ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その6

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その5の続きです。

(P24)

コウノ・レイサクは、これらの観察のテストに即座に動いた。彼はイノウエ自身のウイルス分離と細胞培養を使ったのだ。ウイルスがいくつかの細胞を殺したと発見したイノウエの最初のレポートから三ヶ月以内のことである。しかし、これらの特定の細胞は極度に敏感であり、非感染培養の中でさえ自発的な死の傾向があった。コウノはこのウイルスには害が無いのではと疑う。彼はまた、イノウエの研究所とは異なり、いかなるスモン患者からもウイルスを分離できなかった。彼は大っぴらに疑問を呈した、おそらくは主張されるウイルスは全く存在しないのではないかと。

多くの科学者がコウノの側についた。スモン犠牲者の中にウイルスなど発見できないし、イノウエの研究所からのウイルスサンプルを培養皿に入れても細胞死は起こらないと主張した。さらに、イノウエの抽出物をマウスに注射しても症状が起こらないと。本当にコウノと他の調査者の何人かはウイルスを全く発見できなかったのである。これがさらに、本当に存在するのかという疑問をつのらせた。イノウエから彼らに送られたサンプルの中にさえ、ウイルスは検出されなかったのである。イノウエの言うウイルスを注射されたマウスは病気になったことがあるかもしれない。しかし、その症状はスモンとは似ていないのだ。コウノは同僚の中から仲間を得た。彼らの多くがイノウエの観察を再現できなかったのである。いかなる科学的主張にとっても厄介な問題だ。

にも関わらず、その一方でイノウエは彼の「スモン・ウイルス」のためにセレブリティの地位を得た、1970年のクリオキノールについての声明のあった8月以前のことだ。日本のメディアは時期尚早にも彼の結果を発表し、スモンの原因がわかったとの広範囲の印象を作り出した。伝染病のヒステリーが国中の多くを襲った。これにより、恐れたスモン患者の家族がその「感染した」親族とのコンタクトを避けたり、多くの犠牲者が自殺をはかるという結果になった。「患者は隔離され、多くが自殺をはかった。国中でのパニックでした」と、トツカは目撃した恐怖を思い出す。「私は親族を失くした家族達に会いました。900の患者のうちのほとんど全員から聞いたんです。患者のほとんどが言うには、病気を死ぬほど恐れたと。皆がそのこと言い、苦しみを言いました。いったん薬であることがわかると、彼らは安心したのです。伝染性ではなかったからです」

新たなウイルス性スモン仮説が、それ自体の生命を持ち、何人かの科学者がイノウエに乗った。クリオキノールが禁止され流行が実質的に消え失せた数ヶ月後のこと、いくつかの研究所が興奮気味にレポートを出した。イノウエの発見を再現できたというのだ。イノウエ自身がさらに強調した、マウスでスモン様症状を起こしたと。これには、体重減少、麻痺、神経ダメージが含まれる。いずれもウイルスを脳に注入するか、あるいは感染と戦えない免疫抑制されたマウスにウイルスを与えてのことだった。イノウエと協調する科学者はまた、電子顕微鏡でウイルス写真を撮影したと主張した。ただし、イノウエの同僚は最終的に彼自身のレポートを間違いだったと撤回している。

(P25)

スモン研究委員会の会合が最終的にこの物議を解決するために1972年の7月に開かれた。この時まで、イノウエの結果はクリオキノール研究と同程度の注意と心配が払われていた。しかし、多くの科学者が同じ結果を再現できないという点に基づき~これはいかなる科学的仮説であれ、受け入れるためには行われなければならないが~委員会メンバーはこれ以上イノウエ・ウイルスの研究努力にはフォーカスしないと決めた。サンプルは将来研究のために凍結され、それ以来グループはそのリソースをクリオキノール研究に向けたのである。

確認可能な証拠の欠如にも関わらず、またクリオキノール禁止の後でのスモン消失にも関わらず、イノウエと彼を支持する同僚はウイルス仮説の証拠となるレポートを公開し続けた。この公開により、海外でもイノウエ仮説が流れた。これはReview of Medical Microbiologyという米国のテキストブックの1974年のエディションである。ここにイノウエによるスモンのウイルス仮説が含められた。

イノウエ仮説をめぐる好意的な出版にショックを受け、怒りを持ったコウノは、英国ジャーナルのランセットに手紙を書く。この手紙は1975年8月に公開された。国際的なウイルス研究の人気により、イノウエ仮説は科学者の興味をそそった。しかしまた、コウノはわかっていた、日本以外でのスモンの話についてのほとんど完全な無知と、自身が戦っていることを。

Inoue et al.がスモンウイルスについて複数の論文を公開しており、イノウエのウイルス理論が確認されたものとして標準的教科書に掲載されています。しかし、日本のスモン研究委員会の研究所での研究では、イノウエの結果を確認できていません。不運にも、このネガティブな情報が英語で出版されていません。

(P26)

流行の死亡者がオフィシャルに終了したのが1973年である。11,007人の犠牲者で、数千の死亡者が含まれる。以前に報告されていたクリオキノールの毒性をチバガイギー社が無視したことを知り怒った多くの患者が、1971年の5月に訴訟を起こした。日本政府、日本チバガイギー、この薬の他15の販売者、そして23の医師と病院である。原告の規模はすぐに4,500人になり、訴訟は23の日本の地方裁判所で起こされた。スモン犠牲者の最大グループが合同で東京地裁に提訴した。彼らの弁護士の遅く決断力のなさに対する失望が積み重なり、900名の原告が別れて第二グループを形成した。新たな法チームによる攻撃的調査より、この事件が息を吹き返し、並行訴訟における原告の位置を支えた。30人の法チームの一人、トツカ・エツロウがこの戦いを説明する。

我々のチームが唯一、国外の情報を集め、海外専門家を招き、日本の裁判所で証言してもらったのです。そして、発見したのです、米国のFDAがクリオキノールを日本の10年前に規制しており、チバガイギーに対する国際的なキャンペーンを行ったことを。

我々は多くの海外医師を発見しました、彼らは以前にクリオキノールの副作用を報告していたのです。彼らはチバガイギーにコンタクトされ、一人か二人を除き、我々に援助しないよう従わされていたのです。我々が医師に会う以前に、彼らはすでに向こう側からコンタクトされていました。彼らは旅行に招かれ、何人かはチバガイギーの本部に行っていました。思うに彼らは既に埋め合わせされたのでしょう、我々に何も言うなという条件の下で。

両者共に数年間のあいだとことん戦った。しかし、コウノのスモン研究委員会のメンバーによる証言が圧倒的に証明したのだ。そして、裁判所における一連の勝利が続いた。

(P27)

今日の日本国外のほとんどの科学者や素人はウイルス・スモンの物議について聞いたことが無い。クリオキノールの販売者に対する訴訟さえ知らず、クリオキノールについてのドイツや英国でのテレビドキュメンタリーも、そして医原病についての1970年代の二つのカンファレンスについてもだ。スモン研究が15年の間その毒性の証拠を無視し、欠陥のあるウイルス仮説の前に数千の人間の命を犠牲にしたことは、記録に残るにはあまりに恥ずかしいことである、ウイルスハンティング権威にとっては。

エイズ:スモン災害のアンコールか?

ロサンゼルスにあるカリフォルニア大学の医療センターのマイケル・ゴットリーブが奇妙な病気で死につつある5人の患者を診たのは1981年の初期であった。彼は既に新たな流行の兆しではないかと疑っていた。スモンのようにエイズもまた、次の10年で劇的に成長した。他の新たな感染流行のような爆発的なものではなかったものの。つまり、季節性インフルエンザや、抗生物質以前のコレラのようにである。エイズは米国と欧州の大きな都市において、狼狽させるほど突然現れたのだ。それとまた、アフリカやカリブ諸国である。これらの国々の神秘主義に乗った型にはまった概念が、広範囲にわたる破壊物語に信頼性を与えた。

ピーター・デュースバーグ:薬害スモン病の失態、その7

 

 

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