マイク・ストーン:ウソルス学入門、その論理的誤謬、その1

Mike StoneによるViroLIEgy 101: Logical Fallaciesの翻訳です。


ウイルス学の基礎に組み込まれた欠陥理論が、自らを合理的思考者と考える人々の心に感染している。

ウソルス学(ViroLIEgy、訳注:VirologyにLIE〜ウソを組み合わせた単語)入門は一連の記事シリーズであり、細菌「論」とウイルス学(Viology)の両方に関する重要な概念について、比較的短く(私の基準では)簡潔な説明を目的とする。ここでは、議論の的になりそうな領域についての概要を提供する。これは、病気の「細菌論(あるいは病原菌論、Germ Theory)」を擁護する人々と議論を交わす際に、人々が混乱し、理解するのが困難と思われるような、会話に不可欠な話題である。

ウイルス学は現代医学の礎であり、「ウイルス」が病気の原因として広く受け入れられることで、強力な製薬産業が台頭し、不可視の「病原体」に立ち向かうための無数のワクチンや薬剤の製造で巨大な利益を得ている。こういった感染症の発生抑制のためにあらゆる手段を講じている一方で、新興・再興の「ウイルス性」感染症の発生は年々増加の一途をたどっている。これらの「防御」対策が「感染症」と闘い、減らすのに失敗している理由として、多くの言い訳がなされてきた。グローバル化、都市化、環境変化、人口増加、社会経済的要因、「抗ウイルス剤」耐性(すなわち投薬の失敗)、そして私の個人的なお気に入りである「ウイルスの突然変異と進化」などだ。架空の存在と戦うために有毒物質を注射したり摂取したりしても、継続的健康につながらないことは明らかなはずだが、こうした対策が失敗し続けるのには深い理由がある。一見したところ厳密そうに見える方法論の下をめくってみれば、ウイルス学は欠陥のある論理を基礎とすることがわかる。ウイルス学的研究の核心部分には、まず、目に見えない病原体という想定があり、次に「ゴールド・スタンダード」と呼ばれる細胞培養実験が「ウイルス」の存在と病原性の決定的証拠として常に持ち出される。しかし、その方法をよく調べてみれば、この根幹をなす実験は、ウイルス学の核心に深く浸透した論理的誤謬に満ちているのだ。つまり、論点先取(begging the question)、後件肯定(affirming the consequent)、前後即因果の誤謬(false cause fallacy)である。

(訳注:人間の体液中にウイルスが発見できたことは一度もないが、その中にウイルスがいるとされ、他者に感染するとされる。これを電子顕微鏡で見るには、まず、これらの体液を細胞培養に入れて、発見が容易なくらいに増殖させねばならないという。増殖と共に細胞培養の崩壊が観察され、これを細胞変性効果と呼ぶ。細胞変性効果がウイルス存在の証拠とされ、さらに電子顕微鏡で容易に発見でき、写真が撮影される)

私が発見した面白いこととしては、この分野の本質的に誤った論理に対する批判にウイルス学擁護派が直面すると、しばしば、その基礎的実験に埋め込まれたと同じ欠陥的論理に頼るようになることだ。これにより、この分野と彼らの立場を貶める誤謬を不用意に永続させ、その結果として欠陥のある論理を循環させることになる。ウイルス学擁護派がこういった循環論理を使ってしまえば、方法論の根本的欠陥への対処を怠ることになると同時に、この分野全体の基盤となる不安定な土台を強化してしまう。言い換えれば、ウイルス学擁護は、ウイルス学者の実験方法を貶めているのと同じ論理的誤謬によって構築されており、したがって、この分野の結論を正当化しようとする試みには本質的な欠陥がある。

苛立たしいことに、ウイルス学擁護派は、しばしば論理的に誤った論理を使っていることに気づいていないようだ。これは、批判的思考や論理よりも暗記や服従を優先する教育システムのせいかもしれないし、病気や医療に関する欠陥だらけのパラダイムに生まれてこのかた洗脳されてきたせいかもしれない。原因が何であれ、多くの人は論理的誤謬とは何か、欠陥のある論理がいかにして思考や議論に浸透しているのかについて混乱しているようだ。この混乱を解消するために、本稿では論理的誤謬の本質とウイルス学の関連性を探ってみたい。すべての誤謬を取り上げることは本稿の範囲外である。ここではウイルス学とその方法論そのものに深く埋め込まれている前述の3つの誤謬に焦点を当てる。深く根付いた欠陥的論理が、論理的思考を自負する人々にいかに悪影響を及ぼすかを説明しよう。そのために、ウイルス学擁護派が、こういった誤謬を土台とする分野に内在する論理的誤謬にいかに簡単に陥るかを示す最近の例を検証する。

論理的誤謬とは何か?

論理的誤謬とは、論理や判断においてありがちな誤りである。我々皆が、定期的にこの種の欠陥論理の犠牲になっており、様々なやり方で発生する可能性がある。これらの誤謬を合理的な思考と錯覚し、いかにも正当な主張であると両当事者を騙してしまう。合理的な立場の確立を意図する討論でこういった誤謬が使われると、議論の論理が大きく損なわれる。意図的であろうとなかろうと、誤謬はしばしば非合理な議論や、主張の裏付けとなる重要な証拠を欠く無関係な指摘として現れるからだ。したがって、非論理的な思考や非合理的な議論の餌食にならないよう、こうした誤謬に手を染める可能性のある様々なやり方を認識しておくことが極めて重要になってくる。

ウイルス学全体の基礎となる前提そのものが、論理的に誤った思考に染まっており、実験自体と結果解釈の両方にこうした誤謬がまん延している。あたかも検出されるはずの架空の 「ウイルス 」のごとく、この欠陥論理が人から人に広がっていく。研究を行う者であれ、批判からこの分野を守る者であれだ。理性的に考えるべき人々の心に 「感染 」しているこの誤謬「ウイルス」一掃のために、この疑似科学的学問を支える3つの核心的誤謬と私が考えるものを検証し、より明確な視点を得ることにしよう。

論点先取(Begging the Question)

論点先取の誤謬は、ウイルス学に関連する問題の基本である。簡単に言えば、この誤謬は「議論の前提が、結論を支持するのではなく、結論が真であることを仮定している」場合に起こる(訳注:証明すべき命題が暗黙または明示的に前提の1つとして使われる。つまり、循環している)。言い換えれば、問題になっている立場あるいはその重要な部分を、証拠なしに仮定しているのである。 ウイルス学に関して言えば、研究者は病原性「ウイルス」の存在をあらかじめ仮定し、その存在証拠として、目に見えない存在に特定の現象を結びつける。この結果、実体の存在の独立した証拠は提供できず、その代わり、証明対象そのものを前提とする循環的推論が行われる。

これは、科学の一分野としてのウイルス学の中心をなす欠陥である。因果関係を明らかにするための実験以前に、結果を起こした原因として想定される実体の存在が直接的に証明されることはない。結果よりも先に、まず原因(想定される「ウイルス」粒子)の存在を示すことが不可欠であり、必須なのである。時間順序として知られるこの原則は、2つの変数間(訳注:原因と結果の二つ)の因果関係を証明するために満たさねばならない4つの必要条件の最初のものである。

(訳注:細胞培養にて細胞変性効果を起こした原因は、そこに混ぜた体液にウイルスがいたからだとするが、そもそも体液中にウイルスを発見できたことがない)

2つの変数間の因果関係の立証には、4つの条件の存在を立証せねばならない

1) 時間順序:原因が結果の前に存在すること

2) 共変化:原因の変化が結果の変化をもたらすこと

3)合理性:なぜ両者が関連しているのか、合理的な説明があること

4) 非疑似性:結果に対して他の(ライバルとなる)原因が見つからないこと

科学研究の中心的目標は、独立変数(推定される原因)が従属変数(観察される結果)に影響を与えることを実証することである。因果関係を示唆する仮説の検証のために、独立変数は実験の最初から存在していなければならない。従属変数への影響を観察するためには、実験中に変化させ、操作しなければならない。この順序は単なる手続き上の必要性ではなく、論理的な要求である。

(訳注:細胞変性効果の原因が元の体液にあったウイルスだというのであれば、それが最初に示されねばならない。これらの実験においては体液中に存在すると言われる「ウイルス」が独立変数のはずだが、この存在が示されたことはない)

独立変数が従属変数を引き起こすには、論理的に独立変数が時間的に先に発生しなければならない。要するに、原因は結果の前になければならない。

ウイルス学にとっての核心的問題は独立変数問題である。「ウイルス」が自然界で直接観察されたことがないためだ。「ウイルス」の概念は、1800年代後半に、様々な病気においてコッホ原則を満足できない場合があり、その説明のために考え出された(訳注:様々なバクテリアが様々な病気の原因とされたが、バクテリアでは説明できない病気があり、もっと小さな「ウイルス」の存在が仮定された。なお、いかなるバクテリアについてもコッホ原則は成立しないことが現代では判明している)。その後、「ウイルス」の存在を仮定し、この観察不可能な存在に効果を帰属させる実験は、ウイルスが引き起こすとされる効果とともに、その存在についての論点先取から始まった。言い換えれば、実験室で生み出された現象が、循環論理の誤ったサイクルによって「ウイルス」の存在に帰着されたのである。

60年以上もの間、ウイルス学者たちは、自らの実験で実際の病原性 「ウイルス 」を相手にしていると説得力を持って証明するのに苦闘してきた。実際のところ、1957年までは「ウイルス」が何であるかについてのコンセンサスさえなかったのである。しかし1954年、ウイルス学者のジョン・フランクリン・エンダースは、麻疹の「ウイルス」を研究していることにし、非論理的な実験設定を導入し、病人の体液中にあると信じている実体を研究していると主張できるようにした。これは細胞培養実験であり、目に見えない「ウイルス」が病人の体液の中にすでに存在しているという仮定から始まった。アフリカミドリザルの腎臓細胞を入れたペトリ皿に、様々な化学物質や異物とともにこの体液を加え、細胞変性効果(CPE、Cytopathic Effect)とエンダースが呼ぶものを観察した。この効果は「ウイルス」に起因するとされ、この目に見えない実体がサンプル内に存在する証拠として使われ、結果が原因の証明とされるという非論理的な循環ループが完成したのである。この実験には「論点先取」という誤謬に基づく根本的欠陥がある。この基本的な非論理的前提が、その後に続くすべてのウイルス学研究に根付いている。

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