ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その3

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その2の続きです。

スモン委員会は1967年に解散した。失敗だった。その間の報告されたスモン件数の累積合計は1966年末までに2千件近くになっていた。大きいが、しかし恐ろしい数ではない。静かな病気流行増加がなければ、低迷するウイルス狩りがスモン研究への関心を完全に殺したかもしれない。

オフィシャルな委員会が解散されてほとんどすぐに、岡山県の二つの田舎でこの症候群の爆発的流行が始まった。老齢女性の数十人と30代男性の何人かが病院を満たし始めたのだ。1971年には、ほぼ地域人口の3%になっていた。再度スモン病に科学者の注意が向けられた。蘇った流行亡霊がウイルス狩りを再チャージすることになった。

1968年に二人の研究者がレポートを発表する。スモン患者の組織から新たなウイルスが見つかったというものだ。これは興奮の渦を巻き起こした。この病原体は「コクサッキー」ウイルスの区分になる。消化器官に感染することで知られるパッセンジャーウイルスであり、もともとポリオ研究の副産物として発見されたものだ。これもまた偽警報だった。このウイルスは研究所汚染事故によるものと証明された。

1969年、日本の厚生省は流行の拡大を心配し、再度オフィシャルな調査団体を作ることを決める。古い1964年の委員会の10倍の予算を使ってだ。スモン研究委員会は、単一の病気に献身するものとしては日本史上最大の研究プログラムとなった。その最初の会合は、大きな影響を受けた岡山県で開かれた、9月初旬のことである。日本の科学者の間でのコンセンサスのある見方としては、病気原因の可能性として未知のウイルスに完全にフォーカスしていた。日本で最も尊敬されるウイルス学者のコウノが議長に任命されたが、それが新たな委員会の重要性を象徴した。

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これまでのところ、10年以上の継続的研究をしながら、ウイルス学者達は痛々しくも収穫がなかった。しかし、彼自身ウイルス学者であるコウノは、今や別の仮説探求の必要性を視野に入れていた。コウノは委員会の仕事を4つのセクションに分割し、それぞれ日本のトップ医療従事者に率いらせた。全国調査を指揮するグループは疫学者の担当とした。ここでは、範囲、伝搬、病気に関連するリスク要素を調べる。コウノ自身はウイルス学グループを率いた。病理学者が検死結果分析にフォーカスするグループを率い、神経学者が、スモンの神経的及び腸の症状を区分するグループを率いた。1969年のあいだ、委員会では、40のトップ科学者が参加した。

コウノが別の研究方向のドアを開いたものの、ウイルス狩りは加速した。ちょうどこの時期、米英のウイルス学者によるキーとなる科学的主張が世界中のウイルス研究に対して大きなインパクトを与え始めたが、特に日本のスモン研究にはだ。最初は1960年代、米国立衛生研究所のウイルス学者のCarleton Gajduekによるものである。彼が報告したのは、人間における「遅いウイルス」の証拠の発見である(遅いウイルスとは、最初の感染のずいぶん後に病気を発生すると主張されるものである。つまり、「長い潜伏期」ということだ。第三章を参照のこと)。彼が信じるには、これがニューギニア原住民に広がるクールー病の原因ということだ。クールー病はゆっくりと進行する神経病であり、運動機能の衰弱につながる。患者はパーキンソン病と同様の震えと麻痺を示した。Gajdusekはクールーウイルスを発見したと主張したが、しかし彼の手法というのは、いかなる科学的標準に照らしても尋常でないものだった。彼はウイルスを分離してはいない。その代わりに死亡者の脳をすりつぶし、これらの不純な混合物を生きた猿の脳に注入した。何匹かの猿が運動障害を示すと、Gajdusekはその発見を世界最古の科学ジャーナルNatureに発表した。仲間のウイルス学者はその功績を褒め称えたものだ。二つ目の主張される発見としては、ロンドンのミドルセックス病院からのもので、1964年である。Gajdusekの主張に直接インスパイアされたもので、二人の研究者が子供のガン、バーキットリンパ腫の原因と信じられたウイルスを発見したというものだ。これがガンを起こすと主張される最初のウイルスであり、そしてまた最初の人間のウイルスである、感染から病気になるまでの孵化期間が数年という、数日や数週間ではなくてだ。

(P17)

これらの主張は非常に大きく、尊敬された研究権威によるものであった。したがって、コウノはこれを無視することができなかった。スモン委員会の他の医療専門家が彼に警告した、スモンの症状は標準的なウイルス感染には似ていないと。この状態が伝染性ではないことを示唆するものだ。しかしコウノは、このアドバイスを無視し、こう主張した。もし科学者が非古典的なウイルスの存在の可能性を考慮しなければ、「ドクターGajdusekは、クールーについての遅いウイルスの因果関係を確立できなかったではないか」。Gajdusekの手法を真似て、彼はスモン患者からの純粋化されていない液体を実験室マウスと猿の脳に注入した。病気を起こし、有罪のウイルスの分離を期待したのだ。これは挫折したが、諦めるわけにはいかない。彼は思った、米国研究者にはこのようなウイルスを発見するより良い装置があるのだろうと。彼は同じ液体サンプルを直接Gajdusekのもとに郵送した。彼は繰り返し、自身のチンパンジーの脳に接種を行っていたのだ。これによって、コウノは最終的に「遅いウイルス」の捜索を放棄した。

彼らのウイルス捜索のつまづきにより、何人かの調査者がバクテリアを探し始めた。一つの研究所が発見したことは、通常は誰でも腸内で成長させている善玉菌のレベルのバランスが、スモン患者では欠けていることである。しかし、何の新たな侵略的微生物を分離することはできなかった。コウノ自身の研究所では、他の二つの研究者と同じように、患者において通常でない量のマイコプラズマは検出できなかった。これは寄生タイプのバクテリアの種類である。しかし、マイコプラズマは人口の大きな部分に発見され、比較的害が無いか、あるいは数例の肺炎を起こすに過ぎないことが知られている。コウノと仲間の研究者はさらなる調査は行わないことに決めた。

1970年までに、一つの事実が、いかなる他よりも苦痛を伴い立ちふさがった。12年にわたるスモン流行に対する研究は、何も生み出さず、行き止まりでしか無いことだ。しかし、死亡数が上昇するに従い、圧力は積み重なった。1969年だけでも、ほぼ2,000人のスモン犠牲者と言われた、最悪の事態である。コウノと彼の委員会は、これ以上手の打ちようがなかった。

(P18)

日本人にとって幸運だったのは、委員会の数人の研究者がウイルスハンターではなかったことだ。そして、これらの科学者が実際に毒物スモン仮説の証拠を再発見したのである。

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その4

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