このルパート・シェルドレイクの講演は、
グラハム・ハンコック:TED検閲トーク「意識における戦争」と同日に行われたもので、同時に検閲されたものですね。ハンコックと同様に、主流派の物質主義的世界観に疑問を呈するものであることが彼らの気に入らない点だったのだろうということです。
世界観としての科学が、科学的探求を抑圧している
「我々は既に、大体においては現実の本質を理解している。その詳細はまだ埋められてはいないが」という妄想が科学にはあります。これは我々の社会において広範囲に広がっている信念です。
これは「私は神を信じない、科学を信ずる」と言うような人々の信念体系といえるでしょう。この信念体系は、今や世界中に広がっています。しかし、科学の中心部分において、対立があるのです。一方は、探求の手法としての科学、つまり理由・証拠・仮説・集合的調査研究に基づくものですね。もう一つは信念体系あるいは世界観としての科学。これらのあいだの対立です。
不運なことに世界観としての科学は、自由な探求を妨害・抑圧するようになってしまいました。それが科学的試みの活力源であるにも関わらず。
19世紀終わり頃から科学は、信念体系という面あるいは世界観によって指揮されてきたのです。世界観とは本質的に物質主義、哲学的物質主義です。現在では科学まるごとが物質主義者の世界観に従属しています。私は、それを打ち破れば科学は生まれ変わるとみています。
私は自著の「Science Delusion」の中で。。。米国では「Science Set Free」というタイトルですが、科学における10のドグマや仮定を取り上げ、それらに疑問を呈しました。それらを科学的にみた場合に、説得力があるのかを。一つとしてそのようなものはありません。
最も教育程度の高い人達のドグマ
ここでは、最初に10のドグマをざっと流し、時間があれば、1つか2つを詳しく見てみましょう。しかし、基本的にこれらの10のドグマはデフォルトの世界観なのです。世界中の最も教育程度の高い人達のですね。
第一は、自然は機械あるいは機械的である。宇宙は機械であり、動物・植物も機械であり、我々も機械的である、実際に我々は機械である。Richard Dawkinsのビビッドな言葉によると、我々はぎくしゃくしたロボットであるそうですが、脳は遺伝子的にプログラムされたコンピュータなのです。
第二としては、モノには意識は無い、です。宇宙全体は意識の無いモノから作られており、銀河の星には意識などなく、惑星にもなく、動物にも植物にも無いと。この理屈が正しければ、我々にも存在しないのです。過去100年以上のあいだに、心に関する多くの哲学は、我々には意識が全く無いことを証明しようとしてきました。
ともあれ、モノには意識がなく、自然の法則は固定しているということです。これがドグマ3です。自然の法則はビッグバン当時のものと同じであると。そして永久に同じであると。自然の定数が固定しているだけではなく。。。だから定数と呼ぶのですが。
ドグマ4、モノとエネルギーの総量は一定している。総量としては全く変わらない、ビッグバンの瞬間以外は。それは何も無いところから突然生じたのですから。
第5のドグマとしては、自然には目的は無い、です。すべての自然には目的がなく、進化プロセスにも目的や方向がない。
ドグマ6は、生物的遺伝は、物質的なものである。すべての受け継いだものというのは、遺伝子的なものであるか、遺伝子のエピジェネティックな変化によるものであるか、細胞的継承である。物質的なものです。
ドグマ7。記憶は脳の中にある。物質的な痕跡として。どういうわけか、あなたの記憶はすべて脳の中にあるのです、神経末端のリン酸化タンパクの変化形として。しかし誰もその仕組みを知らないのです。それでも、科学界のほぼ全員が、脳にあるに違いないと信じ込んでいるのです。
ドグマ8、心は頭の中にある。すべての意識の働きは脳の活動であり、それ以上のものではない。
ドグマ9は、ドグマ8の結果ですが、テレパシーのような心霊現象はありえない。考えと意図は、離れた場所において何の影響も及ぼさない。心は頭の中にあるから。それゆえ、テレパシーや心霊現象のすべての証拠というのは幻想である。人々はこれらが起こると信じているが、しかし、統計というものを知らないからか、偶然に騙されているか、あるいは、ただの願望である。
そして、ドグマ10です。機械的医療が唯一効果のあるものだ。それがゆえに、政府は機械的医療のみに資金供給するのであり、補完的あるいは代替医療を無視するのである。それらは実際に役に立たないのである。機械的ではないからだ。うまく行くように見えるかもしれないが、何にしても対象が治ったのである。あるいは、プラシーボ効果によるものである。何にせよ、本当に機能するのは機械的医療である。
さて、これらがデフォルトの世界観です、ほとんどすべての教育を受けた人々、世界中の人々の。これらが、教育システムの基盤となっています、国民医療サービス、医学研究審議会、政府のですね。そして教育を受けた人々のデフォルトの世界観です。しかし、私が思うに、これらすべてのドグマは非常に疑わしいのです。良く見てみれば、砕け散ってしまうものです。
自然の法則は確定していない
最初に「自然の法則は確定している」から見てみましょう。これは古い世界観からの残存物だと言えます。ビッグバン理論が出現した1960年以前のものです。人々は宇宙全体が永遠であると思っていました。それは恒久的な数学的法則に支配されたものであると。
ビッグバン理論が出現しても、その仮定は続いたのです。ビッグバン理論は、この宇宙が根本的に進化的に140億年のあいだ成長発展を続けていることを示しているにも関わらず。140億年のあいだ、成長を続け、冷え続け、より構造的、よりパターン的なものが現れているのです。
しかし考えとしては、ビッグバン時点でも自然の全法則は完全に固定しているというものです、宇宙のナポレオン法典とも呼ぶべきものに(訳注:ナポレオンにより制定された5つの法典。世界で最初に制定された近代的な法典)。私の友人Terence McKennaはよく言っていたものです。
「現代科学は一つの原理にもとづいている、一つの何ものにもとらわれない奇跡が与えられ、我々は残りを説明しなければならないということだ」(訳注:思想家。幻覚植物と幻覚剤に関する研究。2000年没)
その「一つの何ものにもとらわれない奇跡」というのは、宇宙のすべてのモノとエネルギーとそれらを支配する法則が、全く何も無いところから一瞬にして現れたということです。
さて、進化する宇宙において、なぜそれらの法則が進化しないと言えるのでしょうか?結局、人間の法律というのは変更され、自然法則も人間の法律をメタファーとしてとらえられます。とても人間中心的メタファーなのです。
人間だけが法律を持ち、実際に文明社会では法律があります。C. S. Lewisがかつて言いました。「法則に則っているから石が地面に落ちるんだ、と主張することが人間であることであり、市民であることだ」。
これはメタファーなんです。よく使われてきましたが、メタファーであることを忘れているんです。進化する宇宙において、より良い考え方と私が思うのは、habit(習慣、傾向)です。私が思うに、自然のhabitが進化し、自然の秩序というのは本質的にhabit的であるということです。このような考えは、20世紀の始めに提唱されました。米国の哲学者チャールズ・サンダース・パースによってです。この考えはあらゆる他の哲学者にも受け入れられ、私自身もそれをもとに科学的仮定を作ったのです。
形態共鳴仮説とその証拠
Morphic Resonance(形態共鳴)仮説です。これら進化するhabitの基礎となるものです。この仮説では、自然界のすべてのものは、ある種の集合的記憶を持つということになります。
共鳴は類似性にもとづいて行われます。若いキリンの胎児は母親の子宮の中で育ちますが、それは、以前のキリンに対して形態共鳴を行います。そこから集合的記憶を引き出して、キリンのように成長し、キリンのようにふるまいます。これらも集合的記憶から引き出されるからです。
正しいタンパク質を作るためには正しい遺伝子を必要としますが、私の考えでは、遺伝子というのは過大評価されすぎています。それはタンパク質生成にのみ責任を持つのであり、生命体の形やふるまいではないのです。すべての種はある種の集合的記憶を持ちます。
クリスタルにさえもあります。この理論が予測するところは、もし新しい種類のクリスタルを最初に作ったとすると、完全に最初だとすると、それには既存のhabitがありません。しかし、いったんそれが結晶化すると、次回からは、最初のクリスタルの影響を受けるのです。そのような二番目のものが世界中で起こるのです、形態共鳴によって。
それらは結晶化させるのが少し容易になるのです。三番目は最初と二番目の影響を受けます。事実として良い証拠があります。新しい化合物が世界中でより容易に結晶化できるという。この理論が予測する通りに。
また、こういったことも予測します。動物を訓練して新しい芸を覚えさせると。。。例えば、ロンドンでネズミを訓練して何かの芸ができるようになると、世界中の同じ血統のネズミがそれを覚えるのが容易になるのです、単に(最初の?)ネズミが達成しただけで。
驚くべきことに、既に証拠があるんです。これが実際に起こるという。ともあれ、これが私の仮説形態共鳴の簡単な説明です。すべてが進化するhabitに依存するのです、固定された法則ではなく。しかし、少々自然の定数についても時間を使いたいのです。なぜなら、再度、これらが一定であると仮定されているからです。
重力定数・光速度は定数なのか?
重力定数や光速度は基本的な定数と呼ばれていますね。それらは本当に定数なのでしょうか?この疑問を持って、私はそれを解明したいと思いました。
物理学ハンドブックというのがありますね。物理学のハンドブックは既存の基本的な定数を並べています、どのような値かという。しかし、それが変わったかを見たかったのです。ですから、古いハンドブックを手に入れるために、ここロンドンのパテントオフィス図書館(?)に行きました。ここが唯一の場所だったのです、古い版が見られる。普通は新しいのが出ると捨ててしまいますからね。
これを見て発見したんです。光速度が1928年から1955年のあいだ低下していることを。一秒あたり20kmです。大きな低下ですよね。それらは任意の桁でのエラーとともに示されています(?)。さらに、世界中で低下していたのです。それぞれ極めて似た値を得ていたのです。少々の違いだけで。そして、1945年に上昇し、1948年にさらに上昇しているのです。そして、人々は再度同じような値を得るようになったのです。
これには興味をそそられましたが、意味がわかりませんでした。そこで、英国テディントンの国立物理研究所の計測学部長に会いに行きました。計測学とは、定数測定の科学です。私は彼に聞きました。
「この1928年から1955年の光速度の低下は何によって起こったのでしょうか?」
彼が言ったことは、「なんてことだ。君は科学の歴史の中で最も恥ずべきエピソードを見つけてしまったんだね」でした。ですから私は言いました。
「光速度が本当に低下したなら、驚くべき推測ができますよね」
彼は「いやいや、もちろん実際に低下するわけはないんだ。定数だからね」
「では、その期間に皆が最終的には遅い速度を得たという事実はどう説明できるのでしょう?」
「これはもしかして、他の人が得ていると思われる値と同じ値を、でっち上げたということなんですか?」
「すべては物理学者の心の中で作られたものなんですか?」
「我々はでっち上げなんて言葉を使いたくはないね」「では、どんな言葉がお好みなんでしょう?」。
彼は、「Intellectual Phase Locking(様相の知的固定?)と呼ぶ方がいいね」。
ですから私は言ったんです、「そういったことが過去に起こったなら、今日では起こっていないと何故言えるんでしょう?」
「現在の値もIntellectual Phase Lockingで作られたものではないんですか?」
「そうではないとわかってるんだ」
「どうしてそう言えるんです?」
「問題を解決したからだよ」
「どうやってです?」
「我々は1972年に、定義によって光速度を固定したからね」
「でも、まだ変化があるかもしれませんよ」
「でも知りようがないんだ。メートルを光速度で定義したからね。だから単位がそれにつれて変化するんだ」
彼はとても嬉しそうでしたよ、問題が解決したからですね。私はいいました。「大文字Gについてはどうですか?重力定数ですが」
この業界では大文字Gで書きます。ニュートンの万有定数ですね。
「近年では、0.3%以上の変動が起こっています」
「さらに、場所によって、時間によって変わっています」
彼は「それはただのエラーだよ」
「残念なことにGについては極めて大きなエラーがあるんだ」
私は、「しかしそれが本当に変化しているなら、つまり、実際に変化しているとしたら?」
彼らのやり方をみてみると、別の研究所で計測し、違う値になると、あるいは、別の日に違う値になると、それを平均するんです。世界中の他の研究所も同じです。そして普通はそれぞれ違う値になるので、そして、国際計測学委員会は10年に一度くらい会合を持ち、世界中の研究所からの値を平均してGとするのです。しかし、もし本当にGが変動しているのだとしたら?
既に実際に証拠があるんです、一日の中で、一年の中で変動するという。地球が銀河環境の中を動き、ダークマターの1区画を通り抜けるか、他の環境的要因によって変わるとしたら?
おそらくそれらは一緒に変化するかもしれません、もしそれらのエラーというのが、同時に上下するとしたら?10年以上の間、私は計測学に対して、「生のデータを見てくれ」と説得し続けてきました。実際に、彼らにそれらをオンラインにしてくれと今は説得しています。日付と実際の計測値です。それらの関連性、それらが一緒に上がったり下がったりするかです。そうであれば、一緒に変動するということです。これは非常に興味深いことを示唆するわけです。
しかし誰もやってません、やらない理由というのは、Gは定数だからです。変化を見る理由がありません。わかるでしょうか?ドグマ的仮定が疑問に思うことを抑止してしまうのです。私自身は、定数がかなり変わるものと考えています、もちろん小さな範囲ですが。すべて変化するかもしれません。
私が思うに、いつかnatureのような科学ジャーナルが、株式市場レポートや新聞のように定数の値を週毎にレポートする日が来ると思います。
「今週はGが少々上がりましたね!電荷のスピードは下がりました!光速度は安定していますね!」なんてね。
心の本質
それが一つの領域です。単に一つにすぎません。ドグマ的に考えることが少ないほど、可能性が開かれるのです。大きな領域の一つとしては、心の本質です。先程グラハム(ハンコック)が言ったように、最も大きく未解決の問題です。
科学は単純に我々の意識という事実を扱うことができないのです。考えというのは脳の中には無いらしいという事実を扱えません。我々の経験というのは、脳の中には無いらしいのです。あなたの見ている私のイメージというのは、あなたの脳には無いらしいのです。オフィシャルなビューアとしては、頭の中に小さなルパートがいて、この部屋の中の他すべても頭の中にあり、あなたの経験というのは脳の中にあるんです。
私が言いたいのは、視覚というのはイメージの外界への投影であり、そのイメージは心の中にあるのであって、頭の中にでは無いということです。我々の心というのは、知覚の最も単純な行為を行う脳を超えて拡張しているのです。私が思うに、我々は自身が見ているイメージから突き出ているのです。これらのイメージというのは、見ているものの感触でしかありません。私があなたを後ろから見たとき、そのことに気がつきませんよね?私はあなたに影響を与えられるでしょうか?私の眼差しを感じるでしょうか?
大量の証拠があるんです、人々は眼差しを感じることができるという、これは極めてありふれた経験なんです。最近の実験的研究では実際にこれが存在するとしています。動物にもあります。思うに、おそらくこれは捕食者と被食者の文脈において進化したものでしょう。被食者は捕食者の眼差しを感じます、その方が生き残る率が高いのです。これらは、エコロジカルな関係に全く新しい考え方をもたらします、捕食者と被食者の関係において。また、我々の心の範囲にも。
遠い星を見る時、私は我々の心が星に到達できると思います、それらの星に接触するという意味において。文字通り、天文学的な距離に拡大するのです。それは、単に頭の中にあるだけでは無いのです。これは驚愕すべきものと思われるかもしれません。これは21世紀の議論となるべきトピックです。我々は自身の心について知らなすぎるんです。
そこにある我々のイメージといのは、議論すべきホットなトピックです、現在の意識研究において。
ドグマに疑問を呈せば、ルネサンスが開花する
これらのドグマを扱う時間がもうありませんが、しかしどれ一つをとっても疑問の余地があります。疑問を呈せば、新しい形の研究、新しい可能性が開けるのです。
長いあいだ科学を引き止めていたこれらのドグマに疑問を呈することによって、ルネサンスの開花を経験することになるでしょう。私は科学の重要性を完全に信じるものであり、全人生をリサーチ・サイエンティストとして捧げてきました。しかし、これらのドグマの向こう側に行くことにより、もう一度再創造されると思います。面白いものになり、人生を肯定するものとなるでしょう。ありがとう。
コメント