ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その2

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態の続きです。

ウイルス狩りは猛進した。科学者は、ポリオの場合と同様に、最初に下痢を起こすウイルスの発見を期待していた。この頃を振り返ってコウノは立派にも、初期の自身のバイアスに正直である。その当時、彼は仲間のウイルス学者に言った。「当時私はポリオウイルス研究に取り組んでいたため、そのようなウイルスが原因だと疑ったのです」。捕まえにくいウイルスの捜索に何年もかけたにも関わらず、いかなる患者からも、一つたりとも分離することができなかったのだ。コウノは忍耐強くその皆無の結果を報告し、コツコツと前進した。

流行が大きくなる一方、1964年の(東京)オリンピックが近づいてきた。その前年には96件の新たな症例が診断され、症例数と共に、新たな症状が伴っていた。例えば、何人かの犠牲者は、今や進行性の失明に苦しんでいた。1964年オリンピックの世界中からの旅行客の準備をしながら、日本は制御不能の疫病を持つ暇などほとんどなかった。物事をさらに悪くしたのは、戸田市周辺に突然46人の患者が現れたことだ、ここはオリンピックゲームの場所の一つである(訳注:埼玉県の戸田ボートレース場のこと)。恥ずかしくも「戸田奇病」とあだ名された。この流行が直接的に日本の評判と旅行産業の脅威となり、一方で大衆は流行に対する恐怖にフォーカスした。後にこの病気の犠牲者の弁護士となるトツカ・エツロウは、当時の大衆のムードをこう要約する。「当時非常に心配したものでした。私は大学で物理学生でした。私を含めた一般大衆は、極度に心配したものです。我々は回避の方法がわからず、治療法も無かったのです」。

1964年5月のこと、日本内科医学会の第61回総会で、この病気が正式な話題として取り上げられた。クスイ・ケンゾウは、この症状に見舞われた患者を報告した最初の医師の一人だが、彼がこのセッションの議長を努める。参加した研究者は、この病気に正式な名前を与えた。Subacute Myelo-Optico-Neuropathy(SMON~スモン)というものであり、彼らは標準臨床診断に同意した。日本の厚生省は素早く研究費を提供して、流行調査の正式な委員会を立ち上げた。このリーダーは、マエカワ・マゴジロウ、京都大学教授である。コウノはこの委員会のウイルス学者達の一人であり、その使命はウイルスの正式な捜索である。

同じ年に、ブレークスルーの最初の兆候がもたらされた。久留米大学ウイルス学者のシングウ・マサヒサと委員会の仲間が彼の発見を声明した、スモン患者からの放出物の中のウイルスの発見である。このウイルスはエコー(echo)・ウイルスに区分された。これは、enteric crtopathogenic human orphan virusの略である。このウイルスはorphans(孤児)と呼ばれるが、その理由としては、ポリオ研究において偶然発見されたが、しかし、何の病気も起こさなかったためである。エコー・ウイルスは胃や腸に感染することで知られていた。そしてシングウは、様々なスモン患者において、感染の証拠を見つけたのだ。彼は興奮して結論を引き出した、このorphanウイルスが、とうとうこの病気に一致したのだと。おそらく彼は推測したのだろう、このウイルスがときどきは神経システムに侵入すると、ポリオウイルスと同様にだ。彼はその発見を1965年に発表する。恥ずかしげもなく自慢したものだ、彼がこの症状の原因を分離したと。

しかしコウノは、この病気に対して間違った微生物を非難する破滅的な可能性がわかっていた。より注意深い態度をとったのである。1967年のこと、シングウの主張を確認しようとする三年の研究の後、彼がスモンシンポジウムに報告できたことはわずかに、患者からウイルスを分離できなかったこと、さらに患者が以前に感染していたという間接的な証拠も発見できなかったことだ。コウノによるマシな判定により、日本の科学を間違った方向に暴走することから救ったのだ。彼の主張は四年後に完全に証明された。他の研究者が声明したのだ、シングウのウイルスが危険であることを示唆する何の証拠も存在しないことを。

実りのない調査のさなか、マエカワのチームが驚くべき観察を行った。これは悲劇的にも排除されたものである。病院での調査によれば、スモン患者の半分が以前に下痢止めの薬を投与されていたことだ。このブランド名としてはエンテロ・ヴィオフォルム錠である。後の半分は複合市販薬のエマフォームである。両方の薬とも、消化器疾患に投与されていた。これはスモンの初期症状である。当然のことながら疑惑が持ち上がる、これらの薬が症状に何らかの役割があるのではないかと。しかし委員会は、ウイルス仮説の意図があり、スモンに対する伝染性という同意済の見方に屈してしまった。そして、すぐに却下されたのである。これらの薬は同じ新たな病気の原因ではありえないと。しかし、委員会の研究者がさらなるチェックをして発見したのだ、この二つの薬は単にブランド名が異なるだけで、同じ薬であることを。この事実は数年間浮上することはなかった。

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その3

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