ステファン・ランカ:ウイルス学者とは?

ステファン・ランカによる「Virologists」の訳です。

Virologists-by-Dr-Stefan-Lanka.pdf

この文書についてのインタビューにqueseraseraが字幕をつけています。さらに、ランカの言っているドイツの感染防御法の「利用」については、ランカとも連絡をとっているドイツのエンジニアの話でも出てきます。

以下の内容は、部分的に非常に難しく、不適当な訳になっているかもしれません。後で手を入れる予定です。


ノーザン・トレーシーおよびジョン・ブレイド:ドイツ語からの英語訳と編集。英語からの日本語翻訳:字幕大王

ドイツ語記事:「https://wissenschafftplus.de/uploads/article/wissenschafftplusvirologen.pdf」より

ウイルス学者とは?

コロナ危機の原因が明確になった

病原性ウイルスの存在を主張するウイルス学者は科学的詐欺師であり、刑事訴追の対象である:ステファン・ランカ

要約

科学と科学的研究は、問題を特定してそれを解決するための重要な手段である。科学にはとても明らかなルールがある。何かしらを主張する者は誰でも、その主張を明確に、理解しやすく、検証可能な方法で証明せねばならない。検証可能なものだけを科学的と呼ぶことができるのであって、それ以外はすべて信念の範疇に入る。

(訳注:検証可能な方法による証明により、いつでも・どこでも・誰でも同じ結論にたどり着くことができる。主張する者だけがそれを証明できるならば、それは科学とは言えない)

政府の行動を引き出したり、それを正当化したりするために、信仰の類の事柄を科学的に証明された事実として示すことはできない。ウイルス学者は、病気の原因となるあらゆるウイルスに関して(論文などを)公開しているが、それらすべての意味と言葉の選択が、思考の法則、論理、科学の拘束力のあるルールに違反しているばかりか、病気の原因となるウイルスの存在に関する彼ら自身の主張を反証してしまっているのである。

催眠術のような恐怖のメガネを外し、それら公開物の著者の行いと言葉を理解した上で客観的に読めば、あるいは英語に興味を持ち、そこで使われている手法についての知識を身につけた者なら誰でも気づくだろう、これらのウイルス学者(ファージやファージに似た巨大ウイルスを研究している人を除く)が、ごく普通の遺伝子配列をウイルスの構成物であると誤って解釈し、その結果、彼らの専門分野全体を否定してしまっていることにである。

(訳注:ファージとは正式には「バクテリオファージ」というもので、世間的には「バクテリアにとりついて殺す」と言われている「ウイルス」のこと。ウイルス学に反対し、「ウイルスなど無い」と主張する者であっても、この存在は認めている。ただし、後述するようにランカはファージの真の姿として一般に言われるとは異なる説明を提示している)

このことは、SARS-CoV-2ウイルスの存在疑惑の場合に特に顕著である。科学的事実であると発表できるためには、その科学的記述が反証可能でなければならない。すべての科学者の最初の義務としては、自身の発言を厳しくチェックし、反証を試みることである。この反証が成功せず、その失敗が対照試験によって明確に文書化された場合にのみ、その記述は科学的であると言える。

(訳注:ウイルス学者は自身に都合の良い実験のみを行う。自身のストーリー通りのものだけを行い、それを「ウイルスの存在・病原性の証明」としているだけである。その一方で、比較対照実験を一切行わない。例えば、「ウイルス疾患」の患者からの肺液と健康な人のそれに対して全く同じ条件で実験し、動物に罹患させたり、ウイルスゲノムを取得して比較してみることなど一切行わない。この比較対照の行為、つまり、自身の主張に反証を試みることを「ウイルス学者」は行わない)

政府やその下位機関が制定したコロナ対策すべては、最終的には法律によって規制される。ここドイツでは感染防御法(ifSG)になるが、これはうわべは合法化されているが、正当化されてはいない。例えば、ifSG第1条では、「科学的」という定義により、ドイツに住む/働くすべての人々が科学のルールに従わねばならない。科学の最も重要なルールは、科学的真理として流布される主張について、その反証が失敗したことが文書化されていることだ。思考と論理法則の遵守が、すべての科学的ルールに優先するのだ。これらを無視したり、違反した場合、その科学的な声明は、あたかも対照実験が成功したかのように反証される。

(訳注:科学のルール以前に思考と論理法則があり、これを守らない場合には、あたかも対照実験が行われ、その結果として「何の違いもなかった」とみなされるべき。つまり、その主張は無効である)

これらのウイルス学者たちは、その発言と行動によって、思考法則、論理法則、科学的作業のルールに明らかに違反しており、科学的詐欺師と表現できる。しかし、科学的詐欺は刑法上発生しないし、まだ判例もない。そこで私は、科学的を装いながら反科学的な行動や主張をするウイルス学者たちの詐欺行為を、司法上、刑法上で明確にすることを提案する(私自身がそうするつもりだ)。こうした反科学的な、ひいては反社会的で危険な活動をするのを防ぐために、責任ある国家当局にはこういった詐欺師の起訴が求められる。

イントロダクション

人類は今、大きな試練に直面している。恐怖と反生物学がもたらす固有の力学と結果が、既存の生物学と実践医学を通じて、環境、植物、動物、人間、経済を混乱させ、破壊しているのだ。コロナ危機は、すべての人、すべてのものに衝突するコース上の氷山の一角にすぎない。このような試練になった理由のひとつは物質主義であり、これは純粋に物質的なモデルによって生命を説明しようとするものである。現在の物質主義は、「ソクラテス以後」の古代において、宗教による恐怖と権力の乱用に対する明確な反応として作られた。これが人間的で人道的な行動であることは理解できるが、しかし劇的な結果をもたらしたのである。この物質主義が「良い生物学」対「悪い生物学」を教えた。医学における「主流の意見」はここに基づいており、その結果、反生命がもたらされた。つまり、抗生物質、放射線、化学療法、消毒、基本的権利の制限、ワクチン接種、ロックダウン、隔離、社会的距離などである。このイデオロギーにより、ますます多くの人々、環境、経済が傷つけられている。彼らの物質主義的な善悪論は、事実に基づかず、反証済の過程に基づいており、密室の中で最強の宗教へと発展した。

物質主義的な生命論によれば、そこには原子しか存在せず、意識もなく、霊的な力もなく、それらを創造し動かす創造主もいない。純粋に物質的な方法で宇宙と生命を説明できるようにするため、我々の「科学」はビッグバンを主張せざるを得ない。いくつかの原子は偶然に触れ合い、偶然に集まって分子を形成する。これらの分子が原始細胞を形成し、そこからさらなる生命が、闘争と淘汰を経て誕生した。想像を絶するほど遠い昔に起こったとされるこれらのことは、科学的検証の対象から外されており、科学的とは言えない。

(訳注:ビッグバンによってそれらの科学法則が生じたとされ、ビッグバン自体はあらゆる科学法則の範囲外にある。したがって、ビッグバン自体は非科学的である)

量子論に代表される「理論物理学」は、より小さなものに対して、より大きな資本投下する思考を夢想するが、ここでは割愛しよう。生命に関してより良く、実際的で実験に従う単純な見方として、私は生命が作られている物質そのものに注目する。それは膜を構成する素となる物質、いわゆる水の表面張力膜であり、水は他の物質と接触するところ、あるいは運動や渦の際にそれ自身と接触するところで形成される。アリストテレスはこの物質をエーテルと呼び、ピーター・アウグスティヌス博士はその原型物質を再発見した。日本の植物生理学者はこの物質をπ(パイ)ウォーターと呼んだ。エーテル/原初物質から得られるこの知識と視点はまた、ソクラテス以前の原理を復活させ、「大きなスケールで考えるように、小さなスケールで考える」ことを可能にし、想像可能にする。原子論で考えてしまえば、こういった概念や観念、力の世界の想像を困難にし、不可能にさえする。もし他の考え方が利用されなかったり、嫌がられたりすれば、我々は誤解してしまうのである。生物学や医学の学問の世界全体は、そういった誤解の上に成り立っている。

(訳注:少々意味不明。学術界は、「小さな物を理解すれば全体を理解できる」と、しきりに小さな物ばかり見続けているという意味か?)

1848年、フランス革命の建設的効果がドイツにおいて発展する機会を得たが、激変の試みは失敗し、政治・社会生活の劇的な硬化と悪化をもたらした。1848年当時は、生物学と医学が発展する中で、人々は人道的・論理的で正しい「伝染病予防」策を提唱していた。その後の10年間、硬化し、ますます極端になっていく政治状況に、彼らは適応していった。1858年、ルドルフ・フィルヒョウが、科学的根拠もなく、もっぱらデモクリトスとエピクロスの原子論に基づき、生命とすべての病気についての細胞説、すなわち細胞病理学を提唱した。ルドルフ・フィルヒョウは、自身の新たな細胞説を事実として提示し、普及させるため、発生学や組織科学における「関連する事実」を生涯にわたって抑圧した。しかし、この(抑圧された)発生学と組織理論、すなわち生命の生殖細胞層理論に関する知識は、生命とその発生、そして何よりも病気、治癒、治癒の危機、治癒の障壁を理解するための不可欠な前提条件なのである。

(訳注:病理学の法王として君臨。センメルヴェイスによる手洗いによる産褥熱の予防に反対した。当時は、手も洗わずに次から次に患者を処置していた)

ルドルフ・フィルヒョウは、すべての生命は一つの細胞から生まれるという原子論に厳格にこだわった。つまり、細胞は生命の最小で不可分の単位であり、ラテン語でウイルスと呼ばれる毒の形成を通じて、すべての病気をも顕在化させる。生命、病気、治癒のプロセスをこれによって理論的に説明するために、遺伝子、感染、免疫、癌の理論が発展する基礎が築かれた。すべてのプロセスは物質的相互作用によってのみ引き起こされ、すべての生命は一つの細胞から発生すると教えられるため、この理論の信奉者は、生命の構成的かつ機能的な計画、すなわち遺伝物質を採用し、これが存在すると主張せざるを得ない。

(訳注:「ウイルス(virus)」という言葉は、もともと「毒」「有毒物質」の意味だった。また、現在でも「遺伝子は運命」という思想が続いている)

毒とされるものについても同じ強引な論理が成り立つ。もし細胞が病気の原因としてウイルス=病気の毒素を作り出し、それを体内外にばらまこうとするならば、その個人は、この病気の毒素であるウイルスが初めて発生した場所とされねばならない。この思考法がドグマ(教義)となってしまえば、それに反論するために教えられることは何もなくなり、他の考え方は非科学的であるとか、国家に対する陰謀であると中傷される。体内や集団における病気の発生の別の考え方、想像するやり方は、最初から排除されるのである。この強引な論理は、原因を物質的欠陥や物質的悪意というカテゴリーにしか求めない。

ウイルスが危険な遺伝子の集合体であることは伏せられている(訳注:意味不明)。ウイルスと呼べるような遺伝子配列を想定する科学的根拠に、いまだに信頼できるものがないことも隠されている。朗報としては、1954年にブームを巻き起こした新遺伝子ウイルス学が、科学的な方法で、つまり理解しやすく検証可能な方法で、自らの声明に反証したことである。これは100%正しく、私はウイルス学者として、科学者として、市民として、そして一人の人間として、これを支持する。

(訳注:ジョン・エンダースらの、はしかウイルス分離実験を指すと思われる。エンダースらはその研究で対照実験を行っており、ウイルス入りと無しで何の違いもないと告白している)

毒素ウイルス学から今日の遺伝子ウイルス学への移行

危険なバクテリア性タンパク質毒素がいまだに主張されているように、病毒の考えはまだかなり有効である。あるいは、危険だと主張されているコルク抜きのようなバクテリア(訳注:梅毒を起こすとされるスピロヘータのこと。コルク抜きのような形から)は、侵入の疑いのある地点から神経を経由して脳へと進むとされている。ウイルス学者、医療専門家、科学ジャーナリストたちが隠しているのは、ウイルスはタンパク質毒素として定義されるという1951年まで有効だった考え方が、この年になって諦めざるを得なくなった事実である。毒性ウイルスの仮説と主張を証明し、科学的であると主張するために、二つの対照実験が行われたのだ。

(訳注:具体的にどのような研究と論文なのかは不明)

  1. ウイルスに感染したと思われる組織とともに、健康な組織を腐敗にさらしてみた。その結果、健康な組織が腐敗したときに生成されるタンパク質は、「ウイルスに感染した」組織が腐敗したときに生成されるタンパク質と同じとわかった。こうしてウイルス説は否定された。
  2. 「ウイルスに感染した」人や動物、その体液には、健康な人と異なるものはなく、電子顕微鏡での撮影もできない事実によっても、タンパク質-毒素-ウイルスという仮説は否定された。ちなみに、これは今日に至るまで変わっていない。
    (訳注:ウイルス学者の言い訳としては、体液には検出できるだけの数のウイルスはいないという。ウイルスを検出するには、必ず「培地」に「ウイルス入りの体液」を植菌して培養する必要があるという。つまり、「体液には健康な人と異なるものはない」というのが彼らの言い訳となる)

臨床ウイルス学、すなわち医学的ウイルス学は、このような比較対照の試みの成功で自らを否定し、遺憾の意を表明してあきらめたのだ。しかし、こういったことは、専門誌を注意深く読む者しか気づかなかったのである。この事実は、権力の催眠術師たちが現在進行中のワクチン接種キャンペーンを謳歌する中で、マスメディアによって抑圧されてきた。ワクチン接種を正当化する根拠としてのウイルスは失われたにもかかわらず、保健当局と「科学」の沈黙のために、ワクチン接種キャンペーンは中断されなかった。ウイルス学が(実質的に)放棄された後、生物学と医学は、ウイルス性と定義された病気や、純粋な物質細胞説の中で病気が同時に発生したり増加したりする現象について、他の説明を見つけられなかった。

(訳注:要するに、ウイルスがないとすれば、「感染」のように見える現象は一体何なのか、その説明が無いということだろうか?)

そのため、関係者は、将来的にはウイルスがどうあるべきかという新たな理論を考案する必要に迫られた。これが基づくものは、ファージと呼ばれる、バクテリアがその環境から取り除かれ、他のバクテリアや微生物との重要な交流が妨げられたときに形成される、実際に存在する構造だった。若い学生だった私は、幸運にもそのようなファージのような構造を海から分離し、その構造、組成、環境との相互作用を研究できた。ウイルスの起源を研究するために、無害なウイルスと安定したウイルスと宿主の関係を発見したのだと、何の疑いもなく信じていたからである。それから30年後、現在では「巨大ウイルス」として知られる新たな構造が絶えず発見されている。その間に、巨大ウイルスが生物学的生命の始まりの過程にあること、あるいは私たちの目に見えるようになる過程にあることが、はっきりと証明された。

ファージは、バクテリア・イーターや巨大ウイルスと誤って呼ばれている構造体である。これは、バクテリアや単に組織化された生物が、もはや理想的な繁殖や生存ができないほど生活環境が変化したときに形成する胞子の一種とも言える。種類にもよるが、これらの有用な構造体は常に、まったく同じ長さでまったく同じ組成の、いわゆる遺伝物質DNAの鎖で構成されている。このタイプのDNAは常に、生物学的生命が出現するのと同じ高密度物質の殻に囲まれている。これが、「ファージ」や「巨大ウイルス」(むしろバイオント〜biontsと呼ぼう)が、生命の他のすべての構成要素から容易に分離、すなわち濃縮、分離できる理由である。このように分離された形態では、定期的に生化学的分析が可能である。生化学的な特徴を明らかにするたびに、「ファージ」や「巨大ウイルス」の核酸は常に全く同じ長さで、常に全く同じ組成であることが判明する。

事実、ファージは何十年もの間、生化学研究において純粋な核酸(DNA)の唯一の供給源であった。電子顕微鏡で記録されたバクテリアへのDNAの取り込みと放出のプロセスは、感染と解釈された。何の根拠もなく、ファージはバクテリアを攻撃し、強姦し、核酸をバクテリアに押し付け、その結果としてバクテリアは死滅すると主張された。現実には、状況はまったく異なる。極めて近親交配的な、つまり他のバクテリアや微生物と接触することなく常に繁殖しているバクテリアだけが、変形によってファージに変化するのである。この変形が誤解されているのだ、ファージがバクテリアを殺すのだと。その一方、環境から隔離されたばかりのバクテリアはファージに変化することはなく、またファージをいくら添加しても死滅することはない。この理由によって、抗生物質(痛みやその他の症状を抑える)の代用としてよく引き合いに出されるファージ療法が、他の毒物と同様、決して期待される意味や範囲で機能しない。

(訳注:一般に、ファージ〜バクテリオファージは、バクテリアに取り付いて殺す「ウイルス」だとされており、そのため、「悪いバクテリア」を殺すための抗生物質の代わりとして、ファージを使った療法が研究されている)

ファージと巨大ウイルスの生物学と、その結果としての生命細胞説への反駁

私は、藻類(Ectocarpus siliculosus)から「巨大ウイルス」を分離したのだが、状況は次の通りだ。藻類の移動体である配偶子や胞子は、その柔軟な鞭毛で環境中の「巨大ウイルス」を探し、「巨大ウイルス」を体内に取り込む。成長した藻類は、「巨大ウイルス」の核酸を自らの染色体に組み込む。「巨大ウイルス」を持つ藻類は、持たない藻類よりもよく育つことが観察された。「巨大ウイルス」を持つ藻類が、持たない藻類より調子が悪いことは観察されていない。ますます驚くべき性質を持つ新たな「巨大ウイルス」が絶えず発見され、バクテリアや微生物、アメーバや単細胞生物が「巨大ウイルス」から発生し、それがまた変化しているという証拠がどんどん生み出されている。

巨大ウイルスは、触媒活性を発達させる核酸、すなわち自らエネルギーを放出し、さらなる核酸や他の分子、物質を合成する核酸の周囲で、明らかに発生する。その結果、常に新しい性質や能力を開発する。特に反応性が高く、多様な核酸形態であるRNAは、「RNAワールド」というキーワードの通り、容易に、そして継続的にDNAに変化し、再びDNAに戻ることができる。ゲノムの大部分が「巨大ウイルス」の核酸で構成されている細胞生物は、ますます多く見つかっている。極めて近親交配的な(近親相姦的な)細菌培養の転換の際にのみ産生されるファージと、自己を維持し、肥大化し、活発に代謝する巨大ウイルスの発見によって、これまでに次の三つが証明されている。

  • i. 細胞説:生物学的生命は細胞の形でのみ存在し、細胞からしか生じないという説は否定された。
  • ii. 生物学的生命が灰色の太古に誕生したという主張には反論がある。独断や根拠のない理論に縛られることなく、客観的に生命を見るだけで、生命は常に新しく、我々の目の前に出現している。我々が現在知っているような生物学的生命は、水のあるところならどこでも、おそらく母なる惑星地球と同じか似たような条件下でも発生しうることが証明されている。
  • iii. 他の生物の「ファージ」や「巨大ウイルス」が核酸を取り込むことを感染と解釈し、有害だとする否定的解釈は否定された。しかし、1952年以降、この観察から、ヒトの中にも遺伝的ウイルスが存在し、その「危険な」核酸を伝達することによって病気を引き起こし、死や破滅の原因となりうるという考えが生まれたのだ。今日に至るまで、ウイルスは人間、動物、植物、液体のいずれからも確認されていないし、そこから分離されたこともない。今日に至るまで、病気を引き起こすとされるウイルスの遺伝物質の長さと組成に相当する核酸の分離さえできていない。この長さの核酸の分離、表現、組成の分析は、最も単純な標準的技術で以前から可能であった。

ノーベル賞とその致命的な結末

分離された状態の「ファージ」や「巨大ウイルス」(バイオント)は、電子顕微鏡で素早く簡単に、大量に撮影できる。病気を引き起こすというウイルスの分離と、分離され特徴づけられた構造の写真撮影はまだ成功していないのだ!バイオント(つまり、ファージや巨大ウイルス)は、電子顕微鏡で定期的に大量に観察され、それらを産生する生物で写真撮影される。その一方で、病原性ウイルスと主張される構造を電子顕微鏡で撮影することは、いかなる人間、動物、植物、あるいは血液、種子、唾液など、それらの液体においても不可能である。現在までのところ、病原性ウイルスを発見し、記録することに成功した例はない!なぜだろう?

ウイルスとされるものの電子顕微鏡画像は、常に全く異なるソースから得られた構造しか示していない(訳注:つまり、ウイルスではない別の物である)。これらの構造は、(論文など基づいて容易に追跡し検証できるが)分離されたこともなく、生化学的に特性決定されたこともなく、ウイルス学者がウイルスの遺伝子鎖とされる長い核酸を構築するための核酸の短い断片のソースとして使われたこともない(訳注:「短い断片」は、ウイルス以外の物から得たものである)。

あらゆる種類の「ファージ」や「巨大ウイルス」から、まったく同じ長さ、まったく同じ組成の核酸を毎回得られる。ウイルス学者が病気を引き起こすウイルスの遺伝物質だと主張するものに長さや組成が一致する核酸(DNAまたはRNA)を、構造物や液体から分離可能になったことはない(訳注:いわゆるウイルスまるごとが分離されたことはない、「ファージ」「巨大ウイルス」は何度も分離されているにもかかわらず)。

ウイルス学者がなぜ、どのようにして、現実からかけ離れた危険な反科学的アプローチへと完全に回り道をしたのか、その理由は、1951年から1954年12月10日の間に起こった一連の出来事から明らかになる。1951年に医学ウイルス学が対照実験によって終了した後、1952年からは、バクテリオファージが、「病気を引き起こすウイルス」とはどのようなものであるべきか、という根強いイデオロギーのモデルとなった。これは、一定の長さと組成を持つ核酸を、一定の数のタンパク質からなる殻が取り囲む形態である。

しかし、ヒト/動物/植物における「病気を引き起こすウイルス」の電子顕微鏡写真はなく、分離された状態の電子顕微鏡画像もなく、成分の生化学的特性評価もなく、分離ができないため、今日にいたるまでウイルス学者は、「ウイルス性」に罹患したと思われる組織の個々の成分を、精神的かつ図式的にウイルスに結合させた知的産物を、あたかも存在するウイルスかのように、自分自身と大衆に対して見せかけることを余儀なくされてきたのだ!

病気を引き起こすウイルスの存在を主張するウイルス学者たちは、自身の行いを正当化し、科学的であるかのように見せかけるために、単一の論文を中心的に参照する。これは非常識であり、反科学的な行為である。1954年6月1日にこれらの考察を発表した著者たちは明確に述べているのだ、自身の観察は、それ自体で反証されている推測であり、将来的に確認する必要があると。この「将来」はまだ実現していない。なぜなら、この研究の筆頭著者のジョン・フランクリン・エンダース教授が、1954年12月10日にノーベル医学賞を受賞したからだ。彼は、1951年に反証された「ウイルスは危険なタンパク質毒素である」という古い説の中の別の推測に対してノーベル賞を受賞したのである。このノーベル賞は二つをもたらした。すなわち、反論された古い毒素ウイルス説は疑似科学的な後光を浴び、新たな遺伝子ウイルス学は最高の、明らかに科学的な栄誉を得たのである。

1952年以降、新たな遺伝子ウイルス学には二つの中心的原理があった。病気を引き起こすウイルスは、原理的にファージと同様の構造をしており、感染したと思われる試料を加えた後、試験管の中で細胞が死ぬと発生する。1954年6月1日、エンダースと同僚たちは、感染したと思われる物質を加えた後、試験管内で死滅した細胞がウイルスに変わるという考えを確立した。この死がウイルスの分離とも呼ばれ、外部から実験室内に何かが持ち込まれるためである。エンダースや彼の同僚たち、そしてすべてのウイルス学者がこのことを見落としていた〜ノーベル賞に目がくらんでいたのだ〜実験室の細胞の死はウイルスによって起こるのではなく、実験室の細胞が意図せず、気づかれずに、しかし組織的に殺されているからである。細胞毒性を持つ抗生物質による毒殺、栄養液の抜き取りによる極端な飢餓状態、腐敗、つまり分解された有毒な代謝産物の添加などである。

実験室で死んだ細胞の成分が、頭の中でウイルスに組み立てられ、現実のものとして提示される。病気を引き起こすウイルスのウイルス学とは、それほど単純なのである。エンダースと「ウイルス学者」たちは、今日に至るまで「実験室で細胞を無菌物質に感染させる」という対照実験を行ったことがない。対照実験では、「ウイルス性」と思われる物質とまったく同じように死んでしまうのである。

(訳注:病人の体液を「培地」に混ぜると、ウイルスが増殖してその培地の細胞の崩壊が起こるとされる。その一方で、健康人の体液を混ぜるとどうなるのかという比較対照実験はされない。ステファン・ランカは実際にこれを行ったが、「何の変わりもなく崩壊する」という結論だった。すなわち、細胞の崩壊を起こしているのは「ウイルス」ではなく、培地そのものである)

すべての病気を引き起こすウイルスの主張に対する、簡潔で明快、かつ理解しやすい反論。

誤りや自己欺瞞は人間的なものだし、理解でき、許されるものである。許されないのは、ウイルス学者が自分たちの発言や行動が科学的だと常に主張することだ。これは明らかに間違いであり、容易に検証可能であり、誰にでも理解可能なことだ。だからこそ、コロナウイルスやその他の病気を引き起こすウイルスを主張するウイルス学者たちは詐欺師と呼ばれねばならず、法的手段を使って訴追され、その虚偽で反論の余地のない危険な発言を撤回させられべきなのである。そうすれば、コロナ危機や、「エイズ」、「エボラ出血熱」、その他の根拠のない「ウイルス性」パンデミックのような、致命的な結果をもたらす他の「ウイルス性」大災害は、食い止められ、将来防止されるだけでなく、誰にとってもチャンスに変わるだろう。

科学的声明と呼べるものの定義と、その結果として生じる義務は明確に定義されている。要約すれば以下である。

  • A. すべての科学的主張は、検証可能で、理解可能で、反論可能でなければならない。
  • B. 思考法則、論理学、適用できるなら対照実験によるその科学的声明への反駁が成功しなかった場合のみ、その声明は科学的と言える。
  • C. すべての科学者は自分の発言をチェックし、疑問を持つ義務がある。

なぜなら、ウイルス学者たちはこれらを自分でチェックしたことがなく、理解可能な理由から、それをしたがらないからだ。誰が自分たちのこと、自分たちの評判そのものに反論したいと思うだろう。我々は7つの論証をもってこれを公に行わなければならない。この7つの論証だけでも、すべての「病気を引き起こすウイルス」、そしてこの種のウイルス学者の存在を否定するに十分である(ただし、既存の「ファージ」や「巨大ウイルス」を扱う研究者を除く)。以下では、「病気を引き起こすウイルス」という言葉の組み合わせの代わりに「ウイルス」という言葉を使う。

(訳注:「ウイルス」一般は存在するが、「病原性のウイルス」は無いと言っている)

1. アライメント=整列の事実

ウイルス学者がウイルスの完全なゲノムを分離し、その全長を発表したことはない。彼らはいつも、核酸を構成する4つの分子からなる非常に短い核酸の断片だけを使い、それを決定して配列と呼んでいる。ウイルス学者たちは、このような特定の非常に短い数百万の配列から、複雑な計算と統計的手段の助けを借りて、架空の長い遺伝子鎖を心の中で組み立てる。このプロセスを彼らはアラインメントと呼んでいる。

(訳注:ウイルス学者は、ウイルス自体を単独で得たことはなく、ウイルス以外のものが混ざった状態で、それらすべて細切れにした核酸の短い配列を得る。その後に、それら数十万・数百万の短い核酸配列をコンピュータにかけてつなぎあわせ、場合によっては、その結果の数千万通りの中からただ一つの「ウイルス全体の完全なゲノム」を得るのだという。そのゲノムが正しいかどうかは、実物を得たことがないので検証のしようがない。これらの想像の産物を組み立てることをアラインメントと呼ぶ)

複雑なアラインメントの結果、この架空で非常に長い遺伝子鎖は、ウイルス学者によってウイルスの心臓部であると主張され、ウイルスの存在を証明するものとも主張される。しかし、このような完全な鎖が、現実にも科学文献にも全体として現れることはない。核酸の長さと組成を決定するための最も単純な標準技術は長い間利用可能であるにも関わらずだ。同じ長さの核酸を直接的に示すのではなく、アラインメントを用いることで、ウイルス学者たちは自身の誤りを証明している。

(訳注:その全体を取得することはできず、アラインメント作業をする、つまり、バラバラの断片を組み立て直して示すしかないのは、そもそも(病原性)ウイルスなど存在しないからである)

2. アライメント/オリエンテーションに関する対照実験がないこと

ウイルス学者たちは、対照試験を行い、そこで得られる短い核酸を用いたアラインメント/オリエンテーションを実施し、文書化したことはない。この目的のために、彼らは同じ細胞培養手順から短い核酸を分離しなければならないが、「感染」が疑われる場合は、「感染」したと思われるサンプルを加えるのではなく、「対照感染」した無菌材料または滅菌サンプルを加えなければならないという違いがある。このような論理的かつ義務的な対照検査が実施され、文書化されたことは一度もない。これだけで、ウイルス学者たちの声明には科学的価値がなく、科学的声明として流布すべきではないことが証明されている。

(訳注:ウイルス学者は、ウイルス性疾患の患者の体液から様々な手順でウイルスの「完全なゲノム」を得る。その一方で、比較対照試験として「健康な人の体液」の場合には「得られない」ことを示したことがない。これは明らかに、自身の非科学的な「研究」が否定されないように故意に行っている)

3. アライメント/オリエンテーションは、概念的な構成要素によってのみ行われる

核酸の非常に短い配列を長いゲノムに組み立てられるようにするには、短い配列を非常に長いウイルス遺伝子鎖にアラインメント(整列)させるための鋳型(テンプレート)を必要とする。あらかじめ決められた非常に長い配列がなければ、いかなるウイルス学者であれ概念的/計算機的にウイルス遺伝子の鎖を作ることは不可能である。ウイルス学者の主張としては、様々なアラインメント/オリエンテーションのウイルス遺伝子の鎖を使って行われたので、概念的/計算的に構築された遺伝子の鎖はウイルスに由来するのだという。

(訳注:数百万の短い核酸配列を組み合わせて数千万通りのゲノム配列を得て、そのただ一つに決定するには、「ウイルスの配列はこうであろう」という見本が必要になる。おそらくここで言うのは、ウイルス学者としては、様々なメーカーの様々な機器を用いても同じような配列が得られるのだから、「これはウイルス由来だ」と主張することと思われる。しかし、あらかじめ「ウイルスの全配列はこういうものだろう」といった見本がなければ、数千万通りの組み合わせから一つを選びだすことは、当然ながらできようもない)

ウイルス学者のこのような主張は、簡潔かつ明確に反論できる。なぜなら、新たな遺伝子の鎖が概念的/計算機的に生成されたテンプレートはすべて、それ自体が心の中/計算機的に生成されたものであり、ウイルスに由来するものではないからである。

4. ウイルスがヒト/動物/植物の体内や体液から検出されたことはない

ウイルス学者によれば、感染性の、つまり無傷(訳注:ウイルス学者の得る断片ではなく、ウイルスまるごとの意味)のウイルスは血液や唾液中に大量に存在するという。そのため、例えばコロナ危機では、誰もがマスクを着用しなければならない。しかし、現在までに、唾液中、血液中、あるいは人間/動物/植物/液体中に存在するウイルスは、一つも撮影されていない。電子顕微鏡画像は簡単で日常的に行われている標準的な手法であるにもかかわらずだ。ヒト/動物/植物、あるいはそれらから採取された液体のウイルスが記録されていないという、この明確かつ容易に検証可能な事実は、すべてのウイルスの主張を否定するものである。ヒト/動物/植物、あるいはそれらから採取された液体で一度も確認されたことのないものを、科学的に証明された事実として流布すべきではない。

(訳注:俗に言う「ウイルスの写真」なるものは、生物の体液を直接観察したものではなく、必ず他の何らかの物と混ぜ物をして「ウイルスによって細胞崩壊させた」後のものや、何かしらの加工を施した後の写真であり、すべて無効)

5. ウイルス学者がウイルスであると主張する構造体の構成は、生化学的に特性決定されたことがない

ウイルスとされるものの写真を撮るには、二つの手法がある。透明(透過)電子顕微鏡法では、細胞培養物を合成樹脂に埋め込み、薄く削り、透かして見る。このような画像に写っている粒子は、決して分離されたものではなく、生化学的に組成が決定されたものでもない。すべてのタンパク質とウイルスに割り当てられた長い遺伝子鎖を見つけなければならない。そのような埋め込み粒子の分離も、その組成の生化学的特徴づけも、ウイルス学者が発表した論文の中には一つも出てこない。このことは、このような記録物がウイルスである可能性があるというウイルス学者の主張を反証するものである。

(訳注:???)

ウイルス学者がウイルスを電子顕微鏡で撮影するために用いるもう一つの方法は、「ネガティブ染色」として知られる、簡単で速い反射電子顕微鏡法である。「ファージ」や「巨大ウイルス」のような実際に存在する構造を、他のすべての成分から濃縮するために、標準的な技術である密度勾配遠心分離が使用される。これらの分離された構造体の存在、外観、純度は、これらの粒子を金属含有物質でコーティングし、下の構造体が電子ビームの影として現れることによって、電子顕微鏡で見えるようになる。「ネガティブ染色」によって可視化された分離された粒子の他の部分は、生化学的に特性評価される。すべてのファージと巨大ウイルスの場合、常に無傷で非常に長い同一組成の核酸が発見され、生化学的特性評価の結果が文書化される。

この「ネガティブ染色」法により、ウイルスと分類されるすべてのウイルスでは次が起こっている。これらの粒子は、この目的のために用意された密度勾配遠心分離で濃縮、洗浄、分離されるのではなく、単純な遠心分離によって遠心チューブの底に沈殿する。これが「ペレット化」と呼ばれるもので、その後電子顕微鏡で観察される。ウイルスとして提示されたこのような構造体の組成は、今日まで生化学的に決定されたことはない。ウイルス学者たちによる、監理電子顕微鏡で構造物がウイルスとして報告されているすべての出版物に基づいた、この容易に検証可能で理解可能な声明によって、ウイルス学者たちはまた、ウイルス存在主張のこの議論に、単純かつエレガントに〜それとは気づかずに〜自ら反論しているのである。

6. ウイルスとして示される電子顕微鏡画像は、典型的なアーティファクト(人工物)または細胞構造として知られている

ウイルス学者たちは、ウイルスだと主張するさまざまな構造の電子顕微鏡画像を公表している。しかし、彼らの隠していることは、これらの画像すべてが、瀕死の細胞培養に見られるような典型的な構造か、あるいは、実験室で作られたタンパク質-脂肪-石鹸の泡に過ぎず、人間/動物/植物やそれらの液体で撮影されたことはないという事実である。

ウイルス学者以外の研究者は、ウイルス学者がウイルスだと主張するものと同じ構造物を、絨毛(細胞が地面に付着して動くアメーバのような突起)のような典型的な細胞構成要素、エクソソーム、あるいは「ウイルス様粒子」と呼んでいる。これは、電子顕微鏡でウイルスが見えるというウイルス学者たちの主張が科学的に否定されたことを示す、もう一つの独立した証拠である。

ウイルス学者の動物実験がウイルスの存在を否定する
ウイルス学者は、その扱う物質がウイルスであること、それが病気を引き起こす可能性があることの証明に動物実験を行う。このような動物実験を実施したすべての(論文などの)公開物は、その動物が扱われるやり方自体によってその症状が発生したことが明確に示されている。これがウイルスの影響として報告されているのだ。これらの公開物からは、滅菌された出発物質で同じように動物を扱った対照実験が行われていないことがわかる。

(訳注:混合物を脳に注射したり、喉に押し込んだりする実験で、麻痺や気管支症状が起こるという論文ばかりである。「空気感染」するはずのウイルスでさえ、自然な空気感染で病気になる実験は行われない。また、滅菌された「出発物質」、つまり、「ウイルスの入っていない」培地のみでの対照実験は行われない。それでも同じ症状を起こしてしまうことを恐れているからであろう)。

動物実験でウイルスの存在と影響を発見したと主張するウイルス学者たち自身が、この2つの明白な反証を行っているのである。

結論

いまや必要なこととしては、コロナ危機に終止符を打ち、これを誰にとっても機会に変えることである。このような明確で、理解しやすく、検証可能なウイルス学への反論を公にし、効果的なものにする機会である。これらの反証は、例えば、司法においてウイルス学者に対して適切な法的措置がとられ、その結果が公表されれれば効果的だろう。結果の報告はサイエンス・プラスのメーリングリストで行う。

あらゆる「病気を引き起こすウイルス」に関するこれらの説明を確認したい人は、英語ができ、その方法を読むのであれば、まったく同じ結論に達することを私の名において保証できる。注意点としては、コロナ危機が続く限り、私の同僚と私は、いわゆるコロナ・ウイルスとはしかウイルスと疑われるものに関する問い合わせにしか答えない。コロナ期間中において他のすべての「ウイルス」に関する問い合わせは、2003年以来『WissenschektivenPlus』誌に掲載されている記事を参照されたい。

はしかウイルス裁判において最高裁が確定した判決によって、ウイルス学の根幹が崩れたことを肝に銘じてほしい。それだけでなく、1954年6月1日にウイルス学の中心的方法が発表され、そこで実験室で意図せず気づかれずに細胞が死滅することが病気を引き起こすウイルスの存在の証拠とされたが、2016年にはもはやウイルスの存在を証明するものではないということが司法的に確立され、それゆえドイツの判例法の一部となっているのだ!

はしかウイルス裁判の判決だけで、今日の生物学、医学、社会、国家を支配する『善悪』思考を逆転させる可能性を、コロナ危機が高めたのである。おそらく、SARS-CoV-2に上記の7つの論点の1つ、いくつか、あるいはすべてを当てはめるだけで、世界的なコロナ・ヒステリー、検査法、ワクチンによる利益供与の予測可能な力学に終止符を打てるだろう。はしかウイルス裁判と一般的な事柄に関しては、電報ポータルのCorona_Faktenインターネットサイトを参照してほしい。はしかウイルス裁判の重要性に関して何が起こっているのか、非常に優れた要約と他の記事がある。

コロナ危機が誰にとっても好機であることを証明するという私の楽観論は、感染防御法(略称ifSg)第一条に基づく。ifSgの第一条の中に(2)として「法の目的」がある。「連邦、州および地方当局、医師、獣医師、病院、科学機関およびその他の関係者の必要な協力と連携は、現在の医療および疫学の科学技術の現状に従って設計され、サポートされている必要がある。伝染病予防における地域施設、食品会社、保健施設、個人の所有者や管理者の責任を明確にし、奨励すべきである」。

すべてのコロナ対策と条例、またコロナ法は、もっぱら感染防御法(ifSg)に基づいている。しかし、「ifSgの第一条における目標規定」は、医学的・疫学的科学技術の現状に従って設計され、支持されるべきというウイルス学者自身の公表した声明によって反証され、反科学的であることが証明されたため、すべてのコロナ対策には欠落がある。規則と法律は適用する法的根拠を提供する。

コミュニティ施設、食品企業、健康施設、そして個人、すなわち法律の影響を受けるすべての市民の機関や責任者の誰も、第一条の文(2)で、ウイルス学者が病気を引き起こすウイルスの存在について科学的根拠がなく、自らの行動や出版物によって反論していることを証明できるのであれば、コロナ対策や条例を実行したり容認したりすることは許されない。

ifSg第1条の科学研究義務がある限り、ifSg第1条を参照して、コロナのすべての措置、条例、法律の無根拠性、無法性、有害性、不道徳性の証拠を法廷でうまく提示することが可能だ。裁判官の大多数は正直で良心的であり、法に従う。そうでなければ、公然たる独裁政権がこの国を長い間支配し、ウイルス学や医学から得た似非科学的で反証済の論拠を用いながら、ますますその姿を現してしまう。

その際には、次の点に注意されたい。国民の大多数は、病原ウイルスの存在/働きとワクチンのプラスの効果を信じている。非常に大げさに言えば がんが誤解された悪の原理の影響だと信じている人は、転移も信じているし、「空飛ぶ転移」、別名ウイルスも信じている。がんの診断とその厳しい治療がもたらす悪影響によって、ほとんどすべての人が直接的、間接的に経験した苦しみが深い影響を及ぼしている。このような直接的、間接的に経験した苦しみが、危険で致命的な病気やウイルスが存在するという感覚、確信を人々に生み出し、強めていることを、あなたの教育や行動において考慮してほしい。これらの経験や他の経験から、私たちの国家とその専門家だけがそれに対処することができ、対処することを許されるという見方が生まれていることに留意してほしい。こうすることで、逆を避けることができる。これは、我々全員が必要としている医師を相手にする場合に特に重要である。

たとえば私は、病気や治癒に至るプロセスを(良い意味で)科学的に説明し、治癒の危機は起こりうるし、治癒の障壁は効果を発揮しうるという、より優れた知識体系があることを、質問する人すべてに説明する。しかし、この新たな視点を受け入れることができるようになるためには、多くの場合、細胞理論に基づくこれまでの説明体系が否定されたと認識されることが前提条件となる。コロナ危機はそのためのまたとない機会であり、生命と、自由・平等・友愛という人間の普遍的な3つの理想、すなわち人間共同体の社会的三者のために立ち上がるという明確な呼びかけである。(w + 4/2020号の記事「社会的三者構成」を参照)。

コメント

  1. AB より:

    こんにちは

    >(訳注:???)

    ここですけど埋め込み式撮影でウイルスが固定されているのなら分離も遺伝子検査も簡単に出来る状況にあるということが言いたいのではないでしょうか