マーク・ベイリー:ウイルス学のイベントホライズン

Virology’s Event Horizon
https://drsambailey.com/virologys-event-horizon/

イベントホライズンとは物理学・相対論の用語で、光でも到達できなくなる領域との境界を指している。ウイルス証明のために越えねばならない境界線を、ウイルス学が越えることは決してできず、したがって、ウイルスの証明はできない。これは、ウイルスを真の意味で分離すること。つまり、ウイルスだけを取り出し、その上で実験を行うことである。

ちなみに、原著の挿絵として映画「イベントホライズン」が使われているが、個人的意見としては、この映画はどうしようもないので、見ない方が良いと思う。いわゆるB級SFホラー物。

※リファレンスは原著を参照のこと。


 ウイルス学のイベントホライズン

マーク・J・ベイリー

2024年3月31日

ウイルス学者が細胞培養技術において有効な対照実験を行えない理由を解説する。「ウイルス」についての「ゴールド・スタンダード」と称される証拠には根本的欠陥があり、この方法論では仮説上の粒子の自然界での存在を証明できない。

(訳注:ウイルス入りとされる人間の体液を細胞培養に入れると、細胞を崩壊させ(細胞変性効果)てウイルスが増殖するというのがウイルス学の主張だが、では、ウイルス無しではどうなるのか、つまり対照実験を行わねばならない。しかし、何をしようが有効な対照実験とはならないというのが著者の主張になる)

2020年初頭から、ウイルス学が厳しく追求されるようになった。そのきっかけはCOVID-19時代の幕開けである。特に、世界保健機関(WHO)のテドロス・アダノム・ゲブレイェソス事務局長が2020年3月11日、国際メディアの前に立ち、「COVID-19はパンデミック(世界的大流行)として特徴づけられる」と述べた時だ[1]。多くの人にとって、パンデミックとされる詐欺が始まったのはその時か、その後の封鎖や移動の自由に対する厳しい制限の中であった。他の人々にとって、この詐欺は2009年に始まった。WHOが「パンデミック」の定義を変更し、「莫大な数の死者と疾病を伴う」という言葉が、従来のパンデミックの意味から突然除外された時である[2]。

(訳注:現在、一人の病人・死者などなくとも、WHOはパンデミック宣言ができる)

我々が指摘したこととしては、この経緯は詐欺的に見えるものの、それは単に「ウイルス学」として知られる基盤となる科学的詐欺のより小さな支流に過ぎないことだ[3,4,5]。これらの小さな支流は、「下流」の側面と呼ぶことができる。これは、その前提が不在か、少なくとも検証不能な仮説であると明らかになったとき、論理的に余剰となる。

(訳注:わかりづらい言い回しだが、基盤となるウイルス学が吹き飛べば、WHO云々もまた簡単に吹き飛ぶという意味だろうか)

では、「パンデミック」概念を支える科学的根拠は何だろう、それがどんな色合いのものであれ。そして、その科学的根拠の検証により、ウイルス学を科学として失格とできるだろうか?

オンライン百科事典Wikipediaによれば、パンデミックとは、「感染症流行が広い地域、例えば複数の大陸や世界中に広がり、相当数の個人に影響を及ぼすこと」[6](強調筆者)である。流行とは、「ある集団において、短期間に多数の宿主に病気が急速に広がること」と定義されている[7]。感染症とは、「病原体の組織への侵入、その増殖、宿主組織の感染体および病原体が産生する毒素に対する反応」を伴う病気[8](強調筆者)である。さらに、「感染症は、伝染病または伝染性疾患としても知られ、感染に起因する病気である」[9]と述べられている。

これらの「病原体」とされるものには、ウイルスも含まれるが、これは特定の物理的・生物学的特性を持つ微小な粒子であり、ヒトのような生物間で感染し、病気を引き起こす能力がある(ウイルスが真の微生物なのか、死んでいるのか、生きているのかという議論は、さらに下流で検討されることであり、病気を引き起こすという極めて重要な問題に比べれば、何の意味もない)。多くの人々がウイルスの存在を科学的な事実として受け止めているが、私の経験によれば、保健医療関係者を含め、ほとんどの人は、自分自身で検証してはいない。引用された証拠を批判的に吟味し、その方法論が科学的か否かを調べることである。また、ほぼ理解されていないこととしては、まずウイルスが発見され、その後に研究されているのではないことだ。そうではなく、想像なのである。ウイルス学は、これらの仮説的な粒子を基に、自身を発明したのだ。

ウイルス学における極めて重要な問題のひとつは、ウイルスの実際の存在を確立する以前に、その分野自体を発明してしまったことだ。ウイルス学は創設以来、自身を正当化しようとしてきた。つまり、最初にウイルス粒子が観察されることもなく、ウイルス理論と病理学が発展したのである。19世紀半ばから後半の科学者たちは、想像される伝染性の病原体の同定に夢中になっていた。当時存在した前提としては、伝染を説明できるような非常に小さな病原体粒子があるというものだった。その後に生まれたものは、この前提を満たすものであった[10]。

1世紀以上にわたり行われてきたのは、次のような一連の疑似科学的行為だった。具体化の誤謬(reification fallacy)の継続的使用、すなわち、ウイルスは仮説上の構成物にもかかわらず、物理的存在を持っていると仮定してきた。言い換えれば、「アイデアのような具体的でないものを、具体的なものとして扱う誤り」[11]である。

(訳注:つまりは、何のモノも無いにも関わらず、想像だけが独り歩きした)

これを示すことができるが、ウイルス学者は自身を窮地に追い込み、自身で作り上げたパラダイムで自身を罠に陥れていることである。ウイルス学が自然科学の一分野であるなら、その実践者は観察と実験で得られた経験的証拠に依存することになる。この科学的手法の枠組みには、(必ず反証可能な)仮説を立て、これを実験で検証するという要件がある。この実験には、従属変数、つまり独立変数に依存する観察または効果の部分がなければならない。独立変数とは推定されるものであり、この観察または結果の原因である。また、実験には「コントロール(対照)」、すなわち、一度に一つの要因を変化させたときの結果を観察できる方法で変数や条件を比較できることも必要である。

(訳注:例えば、植物の生育を見て、「植物は種子から生育する」という反証可能な仮説を立てた場合に実験を行うが、そこでは、「種子をまく・まかない」という独立変数があり、その従属変数としては「植物が生育する・しない」である。この場合、種子をまかなくても植物が生育すれば、反証されたことになる)

ウイルス学者は、これが科学分野であると主張するのだから、そこから逸脱できるような言い訳はありえない。これを拙著『ウイルス学への決別(専門家編)』でも述べている。

2008年、『Infection and Immunity』誌は、「記述的科学(Descriptive Science)」と題するゲスト解説を掲載して説明した。「記述的研究自体が決定的であることはめったにない」こと、そして、単純にさらなる研究を方向づける出発点として役立つだけかもしれないことである。著者は指摘する、「微生物学と免疫学は今や実験科学である。したがって、研究者は単に観察を記述するだけでなく、仮説を立て、それを検証または反証するための実験を行うことができる」と[12]。

そしてここに、ウイルス学とウイルスモデルそのものの完全な没落がある。科学的方法に従い、ウイルスの存在を示すと主張する実験には、観察される効果が他要因ではなくウイルス(主張される独立変数)の結果であることを立証する有効な対照が必要である。

(訳注:細胞変性効果がウイルスの存在証拠と主張するのだから、ウイルス無しでの同じ実験、つまり対照実験が必要である)

ウイルス学者が、ウイルス存在を証明すると主張する方法論で対照実験を行っても、彼らの論文などの公開物では「模擬感染(mock-infected)」グループの詳細が省略されることが多い。模擬感染の定義は以下の通りである。

…細胞や生物に対するウイルス感染の影響評価のためにデザインされた科学実験における対照群である。模擬感染対照群では、細胞や生物は感染群と同じ条件や試薬で扱われるただし、ウイルスには曝露されない[13](強調は筆者)。

感染実験で使用する対照。2つの検体を使用するが、一方は目的のウイルス/ベクターに感染させ、もう一方はウイルスを除いて同じように処理する[14](強調は筆者)。

つまり、対照群との違いは、ウイルスと言われるものの有無という一つの変数だけなのである。細菌細胞や真菌細胞の場合、細胞を分離し、他の生物学的物質をサンプルに残せるため、これが可能である[15]。

したがって、ウイルス学者自身が、真の模擬感染実験は不可能と認めていることには議論が必要だ。「ウイルス性」疾患に罹患しているという生物に由来する検体からウイルス粒子を物理的に分離(つまり除去)はできないからだ[16]。したがって、彼らに可能な唯一の実験は、ウイルス粒子が一方のグループには存在し、「模擬感染」グループには存在しないという事前の主張に頼らざるを得ない。これは、「論点先取」としても知られる「petitio principii」の形態の論理的誤謬である。つまり、ある命題を証明しようとしながら、同時にその命題を当然としてしまうものである[17,18]。

(訳注:検体からウイルスだけを取り出すことも、検体からウイルスだけを除去することもできないため、ウイルス学者は「検体にはウイルスが存在する」で進めてしまう。しかしこれは、ウイルスの存在を前提とする、論点先取という論理的誤謬である)

ウイルスモデルを批判してきた我々の多くは、以前からこの問題を指摘してきたが[19]、ウイルス学者が有効な細胞培養対照実験を「怠った」のは、定義上、それができないからという指摘では、おそらく十分ではなかっただろう[20]。

彼らの窮地は、試験管内実験で仮説のウイルスを「培養」する手順から得られる粒子を物理的に分離しようとする試みよりもさらに深い[21]。 繰り返しだが、このやり方は「何か」の存在を立証する方法論としては科学的に無効である。なぜなら、結果の解釈は「何か」が存在するはずとの推定に完全に依存するからだ。細胞変性効果(CPE)はウイルスの存在を示すと主張されるが、それはテストウェル(訳注:実験材料を入れる「くぼみ」)の中で細胞が破壊される様子を観察しているとしか言いようがない。CPEは実験の従属変数だが、この過程において独立変数(「ウイルス」)が識別できないことは明白である。仮定されたウイルスは、実験開始時に特定の実体として同定できていないため、仮説のままであり、従属変数に関するその後の観察結果のみに基づいて物理的な存在を主張することなどできない。

この時点で、「ウイルス性」疾患の生物に由来する検体と混合した細胞培養中に小胞ナノ粒子が試験管内で出現することが、ウイルスの存在証拠であると主張されるかもしれない。しかし、ウイルスの存在(およびその仮説上の特性の多く)は、「ウイルス性」疾患という形であらかじめ主張されているため、この場合もまた、前述の「petitio principii」の誤謬を引き起こすことになる。細胞培養を証拠とすることの問題点をまとめると、次になる。

(a) 「ウイルス性」と宣言された粒子は、CPE観測の一部として初めて見られる。つまり、これらは従属変数である。同じ実験において、それらが独立変数でもあると主張するのは馬鹿げている。

(訳注:独立変数であるはずのウイルスは、実験開始時には検出されておらず、実験結果によってのみ「存在する」と主張される)

(b) in vitro(実験室)での観察では、in vivo(生体内)のプロセスの再現はできない[22]。

(c)電子顕微鏡に関わる技術は、対照化できないさらなる変数をもたらす。これが、技術的なアーチファクト(人工物)や、生体組織ではなく樹脂に埋め込まれた静的な構造物であるというさらなる制限に加えてである[23, 24]。

公表済の各細胞培養実験の詳細は、深く分析でき、これは我々や他の研究者が何度も行ってきたことだ[25]。それ自体において、こういった環境での観察が自然生物学を再現するか不明なたため、(b)と(c)について現在のところ克服できない問題を提起している。いずれにせよ、このプロセス全体が論理的誤謬に依存しており、その表れが(a)であり、極めて重要なウイルスの存在に関する問題に関してのこの行為全体が無効である。

心に留めておいてほしいが、 細胞培養技術は、ウイルス学が提唱するウイルスモデル確立のために推進された証拠のための『ゴールドスタンダード』である。自分たちの採用した方法論が、科学的に統制されているとは到底思えないことに、実践者の誰かが気づいたかどうかは不明だ。ウイルスの定義の重要な前提としては、宿主に複製粒子を引き起こす病原性粒子だが、確立済「ゴールドスタンダード」である細胞培養では、その存在の決定はできない。その情報は技術の「イベントホライズン」を超えている。どう考えても、このような冗長なパラダイムから逃れることはできないのだ。

ウイルス学者たちは抗議するかもしれない、仮説上のウイルスを生きた人間や他の生物からの直接入手(一度はやろうとしたが、明らかに断念したようだ)は不可能なため、こういった技術しか使えないと。こういった抗議に科学的なメリットはなく、立証責任は依然として彼らの肩にある。科学的手法を通じてウイルスモデルを支持しようとする試みは明らかに失敗しており、想像上のウイルスは論理的誤謬や疑似科学的主張以外には存在しない。

臨床症状、病気の明らかなクラスター、抗体測定、ゲノミクス、プロテオミクス、ポリメラーゼ連鎖反応などの検査といった間接的な観察結果を引用しても、ウイルスの証拠とはなり得ない。なぜなら、これらを主張する者は、ウイルスの存在を前提とする円環的な推論ループの中から出発しているからである。こういった観察結果のいかなるものも、ウイルスモデルを検証するために必要な証拠を提供できない。原罪(訳注:アダムとイヴから受け継がれた罪)には具体化の誤謬も含む。人類にとって不運なことに、ウイルス学者たちの粒子に関する想像は、2020年に世界を屈服させるのに十分なほど多くの人々の心に広まってしまった[26]。爆薬が作られたが、それで最終的に吹き飛ばされるのは誰なのだろう?

工兵が自分の爆薬で吹き飛ばされるのは
ちょっとした見ものだ[27]。

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