「それは分断行為だ」という傲慢

2022年4月19日

一般大衆と全く何の違いも無い、活動界隈の人たちに関連する話なのですが、私がある人物を批判すると、決まってこう言う人が出てきます。「活動を分断するつもりか?」と。「弱い者が弱い者を叩いてどうする。今はそんな時じゃない」という人もいます。

私がある人を叩けば、「それを真に受けた、たくさんの人が、その人に集まらなくなり、団結できなくなる」と言うことでしょう。そして、「団結しなければ大きな力になりえない」というのでしょう。

この考え方は欠陥だらけで、まるでお話になりません。多くを指摘することができます。

根拠の無い傲慢な宗教的信念

まず、これらのとても貧弱な意見に共通する特徴としては、「その人のもとに集まることが正しい」ことの根拠がまるで示されていないことです。投票したわけでもなく、単なる思い込みにすぎません。

私の方は、その人物を批判すべき理由があり、事実を提示しているのですが、それを見もせず、反論もできずに私を非難する時点で、その意見は単なる宗教的信念にすぎないということです。

つまり、「この人に集うことが最良であると、私が決めた。だから批判は許されない。理由は言えない」などという、自らの傲慢さを示しているに過ぎないのです。

そして、ここが驚くべきことなのですが、実際の理由としては単に「個人的に仲が良いから」という程度でしかありません。この点は本当に驚愕と言えます。それ以外の何の理由も見いだせないのです。結局のところ「この私が見込んだ人なのだから」でしかないのですが、こういった傲慢ぶりは、どうにかならないものでしょうか?

向こう側と同じ、言論の自由の否定

そしてこれは、我々の言論の自由の否定でもあります。我々全体の言論を封じようとする、向こう側とまるで同じ発想であることに気づけません。

向こう側のやり方としては、もちろん連中は明確には言いませんが、「何かしら正当な理由があれば言論を封じても良い」ということです。「マスク・ワクチンは効果があると、我々が認めたので、疑問を呈するような意見は、偽ニュースであり、削除してよい、無視してよい、報道しなくてよい」と。

どうでしょう?同じ思想です。「この人はリーダーであると(私が決めたので)批判意見があってはならない」。一体どこが違うのでしょう?

両者共に、言論の自由を封じるための「何かしら正当な理由」を、勝手に作り出しているだけなのです。これがいかに恐ろしいことか、まるで理解できないようです。

向こう側と同じ、事実の議論ではなく人格攻撃に終始

さらに悪いことには、都合の悪い話に対して、向こう側と同じ方針をとります。すなわち、「提示された事実には一切触れず、その評価を一切せず、批判者の人格攻撃に終始する」点です。

例えば、コロナはない、マスクは効かない、ワクチンはただの毒という意見が目立ってくるとすれば、その中身を堂々と議論するのではなく、発言者の人格攻撃に終始するのが向こうのやり方です。これが、都合の悪い事実に触れず、話題にせずに抑えこむ常套手段であり、コロナ以前からの伝統と言えます。

正面から堂々と対象となる問題を議論するのではなく、それを避けて脇道から攻撃してくるわけです。こういうのを卑怯者と言います。

一般大衆と全く何の違いも無い、活動界隈の人たちで提示した「一般大衆とまるで何の違いもない」というテーマの、また一つ裏付けになったと思います。この洗脳済一般社会と同じ思考形態の枠組みでしか考えることができず、その同じやり方をし、その事実に気付こうともしないのです。そして「私は正しいので、気づく必要がない」のです。

一般社会の洗脳から抜け出せない人たち

何と表現すれば良いのかわかりませんが、心底から「そういった姿勢」が染み付いています。洗脳済一般社会で育まれた物の考え方から抜け出ることができません。

「大きなことを成し遂げるには、優れたリーダーの元に集まり、その命令のもと、全体が一斉に動くようなピラミッド構造が必要だ」といった一般社会と同じ考え方でしかありません。

ですから、「分断だ!」という言葉の裏には、そのような「一般社会において我々をこれまで縛りつけてきたピラミッド構造」を、「こちら側でも作る必要がある」などと、何も考えず、ぼんやり考えるに過ぎないのです。これが、これまでの洗脳の成果であることにも気づけませんし、もちろん何の根拠もありません。

つまりは、一般社会においてピラミッド構造に我々を組み入れて縛り付けようとする連中と、何も変わらない思考形態ということです。違いは単に、「コロナのウソに気づいている」だけです。その思考自体が根本問題であることに気づけません。

他者に思考・行動・責任を押し付ける

例えば、選挙で誰かを議員にし、あるいは、株主総会で誰かを社長にし、そのリーダーシップのもとに大勢が動く仕組みという概念から一歩も抜けられません。

その意味としては、「自分は考える必要がない」「自分が動く必要はない」「自分は責任とらなくて良い」ということです。これが、あらゆる事柄の根底にある問題点です。

こういった人たちが、錦の御旗のように掲げる暗黙とも言える前提が「団結しないといけない、力にならない」という概念です。これが言わずもがなになってしまい、私の言論を、「分断行為だ」などと批判するのです。

それが正しいなどと、一体誰が決めたのでしょう?どんな根拠なのでしょう?何もありません。思い込みの宗教的信念にすぎません。

「オラたちのリーダーを決めたのだから、その指図に背くんじゃねぇ。オラたちは彼の言う通りにやってればいいだ」などという、徹底的に染み付いた奴隷根性から現れてくる、差し出がましい真似をする同じ奴隷仲間に対する同調圧力にすぎないのです。

 

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Posted by ysugimura