ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その4

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その3の続きです。

(P18)

ドラッグコネクション

スモン・ウイルスの発見レースが注意を引きつけるようになると、他の科学者達が奇妙な症候群についての重要な証拠をいくつか発見した。薬理学者のベップ博士は、大きく影響を受けた岡山県に1969年に訪ねた、増加する流行調査のためである。そして、独立に発見したのだ、数年前にマエカワのグループが発見した同じ偶然を。スモン患者は下痢治療のために特定の薬を飲んでいたのである。マエカワのグループとは異なり、ベップが調査し発見したことは、クリオキノール(訳注:またはキノホルム)として知られる物質に対する、エンテロ・ヴィオフォルムとエマフォームという異なるブランド名(の薬)であったことだ。これは早期のスモン研究で発見されていた下痢止め薬で、ある種の下痢や赤痢に対する、自由利用可能な医薬品である。ベップは実験室マウスにこれを投与し、スモンのような神経症状を期待した。しかし、マウスが単に死亡したことに落胆した。彼は自らの結果の重要性に気づかなかった。クリオキノールが販売された理由は、これが身体には吸収されず、腸内に残り侵略的細菌を殺すものと思われていたからだ。しかし、ベップの動物の死亡が証明したことは、薬が身体に入らないばかりではなく、動物の多くの重要な組織を殺す可能性であった。次の年には、彼の実験によりスモン委員会はクリオキノールとの関係を再発見することになる。トツカがベップについて説明した。「彼は後に告白しました、馬鹿のように感じたことを。なぜなら、彼は動物が死んだことで実験を諦めてしまったのです」と。「彼は神経障害を証明したかったのですが、単にこの薬の深刻な毒性を証明しただけなのです」。

その一方でスモン委員会の第一の優先事項は、1967年以来報告され全国的なスモン件数の調査を指揮することだった。日本中の医師や病院にアンケートを送って集めたのだ。1969年の秋、委員会が調査データ分析を開始したとき、臨床症状セクションのリーダーが気づいた、何人かのスモン患者の舌に奇妙な緑のコーティングがあるというのだ。国レベルのデータが集まる以前には知られていない症状だった。最初に委員会の他の研究者が示唆したことは、この新たな症状はシュードモナス菌によるものかもしれないと。これは、カラフルな青や緑の色素を放出する。一人の調査者は、患者からそのようなバクテリアを分離していた。しかし、他の患者には無かった。そして、この説明し難い症状が、ただ改訂されたスモンの定義に追加された。緑の舌という観察は、1970年の5月に新たな重要性に到達した。医師グループの一つがスモン患者の緑色の尿に遭遇したのである。科学検査を行うのに十分な色素が抽出された。ごく短い期間で、この物質はクリオキノールが変化したものとわかった。以前にマエカワ委員会やベップが発見していたと同じ薬である。

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これにより、二つの非常に厄介な疑問が持ち上がった。クリオキノールは数年間売られていたが、それは、これが消化器官のアメーバのみを殺し、身体には吸収されえないという仮定のもとだった。舌や尿に出現するということは、この信念が今や間違いであることを証明してしまったのである。したがって、この薬には不測の副作用があるのだろうか?そして、なぜ患者は、他者よりもはるかに明確に薬物副産物を発現するのだろう?この後者の疑問は、特に一人の神経学教授を悩ませた。新潟大学のツバキ・タダオである。彼はその知識に基づき推測し、早期の調査者が捨ててしまった仮説を定式化したのである、つまり、スモンはクリオキノール消費によるものであり、ウイルスではないと。

予測されたように、スモンが非伝染性の症候群であるという解釈は、ウイルスハンター達の人気を得られなかった。そして、クリオキノールが有罪かもしれないという示唆は、さらに強力な抵抗を引き起こした。スモンの、まさに腹部症状の治療のためにこの薬が使われていたためだ。当然だが、医師たちは、これらの腹痛を自ら悪化させ、さらに被害者に対して深刻な神経ダメージを与えていることを認めたがらなかった。トツカは思い出す、「医師と科学者はウイルスを信じたかったのです。彼らがクリオキノールを処方したからです。この薬の主な副作用としては、便秘と腹痛です。そして、この薬が痛みを引き起こすものですから、医師はさらにこの薬を処方したのです」。医師たちは、クリオキノールの副作用を知らず、腹痛は第一の病気からのものだと仮定し、薬の容量を増やし続け、そして悪循環になった。

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ツバキはわかっていた、自身が強い証拠を収集できたことだ。そして、ウイルス・スモン仮説を破壊できることをだ。ツバキは何人かの仲間を集め、7つの病院におけるスモン患者の小さな研究を設定した。1970年の7月までには、彼は既にいくつかの重要な結論を引き出せるに十分なデータを編纂していた。96%のスモン犠牲者は、病気発現以前に確実にクリオキノールをとっていた。そして、最も深刻な症状の者は、最も高い容量だった。さらに、日本中でのスモン件数は、クリオキノールの販売数に比例していたのだ。

このクリオキノール仮説はスモン症候群のすべての奇妙な特徴を説明していた。例えば、中年女性を好みこと、子供には症例が無いこと(この薬は少量しか与えられていない)。そして、典型的なウイルス感染とは症状が異なることだ。これはまた、スモンが感染性の証拠と言われるものに、新たな光を当てることになった。入院患者における発生傾向、家族でのクラスター、医療従事者を苦しめること、そして夏により多く発生すること。これらすべてが、クリオキノールの使用パターンを反映していた。この流行自体、日本において製薬会社が製造承認を受けた直後に開始したのである。

1970年において、1月のスモン件数は37であり、7月のあいだは、60以上あった。日本の厚生省は、もはや待たないことを決め、即座にクリオキノールについての情報を報道にリリースした。ツバキの研究についてのニュースが、8月初旬には大衆に知らされ、この月のスモン件数は50以下になった。推定されるように、医師たちがクリオキノールの患者への処方を止めたからである。9月8日には、日本政府がこの薬の販売を禁止し、この月の件数は20未満になった。翌年の1971年には、わずか36件。1972年には3件、1973年には1件である。流行は終了した。

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