ウイルスマニア:パスツールとコッホ~多くの科学詐欺師のうちの二人

ウイルスマニアP49です。

ルイ・パスツールはその人生の中で高いステータスを享受したが、それは明らかに医師Auguste Lutaudによる言葉によるものである(パスツール死去の8年前である)。「フランスでは、無政府主義者、共産主義者、ニヒリストになりうるが、しかし反パスツールにはなりようがない」。しかし、事実としては、パスツールは神々しく純粋でクリーンな経歴を持つ模範などではなかった。そうではなく、偽の仮定に基づいて行動する名声中毒の研究者であり、そして、「彼は世界をミスリードし、彼の最も有名な実験の背後の研究については、彼の仲間の研究者がいた」と、2004年にThe Lancetジャーナルは書いている。

彼による微生物への全くの狂信的な嫌悪において、パスツールは実際に馬鹿げた同一視をしていた、健康的な(組織)は無菌(細菌の無い)環境であると。彼は真面目に信じたのである、健康な身体にはバクテリアは発見されえないと。そして、空気中をホコリの粒子に乗って飛ぶ微生物が、すべてのありうる病気の原因であると。45歳のとき、彼は細菌学者として「名声を博していた」とPaul de Kruifはその本「Microbe Hunters」で書いている。「そして彼の希望を世界に対して吹聴していたのだ、『地球表面から寄生虫(細菌)によるすべての病気を根絶するための力が人間の中にあるべきだ』と」。

パスツールの理論の欠陥は、かなり前の20世紀前半に示されている。これは、完全な無菌を維持された動物実験によってである。

(途中1ページほどの1960年代に行われた実験についての説明を省略。結局のところ菌が存在しないと生きられません)

しかし、「ずるいルイ(Tricky Louis)」に戻ろう、彼は故意にウソをついた、彼のワクチン実験においてさえもだ。これが彼に、研究神のオリンポス山の座を提供したのだが。1881年のこと、パスツールは宣言した、彼が炭疽菌に対するワクチンを羊で成功したと。しかし、パスツールがパリの門の外の開けた土地においてどのようにテストしたのかを誰も知らなかった。そればかりではなく、彼は後にそう呼ばれたのだが、偉大なる国の国家的英雄は、密かに仲間のワクチン混合物を事実として盗んだのだ。これは研究者のJean-Joseph Toussaintであるが、パスツールは彼のキャリアの早期に公衆の面前による攻撃で台無しにしたのである。パスツールが偽って高い成果を収めたとする1885年の狂犬病ワクチンの実験についてはどうか?ずいぶん後になってから研究コミュニティにわかったことは、これらが科学的標準を全く満たしていないことだった。そして、彼のワクチン混合物に対する称賛のコーラスを裏打ちするにはそぐわないものなのである。パスツールのスーパーワクチンは「狂犬病を予防したというより、むしろ起こした」と科学史家のHorace Judsonは書いている。

これらの実験については数十年にわたり議論されなかったのだが、その大きな理由としては、有名なフランス人の入念な隠し立てによるものである(訳注:パスツールのこと)。彼の人生中、パスツールは完全に一人たりとも許さなかった、彼の最も近い共同作業者にでさえも、彼のノートを調べることをだ。そして「ずるいルイ」は、彼の死後さえもこれらのノートを閉ざしたままにするよう、家族に言い残したのである。20世紀になり、プリンストン大学の医療史家であるGerald Geisonが、パスツールの記録を丹念に調べる機会を最初に許されたのだ。そして、彼はこの詐欺を1995年に公にした。物議を醸すことは特に驚くべきことでは無い。健全な科学は透明な環境で育ち、他の研究者が結論を検証できるためだ。

秘密主義は反対のゴールを持つ。独立したモニタリングと検証をシャットアウトする。このプロセスにおいて独立専門家の外部からの調査と検証がシャットアウトされれば、詐欺への水門が開かれる。もちろん、我々はこういった透明性の欠如をいたるところで見ることができる。政治にもあり、国際サッカー連盟FIFAのような組織でも、そしてまた「科学コミュニティ」でもだ、そこでは「公からの資金提供は彼らの権利だが、大夜景の支配からは自由であると信じられている」とJudsonは言う。これによって、主流派の研究は実際にその科学的構築物を公の精査から閉ざしているのだ。

(1ページほどの査読制度の欠陥等についての説明を省略)

現代医学のもう一つの輝く光と言えば、ドイツ人医師のロベルト・コッホ(1843-1910)である、彼もまた積極的な詐欺師であった。1890年にベルリンで行われた第10回の国際医療会議において、「膨れ上がったエゴの持ち主」である微生物ハンターは公表したのだ、結核に対する魔法の物質を開発したと。そして、ドイツ週刊医療ジャーナルにおいて、コッホはこう主張したのである。「他の方法なら身体にダメージを与えるが、それなしに病気を完全に止める」ことが可能であることを、モルモットの実験によって証明したと。

この主張される魔法の薬「ツベルクリン」に対する世界全体の反応というのは、最初は圧倒的であった、コッホの地元のベルリンにおいて。そこでは、サナトリウムがキノコのように立てられていた。世界中から病人達がドイツ首都を目指し、ここはある種の巡礼地になった。しかし、すぐにわかったのだ、ツベルクリンが悲劇的な誤りであったことが。長期間の治療は起こらず、霊柩車が入れ替わりサナトリウムを訪れることになった。風刺に飛んだDer wahre Jakobの新年版のような新聞は冷やかした、「コッホ教授様!めまいバクテリアの治療薬を発表されては?」

パスツールのスタイルで、コッホもまた、彼の主張する魔法の物質を、最初は厳格に秘密にした。しかし、死亡率が上昇すると、この薬の成分の綿密な調査によって明らかにされたのだ、ツベルクリンというのは、熱によって殺されたバチルス菌培養にすぎないと。最大限の意図を持ってしても、誰も仮定することはできない、深刻な病気で苦しむ結核患者の助けになるなどとは。逆に、テスト対象患者であれ、治療薬として後に投与された者であれ、すべての人間が劇的な有害反応を経験したのである。悪寒、高熱、そして死である。

当時の他の医療権威であったRudolf Virchowも含め、コッホの批判者はとうとう成功した、ツベルクリンが結核を止めることができないことの証明を。後の酷評によれば、むしろ危惧されたのである、病気の進行をさらに悪くすると。権威達は要求した、コッホにその有名なモルモット実験の証拠を提出するようにと。しかし彼はできなかった。

Heidelbergの歴史家であるCristoph Gradmannのような専門家が言うには、コッホは「賢く設定した」のだ、ツベルクリンの立ち上げを。すべてがあらかじめ良く計画されていたように見える。1890年の10月遅く、最初のツベルクリンに対する強い期待感のあいだ、コッホはその衛生学教授の地位を退いた。秘密の手紙で、彼はツベルクリンを広範囲に研究できるようにするため、プロイセン州に対して、パリのパトゥール研究所をモデルにした彼自身の研究所を要求したのだ。

コッホ教授は、「ツベルクリンを毎日500回分で、年間4500万マルク」を基にしての期待される儲けを計算した。彼の予測の信頼性に基づき、冷淡にもこう観察した。「100万人と仮定して、平均的には6000から8000人が肺性結核で苦しむ。3000万人の人口の国では少なくとも患者が18万人になるはずだ」。ドイツ医療ジャーナルにおけるコッホの声明が出されたのは、彼の親友による過度に肯定的なフィールドレポートと同時だった、これは「そのプロパガンダと同様にツベルクリンの検証に役立った」とGradmannは言う。

(終了)

 

 

 

コメント

  1. 名無し より:

    ついに日本語バージョンがでてきたんだ
    いつになったらこの詐欺に気付くのかなって思ってた
    これからもどんどん真実を伝え続けてください

    • ysugimura より:

      ウイルスマニアに関してはヒカルランドが翻訳権をとっており、刊行予定のはずですが、具体的にどの程度作業が進んでいるのかはわかりません。