、基本的には「大きな現実システム」の中の科学であること。その時点で、ボブの研究所で数年経過していましたが、基本的に望むときはいつでも体外離脱できるようになっていました。たまに起こったことではありません。

そして、そこでの実験を計画することができました。ここで実験するのと全く同じように。その実験において、変数に着目し、それを変化させ、結果がどうなるかを見てみる。時間をかけるかどうかの問題です。一般の科学と同様に。非物理的な「大きな現実フレーム」の中でね。最終的には、この現実フレームにいるのでも、もう一つの身体フレームいるのでも、遠隔透視でもなく、常に「大きな現実」の中にいることに気がつくのです。ですから、二つは同時に可能です。大きなスペースの中にいるのです。それは簡単になります。思うほどには難しくはありません。

ともあれ、実験はそのように開始し、最終的にはどのように機能するかを理解しました。つまり、論理的・科学的にです。しかし、他人に説明することが、まだうまくできませんでした。なぜなら、それを「英語」に変換しなければならないから。

もちろん、英語に変換しましたよ。物理的現実の出来事の説明を目的として進化してきたのが英語です。その目的のために進化してきたのです。物理的現実の作用を説明するための言語は、この現実の「外」を説明するのには適当ではないんです。だから、適当な言葉を見つけるのに苦労しました。ただ、本を書き始めて、多くの助けを得ることができました。

My Big TOE

何かを考えたとき、どのように明確に伝えるかを考えますね。あなたも書き手ですね。どのようにそれを「言葉」にするかを考えるでしょう?ひどい文章のままか、明確な文章になるのか、選択しなければなりません。それが役に立ちますね。私は、他の人たちに「これどう思う」と、パスを回しました。彼らは基本的に、あきれ、手を振り、「理解できないよ」と言いました。わかるでしょ?

そして、質問をしてきました。だから、もっと書き加えることにしました。疑問に答えるためにね。さらに質問です。さらに追加です、何十もね。この話しに関心のある人たちに、私は継続的に、私のTOEを送り続け、「どう思う?」と聞き続けました。「不明点は聞いてくれ」と。そして書き続けました。最終的に思いました。「なんてこった!なんて量の本なんだ!」「なんてこった!ものすごい量!」「こりゃ三冊分の量はあるぞ!」だから三部作になっているんです。

 

一つの巨大な本にはしたくなかったので。900ページ以上ありますからね。三つに分けたんです。そんな風にできあがったんです。多くの人は、この本を読むと、「私にだけ語りかけているみたいだ」と言ってくれます。個人的なものと思えるらしいんです。なぜなら、人々の疑問に答える形で作ってきたからです。誰もが同様の疑問を持つわけですね。助けてくれる他の人の疑問に答え続けていれば、個人的なものになりますよね。もちろん、一部の人にとっては、冗長に感じるようです。私の言うことを一方的に捉える人もいれば、それをしない人もいます。違った方法でとらえる人もいます。

読者として、多くの人をできるだけ含めたかったんです。そうすれば、誰もが理解できる可能性があります。ですから、4つもしくは5つの方向性をとったことは認めます。そうしなければ、一部の人を除外することになるということがわかったからです。

私もそう思います。それは良い教師の印だと思います。なぜなら、誰もが同じ形で学べるとは限らないからです。繰り返しは、教示の技術です。同じことを同じ形で言うのではなく、違う形で言うと。別の人々は別の形で習得するからです。

異なるメタファーが必要ですね。人によっては、違うメタファーに馴染んでいる場合があります。ですから、異なる文脈に入れることが必要です。人によっては理解できるし、他の人はできません。それが、このような本になった理由です。この本はタダです。買う必要はありません。

この会話は販売セールスではないんです。Google Booksほか、タダで読めるサイトがあります。海賊サイトも含め。Google Booksに行って、ダウンロードするなり、オンラインで読むなりしてください。買う必要はありません。

買っても大したことはありません。できるだけ安い値段にしました。お金儲けが目的ではなく、情報の流通が目的です。それらのサイトに行ってみてください。youtubeに行けば、たくさんの写真やビデオがありますから、この話題を追求したい人は誰でも利用することができます。タダで利用可能です。

その点もあなたの仕事が素晴らしいと思う点なんです。知りたい人にとって、多数の資料が既に用意されていること。この物理的世界を超えた現実を追求し始めることができる。

あなたの情報を広く知らしめようという情熱、それにお金の有無に関わらず可能な限り利用可能にしようという使命感。ありがとうございます。多くの人が感謝していることと思います。と

ころで、多くの人が「あなたは現実的ではない」と言ってみたり、親が子供に「現実的になりなさい」と言ってみたり、そんなものは人生のスキームではありませんよね?

現実とは客観的なものではない

まったくです。「現実」という言葉なんですが、現実とは客観的なものではないんです。現実とは主観的なものと考えています。科学は、現実が客観的なものであると、熱心に信じていますが、だからこそ、彼らは「ある場所」に行くことができないのです。

それは「客観的なもの」でなければならないから。「科学」はそのように考えます。科学のキーポイントは「科学的な方法」にあるからです。科学的な方法が、科学を迷信から解放してきたことは事実です。多くの迷信や信仰がありますが、基本的には「科学的な方法」によって、科学はそれらから分離してきたのです。

仮説をたて、実験で検証し、間違いか正しいかを知る。誰もが、同じ実験を、どこでも行い、同じ答えを得る。これが「現実は客観的である」という宣言です。客観的な世界では、すべての実験は同じ答えが同じように得られます。しかし、「ここ」は客観的な世界ではないのです。この「現実」は客観的なものではありません。

そして、科学者達は、これらの特定の「事実」を扱うのに、非常に困難な時間を過ごしてきました。なぜなら、彼らの土台である「科学的方法」こそが、科学を科学たらしめているからです。それが科学の地位というものです。これをとりさってしまうと、舵の無い状態になってしまう。

だから彼らは防御しようとします。客観的現実原理主義者は、それ以外を見ません。他に存在する可能性のあるものを否定してしまうのです。それが問題の本質です。現実は「客観的なもの」では、全くありません。そして科学は、その制限に向かって走り続け、説明不可能なものにたどり着くわけです。彼らの視点自体が制限されていますから。

物理学の説明不能問題

例えば、量子力学です。1920年代半ばのことですが、87か88年前ですね。二重スリット実験によって、「現実は客観的ではない」ことが示されています。現実は統計的なのです。確率論的なのです。それが現実の本質です。現在、我々は知っています。原子の世界について計算を行うとすれば、それらは、客観的な塊の集合体ではなく、確率分布として扱わねばならないことを。これが量子力学ですね。科学全体が立脚しているものは、客観的な粒子などではなく、確率的統計的分布なんです。このことを、その時点で知っていたわけです。

今では、宇宙がビッグバンで始まったということも知っていますよね。ビッグバンの原因は何でしょうか?どうやってそれだけのエネルギーが一つのボールに集まり、爆発して今の宇宙になったのでしょう?それが何であれ、非物理的なものであることは明らかです。この物理的宇宙はその後にできたものだからです。そのエネルギーボールが爆発する以前は、この物理的宇宙は存在しませんでした。その小さなボールは自分自身を作れたのでしょうか?

これは哲学的問題ですね。自己矛盾というものです。自己矛盾です。物はそれ自身を作ることはできません。物は、何か他の物からのみ作成可能です。ビッグバンが物語ることは、他に何かがあったということです。それは物理的なものではありません。なぜなら、「物理的」とは、この宇宙を指し示す言葉だからです。物理的な現実とは、この宇宙の中のみであり、それ以外は物理的なものではありません。つまり、我々には非物理的な「根源」が存在するわけです。そこにたどり着いた物理学者は、それを否定しようとします、基本的にね。

私は進み続けますが。科学ではこういったことが、あらゆる場所であります。彼らは説明不可能な問題にぶつかるんです。彼らの視点が極めて制限され狭いからです。

アインシュタインの壁

その点を聞きたかったんです。アルバート・アインシュタインは壁にぶつかりましたね。なぜなら、彼は一定の深さ、レベルの考えにとらわれていたからでしょう?

その通りです。彼は壁に直面しました。彼は20年か25年のあいだ、自身の理論を追求していました。統一場理論です。TOE(Theory Of Everything~万物の理論)を確立しようと。彼のTOEは物理的なものです。Big TOEとは異なります。こちらは、物理的・非物理的なもの、客観的・主観的を含む万物の理論です。
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ともあれ、彼は壁に直面しました。そこで、「意識」の問題を何とかしなければならないと。二重スリット実験はそれを示しており、量子力学は意識の問題をつきつけていたからです。

彼らのやり方は同じです。「OK、どうする?」「どう数値化する?」「どうやって論理的な理論に入れ込む?」

彼らは壁を叩き続けました。彼らの思いとして、それらは客観的でなければならず、物理的でなければならなかったんです。しかし、求めるものは、そこからは得られなかった。ちょうどこれは、部分集合のようなものです。部分集合は上位集合を定義することはできません。上位集合とは、ビッグバンを起こしたものですね。これは、物理的現実からは見えません。だから彼らは行き詰ったんです。彼らに必要だったのは、二つの大きなパラダイムシフトでした。

パラダイム・シフト

科学では大きなパラダイム・シフトがありました。例えば、ここが宇宙の中心という概念から、太陽系の一員に過ぎないという。そして、太陽がその中心にあるという。あるいは、ニュートン力学が相対論や量子力学により否定されたように。それぞれで大きなパラダイム・シフトを経験し、古い概念は単なる「近似」になりました。例えば、「地球は平ら」という概念を持つとします。この概念は、近距離においてはとても便利な近似的概念ですね。だから、「地球は平らではない」ことを知ったとしても、ビルのレイアウトやら何やらは、「地球は平ら」モデルで行われるわけです。「地球の丸み」は無視されるわけですね。近距離では、その丸みなど微小なので、誰も気にしないわけです。ですから、「地球は平ら」モデルは充分な「近似」になります。だから今でも用いられているんです。

ニュートン力学が置き換えられても、捨てられませんでした。99%の物理学は相変わらずニュートン力学で行われているんです。現在では、それは近似に過ぎず、正しく無いことがわかっています。小数点以下5位、10位、20位では。だから、相対性効果は無視されます。量子力学効果もね、マクロスケールでは。ですが、ニュートン力学は間違っています。ただの近似にすぎません。客観的な世界についても、同じことが見出されます。客観的世界はただの近似にすぎないのです。我々は客観的な現実にいるわけではありません。この現実の領域では、不確実性というのは小さいんです。

この現実を定義するルール集合は、「何が起こるか」について明確だからです。近似的な客観的現実というものがあるのです。だから、レベルアップして次のパラダイムに行き、後ろを振り返れば、「この客観的現実なるものは、もっと大きな現実の一部にすぎないのだ」ということがわかるんです。

誰もが「この現実が客観的ではない」と気がついた後でも、相変わらず物理学をやりますよ。それは「我々が住んでいると思われる」世界だからです。ですから、「飛ぶための技術」などは相変わらず使われるわけです。これはただの近似なんです。「大きな現実フレーム」を見ることができれば、これが単に部分集合に過ぎないことがわかるんです。先ほどのあなたの質問、「現実とは何か」に答えてませんでしたね。それは「意識」です。意識こそが基本的な現実です。

現実はデータに過ぎない

意識とはデジタル情報システムです。意識とは単なる情報です。我々が現実と呼ぶすべてのものは、単なる情報です。あなたの感覚器官が情報を集めていることはわかりますよね?五感はデータを集めているわけです。そして、五感が物理的現実を定義しているわけです。五感をとりさってしまうと、意識は無効になります。何も見えず、聞こえず、感じず、嗅げず、味わえない状態では、意識は真っ暗な無効空間に漂うことになります。

ですから、あなたの現実というのはデータにすぎないんです。あなたの集めているデータです。データは細切れの塊としてやってきます。光子として、神経へのパルスとして、あるいはニューロンへ細切れの意味は「デジタル」ということです。つまり、デジタル情報なんです。

次のステップとしては、それらのデータが客観的な世界から我々の五感に到着するというより、意識とデータが我々へデータストリームとして流れてくるのです。そしてそのデータストリームを解釈したものが、物理的現実です。

簡単に言えば、意識とは、つまり現実とは意識のことなのですが、意識とは情報です。デジタル情報フィールドです。情報こそが基礎なのです。現実の世界の。

さて、この物理的現実とは何でしょうか?なぜこの現実があるのでしょう?この物理的現実とは、「仮想現実」なんです。ちょうど、「World of Warcraft」や「SIMS」のようにね。それらの仮想現実のマルチプレーヤーゲームのような。

それが真実なんです。物理学はそこにたどりついているのです。その様々な方面において。そのような種類の次の大きなパラダイム・シフトが物理学に起こりつつあるわけです。

(Edward) Fredkinは1992年に論文を発表しました。現実とはデジタル情報であると。我々はシミュレーションの世界に住んでいるのだと。この考えを彼は物理学フォーラムに紹介し、全く新しい物理学の部門、デジタル物理学となりました。

これは非主流派の考え方ですが、しかし確実に物理学コミュティに(影響を及ぼし?)ています。これ以降、十人以上の方が同じ結論に達しているのです。別々の観点から。そして今や、物理学論文やジャーナルなどが、この現実が仮想現実であることを議論しだしており、その方が物事をうまく説明できると、物理学者は理解しはじめています。もしこれが仮想現実であれば、ビッグバンの向こう側をうまく説明できます。

シミュレーション

シミュレーションであるなら、スイッチを放り投げ、起動ボタンを押したということです。宇宙の膨張の仕方も説明できます。客観的現実の観点からは、宇宙はコンスタントに膨張しています。むしろ加速しているのですが、何に向かって膨張しているのでしょう?膨張して何になるのでしょう?

客観的現実では、膨張した後に別のものになることはできません。それが物理学者の問題です。彼らにとっては宇宙以外には何も存在しないからです。デジタル現実あるいは仮想現実の見地からは、単に数値が増えるだけに過ぎません。単にコンピュータが大きな数を作り出しているにすぎないのです。膨張してどうなるというわけではありません。こうして、多くの問題が解決できるわけです。量子論の問題が解決できます。なぜ粒子が確率的・統計的なのか。なぜなら、現実が確率的・統計的だからです。それらは単に情報にすぎないのです。

誰かが計測を行って、情報を集めると、粒子を観測する結果になります、それまでは確率的分布であったものが。多くの科学に関するミステリーが解決されます。そのうえ、科学のミステリーのみではなく、様々な問題の理解が可能です。

体外離脱とは何か、予知夢はどこから来るのか。遠隔透視がどうして起こるのか。どうして心によるヒーリングが起こるのか。

心が治癒する

超常現象とは言いがたいが、しかし依然としてそうであり、社会的に受け入れられていることとして、プラシーボ効果があります。これは一体何でしょうか?「素晴らしい薬だよ」と伝えれば、実際に治ってしまうのです、そう言われなかったグループに比較して明らかにね。実際によくなってしまうのです。

客観的現実であれば、こんなことは不可能です。何を伝えようが、客観的現実においては無関係のはずです。生体内で客観的現実が進行しているのであれば、心で何を考えようが結果は変わらないはず。明らかな誤りです。

小さな確率性しか持たない実験、近似値に近い結果になる実験というのはあります。しかし、他の分野、心理学、経済学、社会学、これらは多大な不確実性のある状況を扱います。同じ実験を、違う場所で、違う時間で行えば、異なる結果が生じます。全く客観的ではありません。しかも、実験の当事者が、その実験が何をしているのか知っていて、異なる結果を得るのです。だから二重盲検法が必要になるわけです(訳注:実験者も被験者も内容を知らない。特に新薬のテストで行われる.)。でなければ、同じ結果を得ることはできません

さて、客観的現実では、そのようなことが起こるのです。実験者が何を知っていようと関係無いはずです。もちろん、現実はそのようなものではありません。このように、「これは客観的現実ではない」ことを示す、たくさんの事実があるわけです。統計的であり、確率的であるという。

そして、心理学、社会学、経済学、医学において、それらを利用できることを理解しているのですが、しかし絶対にそれを認めようとしてはしないのです。それは客観的ではないからです。科学者は「それは本物の科学ではない」といいます。ソフトサイエンスである。ハードサイエンス(自然科学)こそが本物の科学であり、他は科学ではないとねでも、他のものの方が明らかに良い結果になるんです。

プラシーボ効果が無ければ、薬剤のマーケティングなどできませんよ。プラシーボがなければ効果などありませんからね。しかし、プラシーボ効果こそ実際に効果があるのだ、それを使おうじゃないか、なんて決して言いませんよね。

しかし、これは隠しておかなければ、お金になりません。実際に使っているのにね。患者の心こそが治癒の原因なのに。だから、それを認めない。認めれば科学を踏み外すことになります。皆が恐怖します。だから無視するんです。

でも、トム、それは私たちが熟慮しなければならない問題だと思います、こんにちの大きな社会的スケールの中で。もちろん、多くの人はしません。が、そこには大きく深い意味があるわけです、我々の人生にとっての。例えば、それを知らずに大量の薬をとることで、様々な形でバランスを崩すことがあります。(訳注:わかりにくいです)日常生活における細々とした物事にそういった研究が影響を及ぼしています。

多くの方がそのような「研究」に疑問をはさみません。多くの方がこれらの研究結果を信じこんでいるわけです。「この研究はこう言ってるんだからその通りだろう」などと、状況や文脈を考慮しないわけです。我々の意識が客観的なのか、客観的でないのかという点です。

それぞれの現実フレームに生きている

あなたのもたらした素晴らしい情報を元に、より実際的になる必要がある、その意味は非常に大きいと思います。その方面については、たくさんの質問がありますが、まず最初としては。。。

様々な状況において、人々は「僕は客観的だ」などと言います。自分は客観的だとみなしたいのです。物理的現実であろうが仮想現実であろうが、人が客観的であることが可能だと思いますか?

まさか我々は客観的に現実に生きているわけではないし、客観的な人間でもありません。そう信じてるだけです。男の方が女よりも確信してると思いますが。

ともあれ、我々は、自身が客観的な世界に住む理性的で論理的な存在だと信じています。ただの文化的信念です。誰も説明できません。自身の文化から受け取っているだけです。その一部だからです。

我々は、それぞれ自身の現実フレームに生きているのです。すべての個人は自身の現実を持っています。すべての個人は、彼が受け取ったデータを解釈しなければなりません。これは明らかですね。あなたの感覚器官でデータを受け取ったり、他人と関わりを持ったりする、それはすべてデータです。あなたがどう思おうが、解釈の仕方はあなたの経験に根ざしています。何を知ってるか、理解しているか、何を恐れるのか、何を信じるのか。これらすべてが、データの独自解釈に影響します。

だからこそ、5人が同じ交通事故を見ても、証言が異なるんです。それぞれが、データについて別の解釈をするからです。我々は、我々の環境について、それぞれ異なることを知覚しています。我々の経験データベースに基づいてね。ですから、我々はそれぞれ自分の現実を生きているわけです。「男は火星から、女は金星から」とかね (訳注:ジョン・グレイ著「ベスト・パートナーになるために―――男と女が知っておくべき「分かち愛」のルール  男は火星から、女は金星からやってきた」のことと思われる)。

 

それぞれが物事を自分なりに解釈するのです。結論にいたる方法は人ぞれぞれです。ですから、例えば誰かが私に何かを言ったとして、それを「無礼だな」と思ったとしても、無礼に扱ったことを意味するわけではないのです。単に私の解釈に過ぎません。

我々は個々人の現実を生きているのが事実なのに、基本的な事柄については合意されていると考えていますね。しかし、それらはすべて「近似」でしかありません。客観的現実はどこにあるのでしょうか?

OK、客観的現実は、いま目の前にあるこの机です。客観的です。この部屋にいる誰もが、私の前に机があることに一致するでしょう。ところが、これは近似的客観性なんです。そこには、微小な不確実性があります。机には体積がありますね。体積には微小な不確実性があります。長さも微小に不確実です例えば、100人の科学者に机の長さを計測させたとすると、100通りの答えが得られます。「もっと正確に!」というと。。。「じゃぁ、この机のヘリはどこ?」と問われるでしょう。ヘリには分子の塊がありますが、それは常に動いています。いたるところにあります。では、長さの定義は?何も無いんです。机でもブロックでも家でも。客観性はありません。計測できません。

「この長さ、プラス・マイナス」「この重さ、プラス・マイナス」「この体積、プラス・マイナス」プラス・マイナスの小数点以下5桁、10桁は器具の正確性によりますが、でも、そんなレベルの小数点は気にしませんよね。ニュートン力学と同様に無視します。充分だからです。測量士は、「地球は平ら」モデルを採用します。(地球の丸みは)無視されます。充分だからです。これは客観的現実と同様、主観的なものは無視されます。統計的・確率的なもの無しに理解できます。客観性の中ではね。統計性無しに記述することはできません。統計性が微小であれば、近似的に客観的なのです。

もちろんそれは、客観的であることを意味しません。依然として統計的なのですから。心理学や医学の分野を考えてみると。。。この薬は効くのか否か?ここには、非常に大きな不確実性がありますね。このクラスの子供が大きくなったら、賢く創造的になるのか、それとも退屈な人間になるのか?大きな不確実性がありますね不確実性があるなら、客観的ではありませんね。

大きな統計性と大きな確率性があります。あなたが重要と考えるほとんどのものは、不確実なのです。客観的事物というのは、ただの「背景」なんです。机、ブロックなどの物です。「いいじゃないか、物は大事だよ、家を作ったり、車やテレビの材料だったり、インターネットでskypeができたり」。

しかし、最も重要なのは我々の人生です。大事なものは関係です、思いやりです。愛です。愛情です。シェアすること、子供、親。それらが最も重要なものです。物ではありません。そして、重要なものを見てみれば、それらは非常に不確実なものです。ですから、我々人間にとってのすべての「最も重要なこと」というのは、このカテゴリに属するのです、「客観的ではない」というカテゴリに。

とても面白いですね。文化的信念として、これらの理論・考えを持っています。現実は客観的であり、我々は論理的であると。そして、すべてが重要なものであると。そうではありません。

信念に捕まったまま

しかし、相変わらず「客観的現実」を手放しません。我々の環境は全然そうではないのにね。「誰と結婚するか」「子供を何人持つか」。。。。これらすべての質問は、全然客観的ではありませんね。根本的には、我々は主観的な世界に住んでいるのです。

「物」にこだわっている限り、客観的世界なのです。我々の世界は主観的でなければならないのです。我々はそれぞれが独自の現実を生きているからです。我々が得るデータからは得られません。「僕は客観的な世界にいるし、僕は論理的だ」という人がいたとします。しかし、論理的であることは不可能なんです。すべての情報を得ることはできないから。ほとんどが確率的な世界に生きているのであれば、物事は不確実です。論理的にはなりえません。論理的ではない、演繹的な感覚ではね。

演繹的にはなりえません、確率的な世界ではね。我々のほとんどは不合理で、論理というよりも単に信念にしたがっているのです。論理にかけられるものは、信念の確かさでしかないのです。信念はそのようなものと考えられているからです。この「信念」というものが問題なんです。これが「大きな現実」に生きることを阻む、大きな問題の一つです。

科学者は、「客観的な現実」という信念を持つからこそ、理解ができないのです、大きな知覚、大きなパラダイムを得るべきことを。その信念に、捕まったままだから。ほとんどの人が同じように捕まったままです、科学者に限らず。この現実が、仮想現実、SIMSのようなマルチプレーヤーゲームであること。これを認識できないのは、それらの信念によるものです。「私はSIMSのキャラクターなの???」その通り!そういったところです。

でも操ってる他の人はいません。あなたが操っているのです。あなたがマウスを持つプレーヤーなのです。それが「意識」です。意識こそ根本原理です。これは架空のものではありません。他の人ではなく、あなたが意識レベルでプレイしているのです。それが根本原理です。

これは素晴らしいですね、力づけてくれます。少なくとも、この現実がどのように動くかという理解をすれば、我々の人生を改善できるはずです。もちろん興味を持つ必要がありますが、練習し、質問すれば、より深くなることができます。「僕の世界はこの箱の中だけだ」という考えから抜けだして。あなたがおっしゃることは心底信じられます。

つまり「我々にはそれぞれの現実がある」という理解ですが。それはそれだけで役立つものです。なぜなら、それぞれが、「皆同じように考え、同じ理解をしている」と思いこんでいるからなのですが、事実は違います。ここには70億の異なる現実が存在し、共に同じことを話していると思いこんでいるのですが、そうではありません。再度、それが人生にとって意味するものは非常に大きいです。

さて、仮想現実の話しに戻しますと、それ理解する人もいますし、「なんだって?僕はビデオゲームの中?」という人もいます。多くの方は、映画「マトリックス」を知っていますよね。それがどのような仕組みであるかという。これは非常に理解の助けになりますね。

仮想現実の仕組み

それと、かつてあなたがレクチャーで示された「例」を、とても気に入っています。「もし森の中の木が倒れたら、音がするでしょうか?」この現象についてお話しくださいましたね?再度うかがってもよろしいでしょうか?

以前にその例をよく使っていました。誰もが「音とは何であるかの定義」にとらわれてしまうようです。そこは問題ではないんです。「誰も見ていないときに、木が倒れると、その音はするのか」。答えはこうです。木は存在しないし、森も存在しない。音などしません。なぜなら、木も森も存在しないからです。

仮想現実の観点から見てみましょう。二重スリット実験と同じように、この現実というのは、存在する理由が無ければ存在しないのです。World of WarcraftやSIMといったゲームでは、ドアの向こうに何があるかは、それを実際に見るまでは存在しないのです。World of Warcraftでは、誰かが山を見るまでは山は描画されていないのです。

木や他のものに関わっている者がいなければ描画されません。そうでなければ、サイクルの無駄になります(訳注:コンピュータが無駄に働くということ)。描画というのは、誰かが「見る」ために行われるのです。誰かが振り返ったり、見たり関わったときに描画されるのです。仮想現実はそのような仕組みです。そうしなければリソースの無駄だからです。そして、その仕組みとしては。。。現実は確率的であること。

そして、二つのルールがあります。一つは歴史一貫性が無ければならないこと。物をジャンプさせまくることはできません。あるいは、今日カナダにいて、ドアを抜けるとマイアミにいることはできません。現実フレームの中では、「ジャンプ」することはできません。歴史的一貫性が一つです。

二つ目はルール集合に従うこと。ルール集合とは何でしょうか?ルール集合がSIMSをSIMSたらしめています。SIMSのキャラクターは100フィートジャンプすることはできないし、壁を透過することもできません。ルールがあります。これはルール集合の一部です。我々の仮想現実におけるルール集合は「科学」と呼ばれます。科学者は多大な時間をかけてルールを探求します。

これらのルールは数学的に表現され、それらは少数の基本的な「関係」に帰着されます。物どうしがどのように関係するかという。「物」はこれらのルールに従います。そして、何らかの結果になります。すべての電磁気はマックスウェル方程式に帰着されます。ご存知かどうかわかりませんが、すべての電磁気フィールドというのは極めて巨大なものです。それらは、4つの基本的なマクスウェル方程式に帰着されます。これがルール集合です。百万ものルールの必要はありません。ほんのすこしで良いのです。物どうしの関わりあい方です。

だから、我々は100フィートもジャンプすることはできないし、壁を通り抜けることもできないのです。ルールがそうなっているからです。この二つです。歴史的一貫性とルールに従うということです。論理的に言えば、実際には歴史的一貫性も、ルールに従った結果なのですが、わかりやすさのために二つとしています。

木の一貫性

さて、木の話しに戻しましょう。もし、写真を撮るなど、その木に関わった者がいないのであれば、その木はこれまで描画されていないことになります。たわむれに描画されることはありません。もし、そこにリスがいれば、彼のために描画されることはあります。とりあえず詳細には立ち入らないでおきましょう。人が森に足を踏み入れ、そこに描画されたことの無い木があったら、どのように描画されるのでしょう?ルール集合にもとづいて描画されるはずですよね。

浮かぶ石など無いはずです。ルール集合に従わなければ。そして、一貫性がなければなりません。最初に外から森を見たはずです。一貫性が必要ですから、その中にはヤシの木なんかありません、デンバーではね。ありえません。ヤシの木が育つには緯度が高すぎます。「ありうる」ためのルール集合と一貫性です。しかし、この二つの制限に従うのであれば、数千もの可能性が存在するのです。さて、数千の可能性のうち、どれかと言えば、それはランダムです。いずれも、ある程度の可能性があります。その可能性の結果を見ることになります。

森の中に入るとします。たまたま「死んだ木」を見るとします。その木はまだ立っています。たぶん、まだ立ったままなのでしょう。今現在そのような状態です。さて、男が死んだ木を見たとします。立ち去り、5年後に戻ってきます。同じ森の同じ場所に、倒れた木があります。

さて木は倒れてなどいません。立ったままの可能性があるから、それが描画されたのであり、倒れた可能性があるから、それが描画されたのです。そのあいだ、誰もそこにいなかったのであれば、描画されてはいなかったのです。二つの状態しか描画されてはいないのです。そのあいだは描画されていません。描画する必要が無いからです。誰も見ていない、誰も経験していのであれば、シミュレーションにとっては、描画する必要などないのです。

男が森に入り、死んだ木を見、森から出ていき、急いで引き返し、もう一度見るとします。再度、死んだ木を見ます。その木はかつて描画され、この現実フレームの一部になったのです。

一貫性がなければいけません。木を見た後、再訪してみると、木はなくて石ばかりだったら、一貫性がありません。いったん現実になったら、現実のままになるのです。量子力学の二重スリット実験と同様に。いったんスリットを粒子が通りぬけるのを観測したら、「おっ、粒子が通りぬけたな!」粒子のままです。粒子になったら、その時点から粒子のままです。観測するまでは、確率的分布のままですがね。科学者、物理学者が誤解しているのは、「粒子の確率的分布は、微小な世界にのみ適用される」と思っている点です。

マクロな世界には適用されないと。微小な世界だけ、といったアホな考えばかりしているのです。関係ありませんね。科学は科学です。ある物の動き方がそうでなのであれば、すべてがそう動くはずです。同じことです。ですから、ひとたび「立ったままの死んだ木」を見たならば、それが現実になるのです。計ることもできるし、もう一度行けばそれがあります。

さて今度は、その木を見たとして、いえ特に気にかける必要はないんですよ、森を散策するだけで。立ち去り、一ヶ月後に再訪します。どうだったか覚えてないですよね。構いません。人生で特に重要な意味は無いので。ともあれ、一ヶ月後に戻ってくると、木は必ずしもあるとは限りません。あるかもしれないし、無いかもしれない。木を見る可能性がちょっと増えただけなんです。少々曖昧な記憶なので。

それほど強くないので、他のものを思いだせないのです。だから、その可能性は他よりも高いのです。「死んだ木」を見ないかもしれない。別の言い方をしましょう。男が死んだ木を見て、その写真をとり、森から出て素早く戻ると、熊が彼を食べる。カメラは(訳注:不明)。もう証拠は無いのです。

1時間後、誰か別の人物が来て、森を歩くと死んだ木を見るでしょうか?見ないかもしれない。さて、未来に戻ってみます。この現実についての何の情報も無い時点に戻ります。すべての可能性におけるランダムな描画の時点に戻ってみます。結果は死んだ木ではないかもしれません。常緑樹かもしれません(訳注:よくわかりません)。現実には客観性は無いのです。

心が事物に影響を与えうる

物はそれ自身で存在するものではないのです。我々の現実が創りだしたものなのです。そして我々が発見した面白いこととしては。。。あなたの意識があなたの意図にフォーカスすると、あなたが何を見るか、その可能性に影響するのです。換言すれば、我々は未来に実現する可能性のある現実を持つのです。すべてに可能性があり、ある程度の統計性があるのです。実現するかどうかのね。それを明言するのです。

我々の意図が可能性を変更するのです。可能性は高くなることも、低くなることもあります。その「分布」に気づけば、特定の結果を得る可能性が高くなります。そこにフォーカスすればね。それが、プラシーボが効く理由であり、肯定的思考が効く理由でも、否定的思考が効く理由でもあります。その類のことが説明できます。心の状態が治癒をもたらす理由です。

PEAR研究所(Princeton Engineering Anomalies Research)は、プリンストン大学の工学・物理学の研究所ですが、彼らは(ルールからはずれた)例外を研究しました。彼らが発見したことは、心が事物に影響を与えうるということです。サイコメトリクス(psychometrics)と言われるものです。ランダム数の分布に影響を与えるなどです。もちろん影響が可能なのは、その事物にとって自然な範囲のみです。

しかし、あなたの意図によって、多大なバイアスをかければ、それが計測可能になるのです。彼らは、あらゆる種類のミステリアスな事象を経験したのですが、厳密な科学的方法によって何度も再現しています。彼らは彼らの心によって事物に影響を与えることができたのです。大学院生でさえそれができたのです。当然のことながら、彼らには理由がわかっていません、「どうしてそうなるのか」という。

単に経験しているだけです。もちろん、私の理論はそれを説明できます。意図が可能性を変更するのです。さて、これを言う時が来ました。あなたはあなたの意図に気をつけなければいけません。考えること、感じることがあなたの現実を創りだしているのです。あなたの住んでいる個人的な現実をです。他の人々にシェアしたもので、可能性を変更することができるのです、何が起こりそうかという可能性をね。

だから、心によって癒されることもあれば傷つくこともあるのです。良い研究にも悪い研究にもなります。その研究の結果にどのようにコミットしているかによって。答えの可能性が変わるのです。それがこの世界の仕組みです。

エゴと恐怖を追い払う

最初にすべきことは、あなたの心を良く知り、エゴや恐怖を追い払うことです。これらは、機能不全をもたらすからです。機能不全の現実、機能不全の物をもたらします。今に生きる、今ここ、愛に満ちる、思いやり。これらによって、我々の現実は最適化されます。この現実における我々の存在が最適化されます。これはまるで、クリシュナ、仏陀、マーチン・ルーサー・キングのようですね。兄弟愛、思いやりを持ち、恐れとエゴを手放せ。最終的には形而上学になります。物理学が今は形而上学を説明するのです。形而上学が物理学を説明するのです。

これらはスペクトラムの両端になるのです。哲学やハードサイエンスは基本的に、より大きなものの部分です。「一つの大きな理解」です。

興味深く、実際の応用において非常に傑出していると思います。これを理解することにより、可能性が開けること。我々がこれらを自身で作り出し、責任があることを明確にされました。いまや、私たちはそれを把握する段階にきています。今この星の上で覚醒するのか。進化的な観点を得るのか。その準備はできていると思いますが。要するに、その時が来つつあります。我々が出来事を作り出し、責任をとらなければなければならない、自身の現実を作るために。キーワードは「意図」です。それを理解しなければ。良いものも良くないものも、我々が創りだしているのです。責任と意識の認識が。。。

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