ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その5

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その4の続きです。

(P21)

次の数年間、委員会の研究はクリオキノールの役割に集中した。1975年には包括的なリリースがされた。この症候群の流行と薬の使用が、システム的免疫学的調査によって一致したのだ。そして、マウスからチンパンジーまでの動物実験が行われた。これでわかったことは、この薬が犬や猫において、スモン様の症状を最も完全に再現することである。その一方で、調査官達は世界中のスモン症状を明らかにし始めた、どこであれクリオキノールが販売されていた場所だ。おおよそ100件であり、公開されたレポートとしては、1930年代のアルゼンチンから、より最近では英国、スウェーデン、オーストラリアである。度々医師が具体的に指摘していたのだ、クリオキノールや同様の物質の使用を。国際的な製薬会社であるチバガイギー(Ciba-Geigy)は、日本での流行の数年前にこれらの事件の警告を受け取っていたのである。この事実は後に製薬会社への訴訟の勝訴の基盤となった。

クリオキノールはたびたびエンテロ・ヴィオフォルムというブランド名で販売されたが、世界中の多くの国で数十年間利用可能であった。日本以外の国の医師がスモン様の症状についてレポートを出したが、この薬が広く利用されている欧州、インド他の国での病気の流行は起こらなかった。大きな違いとしては、日本におけるクリオキノールの大きな消費である。ここ(この国)では、心臓よりもむしろ腹が感情の座とみなされているのである。この国における一般的な処方のし過ぎがさらに問題を悪化させた。つまり、多くのスモン患者はクリオキノールのみならず、他の複数の薬を服用していたのだ。度々は同時にである。政府の健康保険は、これらの医療のし過ぎを促進した。医師が患者に薬を処方する都度支払ったのである。その結果、日本の健康保険予算が製薬企業の薬に支払ったのは1961年の26%から1971年の40%に増加した。他国の何倍も高いレベルである。日本政府がクリオキノールの禁止を決断したときまでに、最も影響を受けたスモン患者の多くが、それぞれ数ヶ月の間に数百グラムを消費していた。しかし、世界の他でのクリオキノールの使用としては、ほとんど海外旅行の際の下痢を防ぐ目的だった。日本人は通常入院患者として薬を受け取る、既に弱体化した状態の中でだ。

数年後の1979年のカンファレンスでコウノ・レイサクが聞かれた「なぜ1970年になるまで、病因学はクリオキノールを思いつかなかったのでしょう?」この質問には二つの答えがあった。両者ともコウノ自身が指摘したものだ。

(P22)

医師がクリオキノールに関係するのではと疑ったときに、少なくとも二つの状況がありました。私はある教授を知ってますが、彼のスタッフである医師がクリオキノールとスモンを結びつけようとした時に叱責したのです。1967年のことですが、スモンに関する国立病院の研究グループが次のように報告しました。エンテロ・ヴィオフォルム(クリオキノールのブランド名)、メサフィリン、エマフォルム(クリオキノールの原産会社)、クロロマイセチン、そしてイロソンがたびたびスモン患者に処方されたが、しかし、エンテロ・ヴィオフォルムとスモンには何の関係も見つからなかったと。このレポートでは特にエンテロ・ヴィオフォルムに言及していますから、この研究グループの誰かしらが、クリオキノールが疑わしいと思っていたのです。この調査の責任者であるドクター・ツガネはこう言いました、この調査はクリオキノールが原因物質であることを明るみに出すほどの徹底して十分なものではないと。理由の一つとしては、スモンの腸疾患のための薬としてクリオキノールが使われたことかもしれません。そして、クリオキノールが薬ではなく毒物であるなどとは信じがたかったのです。

ここで、マエカワのグループによるクリオキノールへの一時的な示唆に言及しながら、コウノが観測したことは、あまりに多くの医師たちが医原性(医師の治療を原因とする)の病気の可能性の認識を拒否したことだ。当然のことだが、そもそも、その症状のために処方した薬が、まさにその症状を引き起こしているとの考えを彼らは気に入らなかった。

(P23)

クリオキノールを見逃してしまった、もう一つのより根本的な理由としては、ウイルス学者の支配的な態度にある。コウノが表現したように「我々は未だにパスツールやコッホの亡霊に捕らえられていたのです」。漠然とポリオ様の症状のスモンが最初に現れたのは、ポリオに対する戦争の最中だった。コウノも含めてポリオのウイルス学者は、新たな病気の原因として新たなウイルスを探すという傾向があった。日本政府はポリオウイルス研究に資金を出し、単純に同じウイルス学者がスモンを研究するように資金提供で推進し続けた。このようにしてウイルスハンターは、不当に大きな研究資金と注目を受けた。その力が、スモン研究プログラムを方向づけたのである。委員会に非ウイルス学者を任命するというコウノの先見性がなければ、この流行はもっと長く続いていたかもしれない。

最終的に流行は終了し、真実があまねく認識された。ウイルス学者達は教訓を学び、スモン・ウイルスの捜索は終了した。

あるいは、そうなのか?信じがたいことに、あらゆる証拠に反して、スモン・ウイルス狩りが突然戻ってきたのである、流行終了の数週間後にだ。この症候群の原因の戦いは、さらに数年引き延ばされた。クリオキノールの禁止の後でスモンそのものが消え失せたという事実を、単純に無視するウイルスハンター達によってである。

ウイルス狩りの復活

1970年の2月のこと、当時のスモン研究委員会は未だに流行の原因を探すべくスクランブルしており、何人かの研究者が何人かの患者からの緑色の色素に気が付き始めただけだった。そして、京都大学ウイルス研究所のイノウエ・シゲユキ助教授がスモン患者の脊髄液と放出物においてウイルスを発見したと主張した。彼はその抽出物を研究所のハムスターの腫瘍と共に培養皿に入れ、この細胞を殺す新たな病原菌を見つけたのである。さらなる実験を行い、イノウエはこの微生物を新たなヘルペスウイルスと区分した。彼は、自身の検査した40人以上のすべてのスモン患者のうちの、ほぼ全員からこの特定のウイルスを分離することができた。そして、他の犠牲者からもこれに対する抗体を発見した。

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